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福島県

会津大塚山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

会津大塚山古墳  / アイヅオオツカヤマコフン

前方後円墳 4世紀

三角縁神獣鏡が出た、東北地方屈指の大きさをもつ前期の前方後円墳。

会津大塚山古墳とはどんな古墳か

福島県会津若松市一箕町にある前方後円墳です。会津若松市は、市街地の北東部にある標高270メートルの独立丘陵上の尾根を利用して作られた全長114メートルの東北地方屈指の大型前方後円墳とし、築造年代を4世紀中頃と考えています。

文化庁の解説文の数字はこれと違います。比高30メートルの独立丘陵に所在し、主軸の長さは90メートル、後円部は径45メートル・高さ6メートル、前方部は幅23メートル・高さ3.5メートル。築造年代は「4世紀末ともいわれる」としています。同じ古墳に、114メートルと90メートルという二つの数字があります。

昭和39年(1964年)に後円部が調査され、北と南に並ぶ二基の木棺の痕跡が見つかりました。出土品337点は国の重要文化財「会津大塚山古墳出土品」です。

会津大塚山古墳の読み方と別名

読みは「あいづおおつかやまこふん」です。ただし公式の資料では、二つの名が使い分けられています。

国の史跡としての指定名称は「大塚山古墳」で、文化庁のデータベースのふりがなも「おおつかやまこふん」です。いっぽう国の重要文化財としての名称は「会津大塚山古墳出土品」で、こちらには「会津」が付きます。同じ一基について、史跡の名と出土品の名が違うということです。

大塚山という名の古墳は全国にあります。会津を付けて呼ぶのは、そのためでもあります。

会津大塚山古墳(あいづおおつかやまこふん)

国の重要文化財の名称に用いられる形。文化庁は出土品を「会津大塚山古墳出土品」として指定している。

大塚山古墳(おおつかやまこふん)

国の史跡としての指定名称。文化庁のデータベースは、ふりがなを「おおつかやまこふん」としている。

一箕古墳群(いっきこふんぐん)

この古墳を含む古墳群の名。飯盛山古墳・堂ヶ作山古墳とあわせて三基の大型前方後円墳が確認されている。

会津大塚山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。会津若松市も文化庁も、築造年代と副葬品を記すだけで、人物については触れていません。

それでも副葬品からわかることは多くあります。会津若松市は、副葬品として三角縁神獣鏡や銅鏃、三葉環頭大刀、直弧文のある靭などが出土したとし、その組み合わせは畿内にある前期古墳に通じて見られるもので、東北地方の古代史解明に大きな役割を果たしているとしています。文化庁も、出土品を「東北地方の古墳として最も古く、また畿内文化の影響下にある優品である」としています。

昭和39年の調査では、後円部の中心から南北二基の木棺の痕跡が見つかりました。南の棺のほうが古く、残っていた歯から老齢の男性と推定され、この古墳の主と考えられています。

断定できない:わかっていない

築造年代と副葬品を詳しく記すが、被葬者については触れていない。

陵墓ではなく、国の史跡として扱われている:宮内庁の治定は無い

指定年月日を1972年5月26日、所在地を会津若松市一箕町とする。

会津大塚山古墳の大きさと形

会津若松市は、この古墳を全長114メートルの東北地方屈指の大型前方後円墳としています。いっぽう文化庁の解説文は、主軸の長さを90メートル、後円部は径45メートル・高さ6メートル、前方部は幅23メートル・高さ3.5メートルとし、前方部がせまく、かつ低い形態を示す古墳としています。

どちらが誤りというわけではありません。文化庁の解説文は1972年の史跡指定のときのもので、当時は前方部が狭く細長い柄鏡形の古墳と考えられていました。その後の再測量で、前方部の幅がもっと広く、墳丘も後円部三段・前方部二段に築かれていることがわかりました。

古墳は、標高270メートルの独立丘陵の尾根の上にあります。丘陵の下からの比高は30メートルです。

墳丘の全長(会津若松市):114メートル

主軸の長さ(文化庁の解説文):90メートル

後円部と前方部(文化庁の解説文):後円部は径45メートル・高さ6メートル、前方部は幅23メートル・高さ3.5メートル

会津大塚山古墳はいつ作られたか

築造年代についても、公式の資料で数字が分かれています。会津若松市は4世紀中頃、文化庁の解説文は4世紀末ともいわれるとしています。

どちらにしても、東北地方では最も古い時期の古墳のひとつです。文化庁は「このような古い古墳が東北地方の山岳地帯に存在していることは東北地方の開拓の歴史からみて学問的にはきわめて重要なことである」と記しています。

この調査によって、会津がヤマト王権の影響下に入ったのは7世紀の東北遠征以降だという従来の見方は、大きく書き換わりました。同じ福島県の大安場古墳群とあわせて、東北の前期古墳を語るときに欠かせない一基です。

会津大塚山古墳の場所と行き方(観光情報)

会津若松市は、大塚山墓園管理棟に大塚山古墳の解説板を掲示しているとしています。

また後円部の上には、かつて大塚山の東の麓にあった石仏古墳から出土したと伝わる石棺の蓋が置かれています。もとの古墳から運ばれてきたものが、いまは大塚山古墳の上にある、という状態です。

会津大塚山古墳(大塚山古墳)

地図で開く

会津大塚山古墳(大塚山古墳)の住所:会津若松市一箕町

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁の陵墓ではなく国の史跡ですので、陵墓のような立ち入り禁止の扱いは受けていません。会津若松市は、大塚山墓園管理棟に大塚山古墳の解説板を掲示しているとしています。ただし墳丘に登れるかどうかについては、公式のページで確認できませんでした

文化庁のデータベースは、所在都道府県を福島県、所在地(市区町村)を会津若松市一箕町としています。

古墳のある丘陵一帯は、会津若松市によって墓地公園として整備されました。文化庁の解説文にも、この前方後円墳とすぐそばの円墳一基は墓地公園内の緑地として活用される予定である、と記されています。いまの墓地と千六百年前の墓とが、同じ丘に並んでいます。

会津大塚山古墳の発見と調査の歩み

  1. 三角縁神獣鏡が語ったこと
  2. 二つの棺、二人の被葬者
  3. 90メートルか、114メートルか

三角縁神獣鏡が語ったこと

昭和39年(1964年)の調査で見つかった副葬品のうち、いちばんよく知られているのが三角縁神獣鏡です。

この鏡は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へ、その証として分け与えていたと考えられています。会津の丘の上でこの鏡が見つかったことは、四世紀の時点で会津にヤマト王権を構成する首長がいたことを示しました。

それまで、会津が大和の勢力の下に入ったのは7世紀の東北遠征以降だと考えられていました。この調査は、その見方を三百年ほどさかのぼらせたことになります。鏡はほかに、南の棺から変形四獣鏡、北の棺から捩文鏡が出ています。

二つの棺、二人の被葬者

後円部の中心からは、北と南に並ぶ二基の割竹形木棺の痕跡が見つかりました。会津若松市は「2基の木棺の痕跡が北と南に2つ並んで発見されました」と記しています。

南の棺のほうが古い埋葬で、残っていた歯から老齢の男性と推定され、この古墳の主と考えられています。北の棺からも、量は少ないものの南と同じような副葬品が出ました。

一つの墳丘に二人が葬られていた、ということです。同じことは、滋賀県の雪野山古墳でも起きています。あちらも後円部の中央に二基の埋葬施設が並んでいますが、調査されたのは片方だけでした。会津大塚山古墳では両方が調査され、副葬品の量の差から、二人の立場の違いまで読み取れるようになっています。

90メートルか、114メートルか

この古墳の全長には、二つの数字があります。文化庁の解説文は主軸の長さ90メートル、会津若松市は全長114メートルとしています。

差が生じた理由ははっきりしています。1972年の史跡指定の当時、この古墳は前方部が狭く細長い柄鏡形の古墳と考えられており、その見方にもとづく数字が文化庁の解説文に残っています。

ところが1988年の再測量で、全長114メートル、後円部径70メートル・高さ約10メートル、前方部前幅54メートルという、まったく違う姿が明らかになりました。測り直すたびに、古墳の大きさは書き換わります。この図鑑では、出典を添えて両方を載せています。

会津大塚山古墳から出土したもの

出土品337点は、国の重要文化財「会津大塚山古墳出土品」として一括で指定されています。文化庁は、保管施設の名称と所有者名をどちらも会津若松市としています。

文化庁の解説文は、その内容を「南・北槨より三角縁神獣鏡をはじめ、変形獣文鏡、捩文鏡、靱、碧玉紡錘車、素環頭大刀など古墳時代前期を特色づけるもの」としています。東北地方でこれだけ多くの副葬品が出た古墳は、ほかにありません。

三角縁神獣鏡

南の棺から出土した日本製の鏡。ヤマト王権が地方の豪族に分け与えたと考えられている。

三葉環頭大刀

柄頭に三つの葉の飾りをもつ大刀。会津若松市が主な副葬品として挙げている。

直弧文のある靭

矢を入れて背負う道具。直弧文という直線と弧を組み合わせた文様が施されている。

碧玉紡錘車

文化庁が出土品の解説で挙げるもの。変形獣文鏡・捩文鏡・素環頭大刀とともに指定されている。

会津大塚山古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

会津大塚山古墳についてよくある質問

会津大塚山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。会津若松市も文化庁も被葬者に触れていません。南の棺の歯から老齢の男性と推定される、というところまでです。

会津大塚山古墳はどこにありますか。

文化庁は所在地を会津若松市一箕町としています。会津若松市は、市街地の北東部にある標高270メートルの独立丘陵上の尾根を利用して作られたとしています。

会津大塚山古墳の大きさはどれくらいですか。

会津若松市は全長114メートル、文化庁の解説文は主軸の長さ90メートルとしています。二つの数字があります。

会津大塚山古墳はいつ作られましたか。

会津若松市は4世紀中頃、文化庁の解説文は4世紀末ともいわれるとしています。どちらにしても、東北地方では最も古い時期の古墳のひとつです。

会津大塚山古墳の中に入れますか。

陵墓ではないため宮内庁による立ち入り制限はありません。丘陵一帯は墓地公園として整備され、大塚山墓園管理棟に解説板が掲示されています。墳丘に登れるかどうかは公式のページで確認できませんでした。

会津大塚山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)

縁の断面が三角形で、神と獣の文様をもつ鏡。前期の古墳から各地で出土する。

割竹形木棺(わりたけがたもっかん)

丸太を縦に割ってくりぬいた木の棺。前期の古墳でよく使われた。

直弧文(ちょっこもん)

直線と弧を組み合わせた日本独特の文様。石棺や武具の飾りに用いられる。

重要文化財(じゅうようぶんかざい)

国が指定した価値の高い有形文化財。古墳の出土品は一括で指定されることが多い。

会津大塚山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 会津若松市
  2. 文化庁