全国屈指の長さの石室から、国宝の副葬品が出た終末期の大型円墳。
宮地嶽古墳とはどんな古墳か
福岡県福津市にある大型の円墳です。文化庁は、国の史跡「津屋崎古墳群」の解説文のなかで、この古墳を宮地岳の南斜面に位置する円墳とし、直径35mと推定されるとしています。
注目されるのは埋葬施設です。文化庁は「主体部は、無袖の横穴式石室の奥に横口式石槨を設ける特異な形式である」とし、「石室長は22mを測る長大なもの」と記しています。
昭和9年(1934年)に古墳の前で社務所を建てた際、金銅製の頭椎大刀や馬具、ガラス板などが見つかりました。文化庁は、これらを古墳の副葬品を再び埋め納めたものと考えられるとしたうえで、国宝に指定されていると記しています。築造は7世紀前半とされます。
宮地嶽古墳の読み方と別名
読みは「みやじだけこふん」です。「嶽」は山を意味する字で、地名としては「宮地嶽」、山の名としては「宮地岳」と、二つの字が使い分けられています。文化庁の解説文も、古墳の名には「嶽」、山の名には「岳」を当てています。
史跡としての名は「津屋崎古墳群」で、文化庁のふりがなは「つやざきこふんぐん」です。文化財の資料を探すときには、古墳の名で引くよりも、この群の名で引いたほうが早く行き当たります。
もう一つ、国宝には「筑前国宮地嶽神社境内出土骨蔵器」という指定名称もあります。こちらは古墳ではなく、近くで見つかった火葬墓の骨壺です。
宮地嶽古墳(みやじだけこふん)
文化庁が史跡の解説文で用いる名。「嶽」は山の意で、地名の宮地嶽からきている。
宮地岳(みやじだけ)
古墳が築かれた山の名。文化庁の解説文は「宮地岳の南斜面」と書き、山名には「岳」を当てる。
津屋崎古墳群(つやざきこふんぐん)
国の史跡としての指定名称。宮地嶽古墳は、この群を構成する一基として指定されている。
宮地嶽古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、確かめられていません。
ただし文化庁の解説文は、一つの説をはっきり挙げています。津屋崎古墳群について「海上交通を担い、沖ノ島祭祀に関わりを持つ胸形君一族の墳墓群であるという可能性が高い」としたうえで、「なかでも、宮地嶽古墳は天武天皇妃尼子娘の父親である『胸形君徳善』を被葬者とする説が有力である」と書いています。
胸形君徳善は、この地方を治めた豪族の長です。その娘の尼子娘が大海人皇子との間に高市皇子をもうけたと『日本書紀』に見え、その時期が、この古墳の7世紀前半とおおむね重なります。
もっとも、古墳から人物の名を示すものが出たわけではありません。この古墳は宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡として扱われています。
学術的な見方のひとつ。文化庁が「有力である」と記す説:胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)
天武天皇の妃とされる尼子娘の父にあたる人物。古墳から名を示すものが出たわけではない。
学術的な見方のひとつ:胸形君一族の首長
津屋崎古墳群全体を、海上交通を担った胸形君一族の墳墓群とみる可能性が高いとする。
宮内庁の治定は無い。国の史跡として扱われている:治定はされていない
陵墓ではなく史跡の一基として指定されており、調査と公開ができる立場にある。
宮地嶽古墳の大きさと形
文化庁は、この古墳の墳丘を直径35mと推定される円墳としています。円墳としては大きな部類にあたりますが、この古墳の見どころは墳丘よりも石室です。
文化庁によれば、石室長は22m。石室の奥から約3メートルの位置で、両側の壁石に龕のような掘り込みが設けられています。長さ二十メートルを超える石室は、全国を見渡してもごくわずかしかありません。
史跡「津屋崎古墳群」全体の指定面積は222200.76平方メートルで、この古墳群の時代は5世紀前半から7世紀前半とされています。
墳丘の直径:35mと推定される
石室の長さ:22m
龕のある位置:石室奥から約3m
史跡「津屋崎古墳群」の指定面積:222200.76平方メートル
出土品の保管施設:九州国立博物館
宮地嶽古墳はいつ作られたか
文化庁は、この古墳について「石室の形態や出土した須恵器から、7世紀前半に位置付けられる」としています。古墳時代の終わりごろ、いわゆる終末期にあたります。
同じころの畿内では方墳や八角墳が造られ、石室も切石を組んだ横口式石槨に変わっていきます。宮地嶽古墳の石室が横穴式石室と横口式石槨の二つをあわせもつのは、その移り変わりの時期にあたるからだと考えられます。
文化庁は、津屋崎古墳群全体の時代を5世紀前半から7世紀前半としています。この一帯では二百年にわたって首長の墓が築かれ、宮地嶽古墳はその最後に位置します。
宮地嶽古墳の場所と行き方(観光情報)
津屋崎古墳群は、文化庁によれば北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群などからなります。宮地嶽古墳は、そのうち南寄りに位置するとされます。
同じ群に属する新原・奴山古墳群は世界文化遺産の構成資産になりました。宮地嶽古墳は世界遺産には含まれていませんが、国宝の出土品という点では群を代表します。
宮地嶽古墳(史跡 津屋崎古墳群)
宮地嶽古墳(史跡 津屋崎古墳群)の住所:福津市勝浦(文化庁が史跡「津屋崎古墳群」の所在地として記す市区町村。番地は確認できませんでした)
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:国の史跡であり、宮内庁の陵墓ではありません。ただし石室の内部に入れるかどうかを記した公式ページは確認できませんでした
文化庁の国指定文化財等データベースは、史跡「津屋崎古墳群」の所在地(市区町村)を福津市勝浦としています。この古墳群は南北7キロメートル、東西2キロメートルの範囲に散らばっており、宮地嶽古墳そのものの番地を記した公式ページは確認できませんでした。
文化庁は、この古墳を宮地岳の南斜面に位置する円墳としています。玄界灘に向かって開けた斜面です。
宮地嶽古墳の発見と調査の歩み
全国でも数えるほどの、長い石室
文化庁は、この古墳の石室を「無袖の横穴式石室の奥に横口式石槨を設ける特異な形式」とし、「石室長は22mを測る長大なもの」と記しています。
横穴式石室は、横から人が入る通路と、棺を置く部屋からなります。無袖とは、その通路と部屋の境に段差が付かない形のことです。その奥にさらに石をくり抜いた石槨を設けるという造りは、ほかにほとんど例がありません。
もう一つの特徴が龕です。壁石そのものを刳り抜いて棚のようにした部分で、副葬品を置いたと考えられています。石は海岸から運ばれ、斜面の中腹まで引き上げられました。
社務所を建てたら国宝が出た
この古墳の副葬品が知られるようになったきっかけは、発掘調査ではありませんでした。文化庁は「昭和9年(1934)に古墳前面で社務所を建設した際に、金銅製頭椎大刀、金銅製鏡板、金銅製杏葉、金銅製鞍金具、金銅製壺鐙、蓋付銅椀、銅盤、ガラス板、ガラス丸玉等の遺物を発見した」としています。
文化庁は、これらを古墳の副葬品を再埋納したと考えられるものとしたうえで、国宝に指定されていると書いています。もともと石室に納められていた品が、いったん取り出されて別の場所に埋め直されていた、ということになります。
金銅とは、銅の表面に金をかぶせたものです。刀の柄頭、馬具の飾り、鞍の金具。どれも人に見せるための品でした。
もう一つの国宝、ガラスの骨壺
宮地嶽古墳の近くからは、もう一つ国宝が出ています。文化庁が「筑前国宮地嶽神社境内出土骨蔵器」として指定している品で、時代は奈良、保管施設は東京国立博物館と記されています。
これは古墳の副葬品ではなく、火葬墓の骨壺です。陶質の合わせ甕の中に銅製の壺があり、その中にガラス製の壺が納められていました。古墳に葬るやり方から、焼いて骨壺に納めるやり方へと、葬り方が変わっていく時期の品です。
宮地嶽古墳が7世紀前半、この骨壺が奈良時代。百年ほどのあいだに、この土地の葬り方は大きく姿を変えました。
宮地嶽古墳から出土したもの
文化庁は、これらの品を「古墳の副葬品を再埋納したと考えられるもの」とし、国宝に指定されていると記しています。つまり、石室の中から掘り出されたのではなく、いったん取り出されて外に埋め直されていたものです。
出土品の保管施設は九州国立博物館、骨蔵器の保管施設は東京国立博物館と記されています。なお石室内部の発掘調査は行われておらず、棺の中にあったものは確かめられていません。
金銅製頭椎大刀
柄の頭が丸くふくらんだ大刀。銅に金をかぶせた飾りをもつ。国宝の一部。
金銅製の馬具
鏡板・杏葉・鞍金具・壺鐙など。文化庁が昭和9年の発見品として名を挙げている。
ガラス板・ガラス丸玉
この古墳を特徴づける品。玉の材料になったとみられるガラスの板も含まれる。
蓋付銅椀・銅盤
銅でつくられた器。海の向こうとのつながりをうかがわせる副葬品とされる。
宮地嶽古墳と関連する古墳
宮地嶽古墳についてよくある質問
宮地嶽古墳は誰の墓ですか。
確かめられていません。文化庁は「宮地嶽古墳は天武天皇妃尼子娘の父親である胸形君徳善を被葬者とする説が有力である」と記していますが、名を示すものが出たわけではありません。
宮地嶽古墳はどこにありますか。
福岡県福津市です。文化庁は史跡「津屋崎古墳群」の所在地を福津市勝浦とし、この古墳を宮地岳の南斜面に位置する円墳としています。番地までは確認できませんでした。
宮地嶽古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁は墳丘を直径35mと推定される円墳とし、石室長は22mを測る長大なものとしています。
宮地嶽古墳はいつ作られましたか。
文化庁は「石室の形態や出土した須恵器から、7世紀前半に位置付けられる」としています。古墳時代の終わりごろ、終末期にあたります。
宮地嶽古墳の石室に入れますか。
石室の内部に入れるかどうかを記した公式ページは確認できませんでした。宮内庁の陵墓ではなく国の史跡ですが、見学の条件は公式には確かめられませんでした。
宮地嶽古墳と併せて覚えたい言葉・用語
横口式石槨(よこぐちしきせっかく)
石をくり抜くか切石を組んでつくった小さな棺室。横に開口部があり、終末期の古墳に多い。
龕(がん)
壁をくぼませて物を置けるようにした部分。宮地嶽古墳では壁石そのものを刳り抜いている。
金銅(こんどう)
銅の表面に金をかぶせたもの。大刀や馬具の飾りに用いられ、身分の高さを示す。
終末期古墳(しゅうまつきこふん)
7世紀ごろに造られた最後の段階の古墳。前方後円墳が姿を消し、方墳や円墳が中心になる。
宮地嶽古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。