玄界灘を望む台地に並ぶ古墳群。古墳として初めて世界遺産になった。
新原・奴山古墳群とはどんな古墳か
福岡県福津市にある古墳群です。文化庁は、世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の解説文で、この古墳群を宗像氏の存在を物語る資産として挙げています。古墳が世界遺産に登録されたのは、これが国内で最初の例です。
史跡としては「津屋崎古墳群」の一部にあたります。文化庁はこの群について「総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する」とし、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたとしています。
21号墳は直径17メートルの円墳で群の中でもっとも早く、22号墳は前方部が削平されているものの推定墳長約80メートルの前方後円墳です。海を見下ろす台地に、大小の墳丘が点々と並びます。
新原・奴山古墳群の読み方と別名
読みは「しんばるぬやまこふんぐん」です。「新原」を「しんばる」と読みます。「しんはら」でも「にいはら」でもありません。
「原」を「はる」「ばる」と読むのは、九州に多く見られる地名の読み方です。福岡県では、前原・春日原・小郡など、各地にこの読みが残ります。
名が二つの地名をつないだ形になっているのは、この古墳群が新原と奴山の両方にまたがるためです。中黒で区切って「新原・奴山古墳群」と書きます。
もう一つ、文化財としては「津屋崎古墳群」という名で指定されています。文化庁のふりがなは「つやざきこふんぐん」。資料を探すときには、こちらの名でも引く必要があります。世界遺産としての登録名称は、また別に長い名が付いています。
新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)
新原と奴山という二つの地名をつないだ名。中黒で区切って表記される。
津屋崎古墳群(つやざきこふんぐん)
国の史跡としての指定名称。新原・奴山古墳群は、この群を構成する一つ。
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群(かみやどるしまむなかた・おきのしまとかんれんいさんぐん)
世界文化遺産としての登録名称。所在地は宗像市と福津市にまたがる。
新原・奴山古墳群は誰の墓か
個々の古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
ただし文化庁は、群全体の性格をはっきり書いています。津屋崎古墳群について「玄界灘に面した宗像地域における5世紀前半から7世紀前半にかけて連綿と築かれた首長墓群として位置付けることができる」とし、「地理的位置を考え合わせると、海上交通を担い、沖ノ島祭祀に関わりを持つ胸形君一族の墳墓群であるという可能性が高い」としています。
世界文化遺産の解説文でも、文化庁はこの古墳群を宗像氏の存在を物語る資産だと記しています。
つまり、特定の個人ではなく、一つの氏族の墓の並びとして理解されているということです。5世紀前半から6世紀後半まで、およそ二百年にわたって同じ台地に墓が築かれ続けました。宮内庁の陵墓としての治定は受けておらず、国の史跡として扱われています。
学術的な見方のひとつ。文化庁が「可能性が高い」と記す:胸形君一族(宗像氏)
津屋崎古墳群全体を、海上交通を担った胸形君一族の墳墓群とみる。
学術的な見方のひとつ:宗像氏
世界文化遺産の解説文が、宗像氏の存在を物語る資産としてこの古墳群を挙げている。
断定できない:わかっていない(個々の被葬者)
解説文は規模と時期を記すが、個々の古墳の被葬者にはふれていない。治定も無い。
新原・奴山古墳群の大きさと形
文化庁は、この古墳群について「総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する」としています。数え方や調査の時点によって基数が変わるため、資料によって数字が違うことがあります。
個々の規模も記されています。21号墳は新原・奴山古墳群の中でもっとも早い5世紀前半の直径17メートルの円墳、22号墳は前方部が削平されているものの推定墳長約80メートルの前方後円墳です。
史跡「津屋崎古墳群」全体の指定面積は222200.76平方メートル、時代は5世紀前半から7世紀前半、指定は2005年(平成17年)3月2日、2016年(平成28年)10月3日に範囲が追加されています。文化庁は、この群全体が南北7キロメートル、東西2キロメートルの範囲に分布するとしています。
現存する古墳の数:27基(前方後円墳5基・方墳1基・円墳21基)
確認された総数:59基
21号墳の直径:17メートル(円墳、5世紀前半)
22号墳の推定墳長:約80メートル(前方後円墳)
史跡「津屋崎古墳群」の指定面積:222200.76平方メートル
新原・奴山古墳群はいつ作られたか
文化庁は、この古墳群について「5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたものである」とし、群全体である津屋崎古墳群の時代を5世紀前半から7世紀前半としています。
もっとも早いのが21号墳で、5世紀前半の直径17メートルの円墳とされます。小さな円墳から始まり、やがて推定墳長約80メートルの22号墳が築かれます。
二百年にわたって、同じ台地に墓が築かれ続けたことになります。文化庁は、津屋崎古墳群を「玄界灘に面した宗像地域における5世紀前半から7世紀前半にかけて連綿と築かれた首長墓群」としています。
同じ群に属する宮地嶽古墳は7世紀前半とされ、この群の締めくくりにあたります。新原・奴山古墳群が終わったあと、宮地嶽古墳のような巨大な石室をもつ古墳が現れました。
新原・奴山古墳群の場所と行き方(観光情報)
文化庁は、津屋崎古墳群が北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群、生家古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、宮司古墳群などからなるとしています。新原・奴山古墳群は、そのうち最も密集度の高い古墳群です。
新原・奴山古墳群(史跡 津屋崎古墳群)
新原・奴山古墳群(史跡 津屋崎古墳群)の住所:福津市勝浦(文化庁が史跡「津屋崎古墳群」の所在地として記す市区町村。番地は確認できませんでした)
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:国の史跡であり、宮内庁の陵墓ではありません。ただし墳丘に立ち入れるかどうかを記した公式の案内は確認できませんでした
文化庁の国指定文化財等データベースは、史跡「津屋崎古墳群」の所在地(市区町村)を福津市勝浦としています。世界文化遺産の欄では、所在地を宗像市と福津市としています。この古墳群そのものの番地を記した公式ページは確認できませんでした。
津屋崎古墳群は南北7キロメートル、東西2キロメートルの範囲に散らばっています。訪ねる前に、福津市の案内で最新の状況を確かめてください。
新原・奴山古墳群の発見と調査の歩み
古墳として初めての世界遺産
この古墳群は、日本の古墳としては初めて世界文化遺産の構成資産になりました。堺市の百舌鳥・古市古墳群より先です。
登録名称は「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」。文化庁は、所在地を宗像市と福津市とし、解説文にこう記しています。
沖ノ島には,4世紀から9世紀の間の古代祭祀の変遷を示す考古遺跡が,ほぼ手つかずの状態で現代まで残されてきました
そのうえで、その信仰を担い育んだ宗像氏の存在を物語る資産が新原・奴山古墳群である、としています。古墳そのものの大きさや副葬品ではなく、沖ノ島とのつながりを示す証拠として選ばれたことになります。
選ばれる過程では、同じ津屋崎古墳群の宮地嶽古墳などが候補から外れました。
海と一体の景色
この古墳群が残った理由の一つが、立地です。
東西に伸びる丘陵の上に、大小の墳丘が並びます。古墳が造られたころ、丘陵の西側には海が深く入り込んでいたとされます。墳丘の上に立てば、玄界灘とその先の島々が見渡せたはずです。
その景色が、いまも保たれています。海に面した台地から海を望むという眺めが、世界遺産としての価値を支えました。福津市は、大島を望む古墳周辺の農地の風景を守るため、眺望の重点区域を定め、不調和な建物や看板を随時撤去していくとされます。
古墳を守るというとき、ふつうは墳丘を守ることを指します。この古墳群では、墳丘から見える景色まで守る対象になりました。ただし、この施策の詳細は公式ページで確かめられませんでした。
削られた古墳、残った古墳
文化庁は「総数59基を確認し、前方後円墳5基、方墳1基、円墳21基の総数27基が残存する」としています。
確認された総数が59基、残っているのが27基。半分以上が失われたことになります。江戸時代や明治時代の新田開発、そして道路の建設によって削られたとされます。丘陵地は、いまも国道によって分断されているといわれます。
1号墳は5世紀中ごろの前方後円墳で、群では四番目の大きさだったとされますが、道路の建設に伴って前方部が消滅しました。そのときの発掘調査で出土した品は回収され、保存されているといわれます。
世界遺産になったのは、そうして半分近くまで減ったあとの姿です。残ったものを守るという話は、いつも失われたもののあとに来ます。
新原・奴山古墳群から出土したもの
文化庁の解説文は、津屋崎古墳群の各群について出土品を記していますが、新原・奴山古墳群については規模と時期を中心に記しており、出土品の一覧は確かめられませんでした。
同じ群の勝浦峯ノ畑古墳からは鏡・大刀・剣・短甲のほか、銅釧・ガラス玉・琥珀製棗玉・琥珀製勾玉などの装身具が出土したとされます。宮地嶽古墳の出土品は国宝に指定され、九州国立博物館に保管されています。
鉄斧
7号墳から出土したとされる。沖ノ島の祭祀遺構と共通する形とされる。
葺石
20号墳や25号墳といった中規模の円墳に葺かれているとされる。
玄武岩の石室材
古墳の石室に使われた石。玄界灘の相島から船で運ばれたと推定されている。
新原百塔板碑
21号墳の墳丘上に立つ鎌倉時代の石碑。福岡県の指定文化財とされる。
新原・奴山古墳群と関連する古墳
新原・奴山古墳群についてよくある質問
新原・奴山古墳群は誰の墓ですか。
個々の被葬者はわかっていません。文化庁は、津屋崎古墳群全体を海上交通を担い沖ノ島祭祀に関わりを持つ胸形君一族の墳墓群である可能性が高いとしています。
新原・奴山古墳群はどこにありますか。
福岡県福津市です。文化庁は史跡「津屋崎古墳群」の所在地を福津市勝浦とし、世界文化遺産の欄では宗像市と福津市としています。番地は確認できませんでした。
新原・奴山古墳群にはいくつの古墳がありますか。
文化庁は、総数59基を確認し、前方後円墳5基・方墳1基・円墳21基の総数27基が残存するとしています。数え方によって基数は変わります。
新原・奴山古墳群はいつ作られましたか。
文化庁は5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたとしています。もっとも早いのが21号墳で、5世紀前半の直径17メートルの円墳です。
新原・奴山古墳群の墳丘に登れますか。
墳丘に立ち入れるかどうかを記した公式の案内は確認できませんでした。国の史跡であり、宮内庁の陵墓ではありません。
新原・奴山古墳群と併せて覚えたい言葉・用語
首長墓群(しゅちょうぼぐん)
同じ地域を治めた歴代の首長の墓が、長い期間にわたって並ぶ古墳群。
構成資産(こうせいしさん)
一つの世界遺産を組み立てる個々の資産。新原・奴山古墳群もそのひとつ。
玄武岩(げんぶがん)
黒っぽい火山岩。この古墳群では、石室の材として島から運ばれたとされる。
削平(さくへい)
墳丘を削り取って平らにすること。開発によって古墳が失われる典型的な形。
新原・奴山古墳群の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。