卑弥呼の墓ではないかという説で名を知られる、久留米の方墳。
祇園山古墳とはどんな古墳か
福岡県久留米市の高良山の山腹にある方墳です。筑後平野を一望できる台地の上に立ち、場所の選び方に意図がうかがえる古墳とされます。福岡県が史跡に指定しています。
墳頂の中央には、板石を組んだ箱式石棺が置かれていました。棺の中には朱が塗られていましたが、古い時代に盗掘を受けており、副葬品は失われています。墳丘の裾のまわりからは、甕棺墓や石蓋土壙墓、竪穴式石室墓など、数多くの埋葬施設が見つかっています。
この裾の墓群を殉葬の跡とみるか、長い年月をかけて営まれた集団の墓とみるかで、評価は大きく分かれます。前者に立つ論者は、この古墳を卑弥呼の墓の候補に挙げてきました。高速道路の建設で削られかけ、保存運動によって多くが残されました。
祇園山古墳の読み方と別名
読みは「ぎおんやまこふん」です。祇園という地名から来ているとされます。
古墳の名の多くは地名から付けられており、葬られた人の名とは関係がありません。いたすけ古墳やニサンザイ古墳と同じで、名前から被葬者はわかりません。
この古墳がのる高良山は、筑後平野を見わたす要の場所として、古くから知られてきました。仲哀天皇と神功皇后が滞在したという言い伝え、磐井の乱で筑紫君磐井が陣を置いたという伝え、豊臣秀吉が島津氏を討つときに本陣を置いた吉見岳城など、時代ごとの話が積み重なっています。古墳の名も、その積み重ねの一つです。
祇園山古墳(ぎおんやまこふん)
一般に使われる呼び方。高良山のふもとの祇園という地名から来ているとされる。
祇園山古墳群(ぎおんやまこふんぐん)
同じ台地の南側にある古墳とあわせた呼び方。この古墳を含めて数えられる。
高良山(こうらさん)
古墳がのっている山の名。古墳の名も、この山と、そのふもとの地名から来ている。
祇園山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、まったくわかっていません。
墳頂の箱式石棺は古い時代に盗掘を受けており、副葬品が残っていないためです。近くの高良大社に、この古墳から出たと伝わる三角縁神獣鏡と変型方格規矩鏡がありますが、詳しい由来はわかりません。伝わっている、というだけで、確かめる手だてがないのです。
この古墳が有名になったのは、卑弥呼の墓ではないかという説によります。墳丘の裾のまわりに数多くの埋葬施設があり、それを殉葬の跡とみると、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の墓の記述と重なる、という考え方です。
いっぽう発掘調査の報告書は、この墓群を、長い年月をかけて造られた集団の墓と捉えています。同じ遺構を、まったく違うものとして読む二つの立場が向かい合っています。宮内庁の陵墓にも陵墓参考地にも入っていません。
祇園山古墳の大きさと形
この古墳の墳丘の大きさを記した公式のページは、確かめられませんでした。そのため、寸法の欄は空にしてあります。
形は方墳です。高さのおよそ4分の1を、地山から方形の台状に削り出して造られており、その基部は楕円形をなしています。土を積むだけでなく、もとの地形を削って形を出す造り方です。
葺石は二段にわたって施されています。墳丘の裾の部分と、上段の盛土の部分です。まわりから埴輪は出土していません。埋葬施設は墳頂の中央にある箱式石棺で、石を組んだ室(槨)はありません。この造りは、佐賀県の吉野ケ里遺跡で見つかった墳丘墓や、朝鮮半島の楽浪の墓と似ていると指摘されています。
祇園山古墳はいつ作られたか
祇園山古墳の場所と行き方(観光情報)
福岡県には、五郎山古墳、竹原古墳、王塚古墳、岩戸山古墳、宮地嶽古墳など、性格の異なる古墳が残っています。この祇園山古墳は、その中でもっとも古い時期のものです。
高良山には高良大社や高良山城があり、古墳のほかにも見どころが集まっています。
祇園山古墳
祇園山古墳の住所:福岡県久留米市御井町
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁の陵墓ではなく、福岡県が指定する史跡とされます。立ち入りの可否や見学できる範囲について、公式ページでの記載は確認できませんでした。現地へ行かれる場合は、久留米市にお問い合わせください。
久留米市の文化財資料で、祇園山古墳の所在地は御井町まで確認できます。地番と公式な見学経路は確認できないため、住所は市町名・町名までを掲載し、行き方は推測で補っていません。
場所の目印になるのは、高良山と高良大社です。古墳は高良山から西へ張り出す丘陵の先端、赤黒山と呼ばれる台地の上にあります。九州自動車道に面しており、久留米インターチェンジから高速道路を下り方向へ進むと、車窓から見えると言われます。
祇園山古墳の発見と調査の歩み
高速道路が、古墳を削るところだった
この古墳は、九州自動車道の建設によって削り取られる予定でした。
福岡県の教育委員会と市民による、道路公団への保存運動が起こります。その結果、工事に先立って数次にわたる発掘調査が行われることになりました。
調査でわかった重要性から、工事は基部を部分的に削るだけにとどめられ、遺構の大部分が現地に保存されました。同じことは、堺市のいたすけ古墳でも起きています。あちらは住宅造成のために壊されかけ、市民運動によって守られました。壊されかけた古墳が、その出来事によって名を知られるようになる。この古墳も、その一つです。いま高速道路から見えるのは、削られずに残った部分です。
裾に並ぶ、数多くの墓
この古墳のいちばん変わっているところは、墳丘の裾のまわりです。甕棺墓、石蓋土壙墓、箱式石棺墓、竪穴式石室墓が、数多く見つかっています。
そのうちの一つ、第1号甕棺墓は内側が朱で塗られ、成人女性の人骨とともに、後漢の鏡の破片、大型の硬玉の勾玉、碧玉の管玉、刀子が納められていました。別の墓からは、鉄の武器だけでなく、鎌や錐、手斧といった鉄の農具も出ています。
この墓群をどう読むかで、この古墳の意味はまるで変わります。殉葬の跡と読めば卑弥呼の墓の候補になり、集団の墓と読めば、この地の首長を盟主とする人々の墓地ということになります。発掘調査の報告書は、後者の立場に立っています。
なぜ、資料が少ないのか
この古墳について、公式のページで確かめられる情報はほとんどありませんでした。理由はいくつか考えられます。
第一に、墳頂の石棺が古い時代に盗掘されていること。年代や被葬者を語る副葬品が残っていません。第二に、宮内庁の陵墓ではなく、また国の史跡でもないため、国の文化財データベースに載っていないこと。第三に、高速道路の建設という緊急の事情のもとで調査が行われたことです。
資料が少ないことは、この古墳の価値が低いことを意味しません。むしろ、卑弥呼の墓という大きな話が語られるわりに、足元の記録が薄いという不つり合いこそが、この古墳を見るときに知っておくべきことです。数字を確かめたい方は、福岡県教育委員会や久留米市教育委員会が出した報告書に当たるのが確かです。
祇園山古墳から出土したもの
墳頂の石棺の副葬品は、古い時代の盗掘によって失われています。
いま知られている出土品は、そのほとんどが墳丘の裾のまわりにあった墓から出たものです。つまり、主人公の持ち物ではなく、そのまわりに葬られた人たちの持ち物です。第1号甕棺墓の出土品は、九州歴史資料館に収蔵されています。
箱式石棺
墳頂の中央にある。安山岩の板石を組み、内側に朱が塗られていた。
三角縁神獣鏡
近くの高良大社に、この古墳から出たと伝わる。詳しい由来はわかっていない。
後漢鏡の破片
墳丘の裾の第1号甕棺墓から、成人女性の人骨とともに出土した。
鉄製の農具
裾の墓から、鎌・錐・手斧などが出土。武器だけでなく農具も納められていた。
祇園山古墳と関連する古墳
祇園山古墳についてよくある質問
祇園山古墳は誰の墓ですか。
まったくわかっていません。墳頂の石棺が古い時代に盗掘され、副葬品が残っていないためです。卑弥呼の墓ではないかとする説がありますが、確かめられてはいません。
祇園山古墳はどこにありますか。
福岡県久留米市の高良山の山腹、筑後平野を見わたす台地の上にあります。住所や行き方を記した公式のページは確かめられませんでした。
祇園山古墳の大きさはどれくらいですか。
公式には確認できませんでした。形は方墳で、高さのおよそ4分の1を地山から方形の台状に削り出して造られています。
祇園山古墳はいつ作られましたか。
3世紀の中ごろと推定されてきました。ただしこの年代は、墳丘の裾で見つかった甕棺墓のものであって、古墳そのものの年代ではない点に注意が要ります。
祇園山古墳が卑弥呼の墓と言われるのはなぜですか。
墳丘の裾に多くの墓があることを殉葬の跡とみると、『魏志倭人伝』の記述と重なるためです。発掘調査の報告書は、これを集団の墓と捉えており、見解は分かれています。
祇園山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
箱式石棺(はこしきせっかん)
板石を組み合わせて箱の形に造った棺。この古墳では墳頂の中央にある。
甕棺墓(かめかんぼ)
大きな土器の甕を棺にした墓。北部九州で弥生時代から行われた。
殉葬(じゅんそう)
主人の死に従って葬られること。日本の古墳で確実な例は確認されていない。
方墳(ほうふん)
平面が四角い古墳。前方後円墳より小さいものが多く、各地に分布する。
祇園山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。