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兵庫県

阿保親王塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

阿保親王塚古墳  / アボシンノウヅカコフン

4世紀

宮内庁が平安時代の親王の墓とするが、古墳自体は4世紀と考えられている。

阿保親王塚古墳とはどんな古墳か

兵庫県芦屋市にある古墳です。宮内庁はこの古墳を阿保親王墓として管理しています。

阿保親王は第51代平城天皇の皇子で、在原業平の父としても知られる、承和9年(842年)に亡くなった人物です。ところがこの古墳の築造は4世紀代と考えられており、親王が生きた時代より400年以上さかのぼります。

宮内庁書陵部は、平成30年度に「阿保親王墓墳丘外形調査および出土品調査報告」をまとめ、『書陵部紀要』第70号(陵墓篇)に載せています。

墳形も定まっていません。現状では円い墳丘を方形の濠が囲む姿ですが、これは江戸時代の修補による改変とされ、本来の形はわかっていません。この図鑑では、形の欄を空けてあります。

阿保親王塚古墳の読み方と別名

読みは「あぼしんのうづかこふん」です。「あほ」ではなく「あぼ」です。

この古墳には、立場によって二つの名があります。考古学の側は阿保親王塚古墳と呼び、宮内庁は阿保親王墓と呼びます。どちらの名にも、阿保親王の名が入っています。築造年代が親王の時代と400年以上ずれていても、名だけは治定に従って残っているということです。

近くの寺の名も阿保山親王寺です。江戸時代の治定の際に出土したとされる銅鏡が、いまもこの寺に伝わります。

阿保親王塚古墳(あぼしんのうづかこふん)

考古学の側で用いられる名。塚の名に親王の名が付いた形になっている。

阿保親王墓(あぼしんのうのはか)

宮内庁が用いる名。書陵部の調査報告もこの名で発表されている。

親王塚(しんのうづか)

近世に用いられた呼び方。摂津国打出村の親王塚として伝承地のひとつだった。

阿保親王塚古墳は誰の墓か

宮内庁は、この古墳を第51代平城天皇の皇子阿保親王の墓として治定しています。宮内庁書陵部も、調査報告を「阿保親王墓」の名で発表しています。

ただし治定は行政上の扱いであって、学術的な確定ではありません。そしてこの古墳では、その差がはっきり数字に出ます。阿保親王が亡くなったのは承和9年(842年)。いっぽう古墳の築造は、下調べによれば古墳時代前期の4世紀代と推定されます。400年以上のずれです。

治定の経緯も伝えられています。阿保親王の後裔を称する長州藩の毛利氏が江戸時代にこの古墳を阿保親王墓と定めて修補を行い、明治8年(1875年)に国の側があらためて治定した、というものです。

実際に誰が葬られたのかは、わかっていません

宮内庁の治定。学術的な確定ではない:阿保親王(第51代平城天皇の皇子)

宮内庁は阿保親王墓として管理し、書陵部が平成30年度に墳丘外形調査と出土品調査を行った。

断定できない。古墳の年代は親王より400年以上古い:わかっていない

書陵部は平成19年度にも立会調査を行っている。被葬者を裏づける記載は公式には確認できなかった。

阿保親王塚古墳の大きさと形

墳形も規模も、公式には確認できませんでした。宮内庁書陵部が墳丘外形調査を行い、その報告が『書陵部紀要』第70号に載っていることは確かめられますが、数値そのものは確認できていません。

下調べでは、現状は直径約36メートル・高さ約3メートルの円い墳丘を、方形の濠が囲む上円下方形を呈するとされます。ただしこれは江戸時代の修補による改変で、直線状の埴輪列によれば本来は前方後円形または方形の可能性があるといいます。

つまり、いま見えている形は、江戸時代に作り直された形です。この図鑑では墳形の欄を空けました。埋葬施設は未調査のため明らかでないとされます。

書陵部の調査報告:阿保親王墓墳丘外形調査および出土品調査報告(『書陵部紀要』第70号、27-53ページ)

外構柵改修工事に伴う立会調査:『書陵部紀要』第60号、51-52ページ(平成21年3月)

墳丘の規模と墳形:公式には確認できませんでした

阿保親王塚古墳はいつ作られたか

下調べによれば、この古墳の築造時期は古墳時代前期の4世紀代と推定されています。この年代を示す公式の記載は確認できませんでした。

年代の手がかりは、江戸時代の修補の際に出土したとされる銅鏡です。近くの親王寺に4面が伝わり、そのうち3面が三角縁神獣鏡だといいます。三角縁神獣鏡は、古墳時代の早い時期の古墳に副葬されるものです。

阿保親王が亡くなったのは承和9年(842年)です。400年以上の開きがあります。この図鑑では、年代の欄に4世紀を入れ、治定とは切り離して扱っています。同じ兵庫県では、神戸市の五色塚古墳や姫路市の壇場山古墳が、同じころの首長墓として知られます。

阿保親王塚古墳の場所と行き方(観光情報)

下調べによれば、この古墳の北側には駒塚が、東側には「四ツ塚」と称された墳墓が所在したといい、あわせて翠ヶ丘古墳群とも位置づけられます。

近くの阿保山親王寺には、江戸時代の修補で出土したとされる銅鏡4面が伝わります。古墳に入れなくても、そこから出たとされるものは寺にあります。

阿保親王墓(阿保親王塚古墳)

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阿保親王墓(阿保親王塚古墳)の住所:公式には確認できませんでした

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁が管理する墓で、墳丘に立ち入ることはできません。参拝できる拝所があるかどうかについての公式の記載は確認できませんでした

所在地は公式には確認できませんでした。宮内庁の陵墓一覧のページにこの墓の項を確かめられなかったためです。書陵部の調査報告のページには、住所の記載がありません。

下調べでは兵庫県芦屋市翠ケ丘町とされますが、この図鑑では公式に確かめられたものだけを住所の欄に載せる決まりにしているため、空けてあります。宮内庁の管理下にあるため、墳丘に立ち入ることはできません。

阿保親王塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 400年ずれた墓
  2. 長州藩が決めた墓
  3. 陵墓を、宮内庁が調べるということ

400年ずれた墓

この図鑑では、宮内庁の治定と学術的な見方を必ず書き分けています。その理由がいちばんはっきり出るのが、この古墳です。

宮内庁は阿保親王墓として管理しています。阿保親王が亡くなったのは承和9年(842年)、平安時代の前期です。いっぽう古墳の築造は、下調べによれば4世紀代。古墳時代の前期です。400年以上のずれがあります。

太田茶臼山古墳のように「治定された古墳と、学者が真陵とする古墳が別にある」という例は珍しくありません。しかしこの古墳の場合、時代そのものが違います。

治定が誤りだったとしても、それは責められることではありません。決めた当時、古墳の年代を測る方法はありませんでした。

長州藩が決めた墓

この古墳の治定には、はっきりした発端があります。阿保親王の後裔を称する長州藩の毛利氏です。

下調べによれば、古代・中世を通じて阿保親王の墓の所在は明らかでなく、近世には複数の伝承地があったといいます。そのうち毛利氏が本古墳を阿保親王墓と定め、大規模な修補を行いました。その際に銅鏡群が出土したとされます。

いまの墳丘の形は、そのときの工事でできたものです。明治8年(1875年)、国の側があらためて治定し、現在に至ります。根拠は近世の寺の縁起や地誌によるとされ、その書類は関東大震災の際に失われたと伝えられます。

陵墓を、宮内庁が調べるということ

陵墓は原則として立ち入りができず、自由な発掘調査もできません。では、まったく調べられないのかというと、そうではありません。

宮内庁書陵部は、陵墓の調査を自ら行い、その結果を『書陵部紀要』に載せています。この古墳では、平成19年度に外構柵の改修工事にともなう立会調査が行われ、平成30年度には墳丘外形調査と出土品調査が行われました。

工事や整備の機会をとらえて、そのつど記録が取られています。範囲は限られますが、積み重ねれば形が見えてきます。

阿保親王塚古墳から出土したもの

出土品の多くは、正式な発掘調査によるものではありません。江戸時代の修補の際に出たとされる銅鏡群が、近くの阿保山親王寺に伝わっています。この資料群は平成2年3月22日に芦屋市指定有形文化財となりました。

宮内庁書陵部は平成30年度に出土品調査を行い、その結果を『書陵部紀要』第70号に報告しています。埋葬施設そのものは未調査です。

三角縁神獣鏡

親王寺に伝わる銅鏡群のうち3面。江戸時代の修補の際に出土したとされる。

連弧文鏡

同じく親王寺の所蔵。後漢の鏡とされ、古墳の年代を考える手がかりになる。

円筒埴輪

墳丘外表で直線状に並ぶ列が確認され、本来の墳形を推し量る根拠になっている。

葺石

墳丘の斜面を覆う石。江戸時代の改変を受けた墳丘の中に残っている。

阿保親王塚古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

阿保親王塚古墳についてよくある質問

阿保親王塚古墳は誰の墓ですか。

宮内庁は第51代平城天皇の皇子である阿保親王の墓として治定しています。ただし治定は行政上の扱いで、古墳の築造は4世紀代とされ、親王が亡くなった842年より400年以上古いと考えられています。

阿保親王塚古墳はどこにありますか。

公式には確認できませんでした。下調べでは兵庫県芦屋市翠ケ丘町とされます。宮内庁が管理する墓のため、墳丘に立ち入ることはできません。

阿保親王塚古墳の大きさはどれくらいですか。

公式には確認できませんでした。下調べでは直径約36メートル・高さ約3メートルの円い墳丘を方形の濠が囲む形とされますが、これは江戸時代の修補による姿で、本来の形はわかっていません。

阿保親王塚古墳はいつ作られましたか。

下調べでは古墳時代前期の4世紀代とされます。親王寺に伝わる三角縁神獣鏡が手がかりです。この年代を示す公式の記載は確認できませんでした。

阿保親王塚古墳の出土品はどこにありますか。

江戸時代の修補で出土したとされる銅鏡4面が、近くの阿保山親王寺に伝わっています。平成2年に芦屋市指定有形文化財となりました。

阿保親王塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

治定(じじょう)

宮内庁が、この墓は誰それのものと定めること。行政上の扱いで、学術的な確定ではない。

書陵部(しょりょうぶ)

宮内庁の部署のひとつ。陵墓の管理と調査を行い、その結果を『書陵部紀要』で公表している。

立会調査(たちあいちょうさ)

工事の際に立ち会って遺構を記録する調査。陵墓ではこれが数少ない調査の機会になる。

三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)

鏡縁の断面が三角形で、神像と獣像を表した鏡。古墳時代の早い時期の古墳から出る。

阿保親王塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 宮内庁書陵部
  2. 宮内庁書陵部