川に流された遺体の代わりに、褶を葬ったと伝わる陵。
日岡陵古墳とはどんな古墳か
兵庫県加古川市加古川町大野にあるとされる前方後円墳です。宮内庁により、第12代景行天皇の皇后とされる播磨稲日大郎姫命の日岡陵として治定されているとされます。
この古墳については、公式ページを1本も確かめることができませんでした。以下は下調べにもとづく記述で、公式に裏づけられたものではありません。
この陵には、播磨国風土記の伝えが結びついています。印南別嬢が亡くなり日岡に墓を作ったが、遺体を船に載せて印南川を渡ろうとしたときにつむじ風に巻き込まれ、遺体は川の中に沈んでしまった。見つかったのは化粧道具の箱である匣と、首に掛ける布である褶だけで、それらを葬って褶墓と名づけた、と伝えられます。
治定は1883年(明治16年)のことです。築造は4世紀代と推定され、日岡山古墳群では最も古いと位置づけられています。
日岡陵古墳の読み方と別名
考古学の側からは「ひおかりょうこふん」、陵名としては「ひのおかのみささぎ」と読むとされます。地元では「日岡御陵(ひおかごりょう)」とも呼ばれるといいます。
もう一つの名が褶墓です。褶とは、首に掛ける細長い布のことをいいます。播磨国風土記は、川に沈んだ遺体の代わりにこの布を葬ったので褶墓と名づけた、と伝えています。
被葬者とされる人物の名も、書物によって違います。日本書紀は「播磨稲日大郎姫」「播磨太郎姫」、古事記は「針間之伊那毘能大郎女」と記し、播磨国風土記の「印南別嬢」も同一人物とする説があるとされます。いずれの名にも見える「いなび」「いなみ」は、播磨国印南郡という地名に由来します。
日岡陵古墳(ひおかりょうこふん)
考古学の側からの呼び方。日岡山古墳群を構成する古墳の一つとされる。
日岡陵(ひのおかのみささぎ)
宮内庁が定めるとされる陵名。1895年(明治28年)に定められたと伝えられる。
褶墓(ひれはか)
播磨国風土記が伝える名。川に沈んだ遺体の代わりに褶を葬ったことによるという。
日岡陵古墳は誰の墓か
この古墳の実際の被葬者は、わかっていません。宮内庁により第12代景行天皇の皇后とされる播磨稲日大郎姫命の陵に治定されているとされますが、治定は行政上の扱いであって、被葬者が学問的に確かめられたことを意味しません。
治定の根拠になったのは、書物の伝えです。下調べによれば、日本書紀は播磨稲日大郎姫命が景行天皇52年5月4日に薨じたとするものの、日本書紀にも古事記にも延喜式の諸陵寮にも、葬られた場所の記載はありません。
いっぽう播磨国風土記の賀古郡条には、印南別嬢が亡くなったとき日岡に墓を作ったという伝えがあります。この古墳がその褶墓であると伝承されていたことから、印南別嬢と播磨稲日大郎姫命を同一人物と見て、1883年(明治16年)に治定されたとされます。
つまり、風土記の伝承と、別の書物に出てくる人物とを結びつけた結果です。1885年(明治18年)に陵域が定められて修陵され、1895年(明治28年)に陵号が日岡陵と定められたと伝えられます。
日岡陵古墳の大きさと形
この古墳の規模を記した公式のページは、確かめられませんでした。以下は下調べにもとづく数字です。
墳丘長は約80メートル、後円部の直径は約45メートル、前方部の幅は約33メートル・高さ約5メートル、くびれ部の高さは約4メートルとされます。
墳形をめぐっては、議論がありました。もとは円墳であって明治の修陵によって前方後円形に改められたとする説と、改変は受けていないとする説の両方が挙げられていたといいます。2011年(平成23年)に宮内庁書陵部が行った墳丘測量調査によれば、当初より前方後円墳として築造されたと見られるとされます。
段築の有無は不明で、無段か、幅の狭いテラス面を持つのではないかとされます。墳丘の外表では葺石・埴輪片・土師器片が採集されているといいます。
墳丘の規模:公式には確認できませんでした
陵形:公式には確認できませんでした
所在地:公式には確認できませんでした
参拝時間:公式には確認できませんでした
日岡陵古墳はいつ作られたか
築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。
下調べによれば、古墳時代前期の4世紀代と推定され、日岡山古墳群のうちでは最も古いと位置づけられています。年代を絞る手がかりは、墳丘の外表で採集された葺石・埴輪片・土師器片です。
ここに、被葬者をめぐる話との食い違いがあります。日本書紀の伝える景行天皇の時代を実年代に置き換えることは難しく、4世紀という推定と伝承上の年代を突き合わせる手立てはありません。
同じ兵庫県では、五色塚古墳が4世紀後半の築造とされ、墳丘が復元されて公開されています。日岡陵古墳は宮内庁の管理下にあるため、そうした復元も調査もできません。
日岡陵古墳の場所と行き方(観光情報)
日岡山の南麓には日岡神社があるとされます。その社の伝えでは、播磨稲日大郎姫命が日本武尊らを産むとき、天伊佐佐比古命が安産を祈願したといいます。
この古墳は日岡山古墳群を構成する一つとされ、周囲にはほかにも古墳があります。同じ兵庫県の五色塚古墳が明石海峡に面して復元公開されているのに対し、日岡陵古墳は台地の上で静かに管理されています。
景行天皇皇后 播磨稲日大郎姫命 日岡陵(日岡陵古墳)
景行天皇皇后 播磨稲日大郎姫命 日岡陵(日岡陵古墳)の住所:公式には確認できませんでした
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓とされるため、墳丘に立ち入ることはできないと考えられます。ただし参拝できる曜日や時間について、公式の記載は確認できませんでした
この古墳については、住所・行き方・参拝時間のいずれも公式のページで確かめられませんでした。宮内庁の陵墓のページにも加古川市の案内にも行き着けなかったためです。
下調べによれば、所在地は兵庫県加古川市加古川町大野で、加古川の東岸にある印南野台地の北縁、日岡山の山頂にあたるとされます。宮内庁が管理する陵墓は原則として墳丘に立ち入れず、拝所までの参拝になります。訪ねる前に、宮内庁または加古川市へ問い合わせるのが確かです。
日岡陵古墳の発見と調査の歩み
川に沈んだ遺体と、残された布
この古墳を語るとき、必ず引かれるのが播磨国風土記の伝えです。
下調べによれば、賀古郡条には次のような話が記されているといいます。印南別嬢が亡くなったとき、日岡に墓を作った。ところが、別嬢の遺骸を船に載せて印南川を渡ろうとしたとき、つむじ風に巻き込まれ、遺骸は川の中に沈んでしまった。
探しても見つからず、ただ匣(くしげ)と褶(ひれ)が見つかるのみであったので、これらを墓に葬って褶墓と名付けたといいます。匣は化粧道具の箱、褶は首に掛ける細長い布のことです。
遺体のない墓、という話です。印南川は、いまの加古川にあたるとされます。この伝承が、後にこの古墳を播磨稲日大郎姫命の陵と定める根拠の一つになりました。
円墳だったのか、前方後円墳だったのか
この古墳の墳形をめぐっては、長く議論がありました。
下調べによれば、もとは円墳であって、明治の修陵によって前方後円形に改められたとする説がありました。いっぽうで、改変は受けていないとする説も挙げられていたといいます。
陵墓は明治期に大がかりな修理を受けています。そのときに形が変えられた可能性が疑われるのは、この古墳に限りません。
決着に近づいたのは、2011年(平成23年)です。宮内庁書陵部による墳丘測量調査によれば、当初より前方後円墳としての築造と見られるとされます。
掘らずに測ることで、形の履歴を読み取ったことになります。神明山古墳も測量だけで多くのことが確かめられました。陵墓のように掘れない古墳では、測量が数少ない手立てです。
名前が三つある人物
この陵に葬られたとされる人物は、書物によって名が違います。
下調べによれば、日本書紀は「播磨稲日大郎姫」や「播磨太郎姫」、古事記は「針間之伊那毘能大郎女」と記すとされます。さらに播磨国風土記に見える「印南別嬢」も同一人物とする説があるといいます。
いずれの名にも共通するのが「いなび」「いなみ」という音です。これは播磨国印南郡という地名に由来するとされます。
つまり、この人物は土地の名で呼ばれていたことになります。どこの誰かという情報のうち、残ったのは「どこ」のほうでした。
1883年(明治16年)の治定は、風土記の褶墓伝承と、日本書紀に見える播磨稲日大郎姫命とを同一と見たうえでのものです。名の重なりを手がかりに人物を結びつける方法は、鳥屋ミサンザイ古墳や山田上ノ山古墳の治定にも共通しています。
日岡陵古墳から出土したもの
この古墳の埋葬施設と副葬品は、明らかになっていません。宮内庁が管理する陵墓とされ、本格的な発掘調査が行われていないためです。
知られているのは、墳丘の外表で採集された葺石・埴輪片・土師器片だけです。1928年(昭和3年)に旧宮内省による実測図が作られ、2011年(平成23年)に宮内庁書陵部が墳丘測量調査を実施したと伝えられます。
葺石
墳丘の外表で採集されている。掘らずに表面から確かめられたもの。
埴輪片
墳丘の外表で採集されている。築造年代を推定する手がかりになる。
土師器片
墳丘の外表で採集されている。埴輪片とともに年代の手がかりとされる。
埋葬施設・副葬品
明らかになっていない。陵墓のため本格的な発掘調査が行われていない。
日岡陵古墳と関連する古墳
日岡陵古墳についてよくある質問
日岡陵古墳は誰の墓ですか。
宮内庁により景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されているとされます。ただし治定は行政上の扱いで、考古学的には被葬者は明らかでありません。
日岡陵古墳はどこにありますか。
公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは兵庫県加古川市加古川町大野にあり、加古川東岸の日岡山の山頂とされます。
日岡陵古墳の大きさはどれくらいですか。
公式の数字は確かめられませんでした。下調べでは墳丘長約80メートル、後円部の直径約45メートル、前方部の幅約33メートルとされます。
日岡陵古墳はいつ作られましたか。
公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは古墳時代前期の4世紀代と推定され、日岡山古墳群では最も古いとされます。
日岡陵古墳はなぜ褶墓と呼ばれるのですか。
播磨国風土記の伝えによります。遺体が川に沈んで見つからず、匣と褶だけを葬ったので褶墓と名づけた、と記されているためです。
日岡陵古墳と併せて覚えたい言葉・用語
褶(ひれ)
首に掛ける細長い布。日岡陵古墳では、これを葬ったことが墓の名の由来と伝えられる。
匣(くしげ)
化粧道具を入れる箱。播磨国風土記の伝えで、褶とともに墓に葬られたとされる。
修陵(しゅうりょう)
陵墓を修理し整えること。明治期に大がかりに行われ、墳形が変わった例もある。
播磨国風土記(はりまのくにふどき)
奈良時代に編まれた播磨国の地誌。土地の名の由来や伝承を記す。