孝徳天皇陵として治定されている、磯長谷の小さな円墳。
山田上ノ山古墳とはどんな古墳か
大阪府南河内郡太子町山田にある円墳です。宮内庁により第36代孝徳天皇の大阪磯長陵として治定されているとされますが、実際の被葬者は明らかになっていません。
この古墳については、宮内庁や太子町の公式ページを確かめることができませんでした。以下は下調べにもとづく記述で、公式に裏づけられたものではありません。
目を引くのは、その小ささです。下調べによれば墳丘の直径は32メートルで、天皇の陵とされる古墳としては際立って小さい部類に入ります。7世紀の王陵とすることに懐疑的な見解がある一方、その小ささを、生前に出されたとされる薄葬の命令の反映と見る説もあるといいます。
二上山から西へ派生する丘陵の先端にあり、丘陵の前には竹内街道が通るとされます。磯長谷では、この古墳を含む四つの天皇陵と聖徳太子墓が梅鉢御陵と総称されます。
山田上ノ山古墳の読み方と別名
考古学の側からは「やまだうえのやまこふん」、陵名としては「おおさかのしながのみささぎ」と読むとされます。同じ墳丘に、二つの立場からの名が付いています。
江戸時代には北山陵と称されたほか、かつては鶯陵とも呼ばれたと伝えられます。河内名所図会は、枕草子に見える「うぐひすのみささぎ」をこの古墳にあてています。
表記にも変化があります。日本書紀は「大坂磯長陵」と記しますが、現在の陵号には「坂」ではなく「阪」の字が使われるとされます。同じ場所を指す名が、時代ごとに違う字で書かれてきたことになります。
山田上ノ山古墳(やまだうえのやまこふん)
考古学の側からの呼び方。所在地の太子町山田と、上ノ山という地形の名による。
大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)
宮内庁が定めるとされる陵名。第36代孝徳天皇の陵として管理される。
鶯陵(うぐいすのみささぎ)
かつての別名。江戸時代の河内名所図会は、枕草子の「うぐひすのみささぎ」をこの古墳にあてる。
山田上ノ山古墳は誰の墓か
この古墳の実際の被葬者は、わかっていません。宮内庁により第36代孝徳天皇の陵に治定されているとされますが、治定は行政上の扱いであって、被葬者が学問的に確かめられたことを意味しません。
下調べによれば、日本書紀は孝徳天皇が白雉5年(654年)10月に崩御し、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとします。延喜式の諸陵寮では遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡にあり、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟をあてるとされます。
その後、元禄の探陵の際に現在の古墳に治定されたといいます。このとき、古市にも孝徳天皇陵の伝承地が存在していたとされます。つまり候補が複数あったなかから選ばれた、ということです。元治元年(1864年)に修復と拝所の整備が行われたと伝えられます。
墳丘の小ささをどう見るかで、説は分かれています。薄葬の反映と見るか、そもそも王陵ではないと見るかです。宮内庁が管理する以上、掘って確かめる手立てはありません。
山田上ノ山古墳の大きさと形
この古墳の規模を記した公式のページは、確かめられませんでした。以下は下調べにもとづく数字です。
墳形は円形で、南西方に面するとされます。墳丘の直径は32メートルで、小規模な円墳になるといいます。埋葬施設などは明らかでありません。
32メートルという直径は、天皇の陵とされる古墳としては小さい部類です。同じ磯長谷にある二子塚古墳は、太子町によれば主軸の長さ約60メートル以上の双方墳です。関連する出土品として、かつて陪塚から出たという海獣葡萄鏡が知られるものの、その出土地の詳細は明らかでなく、現在では陪塚等も知られていないとされます。
墳丘の規模:公式には確認できませんでした
陵形:公式には確認できませんでした
所在地:公式には確認できませんでした
築造年代:公式には確認できませんでした
山田上ノ山古墳はいつ作られたか
山田上ノ山古墳の場所と行き方(観光情報)
この古墳は磯長谷古墳群の一つに数えられます。同じ谷には、太子町が所在地を大阪府南河内郡太子町大字山田3385番地とする二子塚古墳があります。
磯長谷では、敏達・用明・推古・孝徳の四つの天皇陵と聖徳太子墓が梅鉢御陵と総称されるとされます。この一帯を歩くなら、公式の案内が得られる二子塚古墳を起点にするのが確実です。ただし二子塚古墳は、太子町によれば保存整備工事のため立ち入り禁止です。
孝徳天皇 大阪磯長陵(山田上ノ山古墳)
孝徳天皇 大阪磯長陵(山田上ノ山古墳)の住所:公式には確認できませんでした
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓とされるため、墳丘に立ち入ることはできないと考えられます。ただし参拝できる曜日や時間について、公式の記載は確認できませんでした
この古墳については、住所・行き方・参拝時間のいずれも公式のページで確かめられませんでした。宮内庁の陵墓のページにも太子町の案内にも行き着けなかったためです。
下調べによれば、所在地は大阪府南河内郡太子町山田で、二上山から西方に派生する丘陵の先端にあたるとされます。丘陵の前には竹内街道が通るといいます。宮内庁が管理する陵墓は原則として墳丘に立ち入れず、拝所までの参拝になります。訪ねる前に、宮内庁または太子町へ問い合わせるのが確かです。
山田上ノ山古墳の発見と調査の歩み
直径32メートルという小ささ
天皇の陵として治定されている古墳のなかで、この古墳は際立って小さい部類に入ります。下調べによれば、墳丘の直径は32メートルです。
比べてみると差がわかります。同じ宮内庁が管理する太田茶臼山古墳は、堺市の全国ランキングで墳丘規模226メートル。宝来山古墳は227メートルです。直径32メートルの円墳は、その10分の1にも届きません。
この小ささをどう読むかで、見方が分かれます。一つは、生前に出されたとされる薄葬令の反映と見る立場です。墓を簡素にせよという命令が、自らの陵に及んだという読み方になります。
もう一つは、そもそも7世紀の王陵とすることに疑いを向ける立場です。下調べは、7世紀の王陵としては懐疑的な見解もあると記しています。どちらとも決められないまま、小さな円墳が残っています。
候補が複数あった陵
この古墳が孝徳天皇の陵とされたのは、江戸時代の元禄の探陵によるとされます。
下調べによれば、延喜式の諸陵寮には大坂磯長陵が河内国石川郡にあると記され、兆域は東西5町・南北5町、守戸3烟をあてるとされていました。しかし、それがどの古墳かは長くわからなくなっていました。
注目したいのは、選ばれたときに候補が複数あったことです。下調べは、この古墳のほかに古市にも孝徳天皇陵の伝承地が存在した、と記しています。
つまり、いま宮内庁が管理する陵は、複数の候補から一つを選んだ結果です。同じ磯長谷の鳥屋ミサンザイ古墳も元禄12年に治定されました。治定を事実として読めない理由が、こうした経緯にあります。元治元年(1864年)には修復と拝所の整備が行われたとされます。
枕草子に出てくる鶯の陵
この古墳には、文学から来た別名があります。鶯陵です。
下調べによれば、江戸時代の『河内名所図会』は、枕草子に見える「うぐひすのみささぎ」をこの古墳にあてているといいます。江戸時代には北山陵とも称されていました。
古典に出てくる名を、目の前の塚にあてはめる。これは江戸時代によく行われたことで、陵の場所を決めるときの手がかりにもなりました。ただし、それが正しいかどうかを確かめる手段はありません。
同じことは各地で起きています。千歳車塚古墳では、西方に「吉備」という字があることから元明天皇の陵とする言い伝えが地元にあったとされます。名や地名からの結びつけは、しばしば古墳の被葬者をめぐる話の出発点になります。
山田上ノ山古墳から出土したもの
この古墳から何が出たのかは、ほとんどわかっていません。宮内庁が管理する陵墓とされ、本格的な調査がなされていないためです。
知られているのは、かつて陪塚から出土したという海獣葡萄鏡だけです。ただし、その出土地の詳細は明らかでなく、現在では陪塚等も知られていないとされます。品はあるが、どこから出たかがわからない、という状態です。
海獣葡萄鏡
かつて陪塚から出たと伝えられる鏡。ただし出土地の詳細は明らかでない。
埋葬施設
明らかになっていない。陵墓のため本格的な調査が行われていない。
副葬品
わかっていない。掘って確かめる手立てがない。
陪塚
かつて存在したとされるが、現在では知られていない。
山田上ノ山古墳と関連する古墳
山田上ノ山古墳についてよくある質問
山田上ノ山古墳は誰の墓ですか。
宮内庁により第36代孝徳天皇の陵に治定されているとされます。ただし治定は行政上の扱いで、実際の被葬者は明らかになっていません。
山田上ノ山古墳はどこにありますか。
公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは大阪府南河内郡太子町山田にあり、二上山から西へ派生する丘陵の先端とされます。
山田上ノ山古墳の大きさはどれくらいですか。
公式の数字は確かめられませんでした。下調べでは直径32メートルの円墳とされ、天皇の陵とされる古墳としては小さい部類に入ります。
山田上ノ山古墳はいつ作られましたか。
公式のページでは確かめられませんでした。孝徳天皇の崩御は654年とされますが、7世紀の王陵とすることに懐疑的な見解もあります。
山田上ノ山古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓とされるため、墳丘には立ち入れないと考えられます。参拝できる曜日や時間について、公式の記載は確認できませんでした。
山田上ノ山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
薄葬令(はくそうれい)
墓を簡素にするよう定めたとされる命令。7世紀の小さな陵を説明するときに挙げられる。
梅鉢御陵(うめばちごりょう)
磯長谷の四つの天皇陵と聖徳太子廟の総称。梅の花びらの並びになぞらえた呼び名。
兆域(ちょういき)
陵墓として定められた区域。延喜式には東西何町・南北何町という形で記される。
陪塚(ばいちょう)
大きな古墳のそばに寄り添うように築かれた小さな古墳。