宣化天皇と皇后の合葬陵として治定されている、大和有数の古墳。
鳥屋ミサンザイ古墳とはどんな古墳か
奈良県橿原市鳥屋町にある前方後円墳です。宮内庁はこの古墳を第28代宣化天皇の身狹桃花鳥坂上陵として管理し、陵形を前方後円、所在地を奈良県橿原市鳥屋町としています。
宮内庁の治定は行政上の扱いであって、被葬者が学問的に確かめられたことを意味しません。実際の被葬者は明らかになっていません。この陵に治定されたのは江戸時代の元禄12年(1699年)で、それ以前は所在の伝えが失われていました。
墳丘は2段に築かれ、くびれ部の両側に造出が付くほか、前方部の東側にも張出状の施設があるとされます。墳丘のまわりには盾形の周濠がめぐりますが、後世のため池の工事で大きく改変を受けたといいます。
宮内庁が管理しているため墳丘に入ることはできませんが、拝所までは原則として年間をとおして参拝できます。
鳥屋ミサンザイ古墳の読み方と別名
考古学の側からは「とりやミサンザイこふん」、宮内庁の陵名としては「むさのつきさかのえのみささぎ」と読みます。同じ墳丘に、二つの立場からの名が付いています。
ミサンザイという言葉は各地の古墳に付いています。ミササギ、つまり陵という言葉がなまった形とされます。大阪府堺市のニサンザイ古墳、藤井寺市の岡ミサンザイ古墳、羽曳野市の上石津ミサンザイ古墳などが同じ系統の名です。
陵名の「身狹(むさ)」は、このあたりの古い地名です。「桃花鳥(つき)」はトキという鳥を指す字で、坂の名に使われています。
鳥屋ミサンザイ古墳(とりやミサンザイこふん)
考古学の側からの呼び方。所在地の鳥屋町と、ミサンザイという土地の呼び名を合わせた名。
身狹桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)
宮内庁が定める陵名。第28代宣化天皇の陵として管理されている。
鳥屋見三才古墳(とりやみさんざいこふん)
ミサンザイに「見三才」の字を当てた表記。音を漢字に写しただけのもの。
鳥屋ミサンザイ古墳は誰の墓か
宮内庁は、この古墳を第28代宣化天皇の身狹桃花鳥坂上陵として管理しています。宮内庁のページに記されているのは代数・諡号・御父・御母・陵名・陵形・所在地までで、なぜこの古墳が宣化天皇の陵なのかという根拠は示されていません。
日本書紀によれば、宣化天皇は宣化天皇4年2月に崩御し、同年11月に大倭国身狹桃花鳥坂上陵に葬られ、皇后の橘皇女とその子も合葬されたといいます。いっぽう延喜式の諸陵寮には、この陵が大和国高市郡にあるとは記されるものの、合葬の記載はありません。
その後、陵の所在の伝えは失われました。いま宮内庁が管理する古墳に決まったのは、江戸時代の元禄の探陵によってです。元禄12年(1699年)4月、京都所司代の松平信庸によって治定されたと伝えられます。
つまり、1000年以上わからなくなっていた場所を、江戸時代に選び直した結果が現在の姿です。
宮内庁の治定:第28代宣化天皇と皇后の橘仲皇女
身狹桃花鳥坂上陵として管理される。治定は行政上の扱いで、学問的に確かめられたものではない。
断定できない:わかっていない
宮内庁のページは代数・陵名・所在地を記すのみで、被葬者を確かめた根拠にはふれていない。
鳥屋ミサンザイ古墳の大きさと形
宮内庁が公表しているのは、陵形が前方後円であることまでです。墳丘長や後円部の径といった数字を、公式のページで確かめることはできませんでした。
下調べによれば、日本古墳大辞典および橿原市のサイトでは墳丘長を138メートルとしているといいます。ただしこの数字を公式のページで裏づけることはできませんでした。
墳丘は2段に築かれ、1段目のくびれ部の両側に造出が付き、前方部の東側にも張出状の施設があるとされます。墳丘の外表では葺石と、円筒埴輪・朝顔形埴輪が検出されているといいます。埋葬施設と副葬品は明らかでありません。
築造当時としては、大和で最大級の古墳とされます。
陵形:前方後円
陵名:身狹桃花鳥坂上陵
被葬者とされる天皇の代数:第28代
所在地:奈良県橿原市鳥屋町
墳丘の規模:公式には確認できませんでした
鳥屋ミサンザイ古墳はいつ作られたか
築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。宮内庁のページは代数と陵名、所在地を記すだけで、年代にはふれていません。
下調べによれば、古墳時代後期前半の6世紀前半頃、あるいは中期後半の5世紀後半頃と推定されています。幅が100年近くあるということ自体が、この古墳の年代がまだ絞り切れていないことを示しています。
ここが被葬者の話とつながります。日本書紀の伝える宣化天皇の崩御は6世紀前半にあたります。もし築造が5世紀後半なら、時期が合いません。墳丘に立ち入って掘ることができない以上、この差を埋める手立てはいまのところありません。
鳥屋ミサンザイ古墳の場所と行き方(観光情報)
この古墳の南方には、桝山古墳(倭彦命 身狭桃花鳥坂墓)があるとされます。陵名が似ているのは、同じ身狹という地名にもとづくためです。
西方には新沢千塚古墳群が広がります。小さな古墳が数多く集まる群で、大きな陵と小さな墓の群れが隣り合っている一帯です。
宣化天皇 身狹桃花鳥坂上陵(鳥屋ミサンザイ古墳)
宣化天皇 身狹桃花鳥坂上陵(鳥屋ミサンザイ古墳)の住所:奈良県橿原市鳥屋町
交通:近鉄 橿原神宮西口駅から徒歩約15分
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓のため、墳丘に立ち入ることはできません。拝所は原則として年間をとおして参拝でき、参拝時間は原則8時30分から17時までです
所在地は宮内庁が公表する奈良県橿原市鳥屋町です。宮内庁は行き方を、近鉄の橿原神宮西口駅から徒歩約15分としています。
参拝できる曜日は原則として年間をとおして、参拝時間は原則8時30分から17時までと記されています。駐車場と料金については、公式の記載を確かめられませんでした。墳丘に入ることはできませんが、周囲の道からその大きさをたどることはできます。
鳥屋ミサンザイ古墳の発見と調査の歩み
元禄の探陵で決められた陵
この古墳が宣化天皇の陵とされたのは、江戸時代のことです。
下調べによれば、延喜式の諸陵寮には身狹桃花鳥坂上陵が遠陵として記載され、兆域は東西2町・南北2町、守戸5烟を毎年あてるとされていました。しかしその後、この陵がどこにあるかという伝えは失われます。
江戸時代に幕府が行った陵の調査を、元禄の探陵といいます。元禄12年(1699年)4月、京都所司代の松平信庸によって、この古墳が宣化天皇の陵に定められました。
1000年近くわからなくなっていた場所を、江戸時代の役人が選び直したことになります。宮内庁が管理する陵墓の多くは、この時期の判断を引き継いだものです。治定を事実として読めない理由が、ここにあります。
ため池に削られた周濠
この古墳の周濠は、いまも水をたたえています。ただし、造られたときの姿ではありません。
下調べによれば、寛永年間(1624年から1644年)に灌漑用のため池である鳥屋池の工事が行われ、そのときに周濠が大きく改変されたとされます。古墳の濠が、田に水を引くための池に作り変えられたということです。
同じことは各地の古墳で起きています。濠はもともと水をためる構造ですから、農業用の池として使いやすい。墳丘が残ったのも、池の堤として役に立ったからだという見方があります。
形が変えられた一方で、変えられたからこそ潰されずに残った。古墳の残り方には、こうした筋道がしばしばあります。
調査は行われている、ただし整備のために
宮内庁が管理する陵墓は、原則として発掘調査ができません。ただしこの古墳では、宮内庁書陵部による調査が行われています。
下調べによれば、1971年度(昭和45年度)と1988年度(昭和63年度)に、整備工事にともなう事前の調査が実施されたとされます。工事のために掘るという形です。
この調査で、墳丘外表の葺石や円筒埴輪・朝顔形埴輪が検出されたといいます。埋葬施設と副葬品については、いまも明らかになっていません。
陵墓でわかることは、多くの場合、修理や整備の機会に限られます。掘る目的が学術ではなく管理である以上、確かめられる範囲もそこまでになります。太田茶臼山古墳をめぐる議論が長引いているのも、同じ理由です。
鳥屋ミサンザイ古墳から出土したもの
この古墳の埋葬施設と副葬品は、明らかになっていません。宮内庁が管理する陵墓であり、本格的な発掘調査が行われていないためです。
わかっているのは墳丘の外側の様子だけです。整備工事にともなう事前の調査で、葺石と円筒埴輪・朝顔形埴輪が確認されました。中に何が納められていたかは、いまのところ確かめる手立てがありません。
円筒埴輪
墳丘の外表で検出されている。整備工事にともなう事前調査で確認された。
朝顔形埴輪
円筒埴輪の口が朝顔のように開いた形のもの。円筒埴輪とともに並べられていた。
葺石
墳丘の斜面を覆っていた石。埴輪とともに墳丘外表で確認されている。
埋葬施設・副葬品
明らかになっていない。陵墓のため本格的な発掘調査は行われていない。
鳥屋ミサンザイ古墳と関連する古墳
鳥屋ミサンザイ古墳についてよくある質問
鳥屋ミサンザイ古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は第28代宣化天皇と皇后の合葬陵として治定しています。ただし治定は行政上の扱いで、実際の被葬者は明らかになっていません。治定は元禄12年のことです。
鳥屋ミサンザイ古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を奈良県橿原市鳥屋町としています。行き方は、近鉄の橿原神宮西口駅から徒歩約15分と案内されています。
鳥屋ミサンザイ古墳の大きさはどれくらいですか。
宮内庁は陵形を前方後円としていますが、墳丘の規模は公式には確かめられませんでした。下調べでは墳丘長138メートルとする資料があるとされます。
鳥屋ミサンザイ古墳はいつ作られましたか。
公式のページには記載がありませんでした。下調べでは6世紀前半頃、あるいは5世紀後半頃と推定され、年代の幅はまだ絞り切れていません。
鳥屋ミサンザイ古墳の中に入れますか。
入れません。宮内庁が管理する陵墓のため墳丘には立ち入れませんが、拝所は原則として年間をとおして参拝でき、時間は原則8時30分から17時までです。
鳥屋ミサンザイ古墳と併せて覚えたい言葉・用語
治定(じじょう)
宮内庁がある古墳を誰それの陵墓と定めること。行政上の扱いで、学術的な確定ではない。
ミサンザイ(みさんざい)
陵を意味するミササギがなまった呼び名。各地の大きな古墳の地名に残っている。
元禄の探陵(げんろくのたんりょう)
江戸時代の元禄期に幕府が行った陵の調査。現在の治定の多くがこのときの判断を引き継ぐ。
造出(つくりだし)
墳丘のくびれ部などに付けられた張り出し。祭りの場だったと考えられている。
鳥屋ミサンザイ古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。