日本海に横腹を向けて築かれた、全国36位の巨大前方後円墳。
神明山古墳とはどんな古墳か
京都府京丹後市丹後町宮にある前方後円墳です。堺市がまとめた全国の古墳大きさランキングでは、墳丘規模200メートルで第36位に置かれ、所在地は京都府京丹後市と記されています。
文化庁は所在地を京丹後市丹後町宮とし、1923年(大正12年)3月7日に国の史跡に指定されたとしています。指定のときの解説文は、丘陵の尾に営まれた前方後円墳で、封土の高さは前方部で八間余り、後円部で十間余り、周囲は約五町、埴輪円筒の配列が見られる、と記します。
この地方における大古墳にして最もよく保存されたものの一つである、と解説文は結んでいます。
蛭子山古墳・網野銚子山古墳と合わせて日本海三大古墳と呼ばれます。竹野川の河口近く、かつての潟湖に向けて墳丘の横面を見せる形で築かれたとされます。
神明山古墳の読み方と別名
読みは「しんめいやまこふん」です。文化庁のふりがなも同じです。
神明という語は、社の呼び名として各地にあります。この古墳の名も、墳丘にまつわる呼び名から来たとみられますが、その由来を記した公式の説明には行き着けませんでした。
古墳の名が後世の祠や社に由来する例は珍しくありません。同じ丹後の蛭子山古墳は、後円部の東南に接する小円墳に蛭子の祠があると文化庁の解説文に記されています。名は、造ったころのものではなく、後の人が付けたものが残ります。
神明山古墳(しんめいやまこふん)
文化庁のふりがなも同じ。堺市の全国ランキングにもこの表記で載る。
日本海三大古墳(にほんかいさんだいこふん)
蛭子山1号墳・網野銚子山古墳と合わせた総称。いずれも丹後半島にある。
神明山経塚(しんめいやまきょうづか)
後円部の墳頂で後世に営まれた経塚。経筒と銅鏡が出土したと伝えられる。
神明山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡として扱われています。
そもそも、この古墳では発掘調査が行われていません。下調べによれば、1964年から1967年にかけて測量調査が実施されただけで、掘る調査は実施されていないといいます。埋葬施設も明らかでなく、後円部の中央に板石が散乱していたことから竪穴式石室があったのではないか、と推測されているにすぎません。
わかるのは立場です。堺市の全国ランキングで200メートル・第36位に置かれる規模は、日本海側では突出しています。
下調べによれば、丹後半島では弥生時代の終わりから日本海の交易によって伸びた勢力があったとされ、三大古墳はその様子を物語る古墳とされます。海に向かって並ぶ大きな墳丘が、その勢力の姿を示しています。
断定できない:わかっていない
指定の解説文は墳丘と埴輪の配列を記すのみで、葬られた人にはふれていない。
宮内庁の治定は無い:治定はされていない
陵墓ではなく、1923年(大正12年)に国の史跡として指定されている。
神明山古墳の大きさと形
堺市がまとめた全国の古墳大きさランキングは、神明山古墳の墳丘規模を200メートルとし、第36位に置いています。所在地は京都府京丹後市と記されています。
同じ200メートルの位置には、大阪府岸和田市の摩湯山古墳、羽曳野市の白鳥陵古墳、奈良県の島の山古墳、岡山県の両宮山古墳などが並びます。200メートル級の古墳が6基、同じ順位に固まっていることになります。
文化庁の解説文は、封土の高さを前方部で八間余り、後円部で十間余り、周囲を約五町としています。一間はおよそ1.8メートルにあたります。
下調べでは墳丘長190メートル、後円部の直径129メートル、前方部の幅78メートルとされますが、この数字は公式には確かめられませんでした。
墳丘規模(全長):200メートル
全国での順位:第36位(200メートル)
前方部の高さ:八間余り
後円部の高さ:十間余り
周囲:約五町
神明山古墳はいつ作られたか
築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。文化庁のデータベースは時代・年代・西暦のいずれも空欄です。
下調べによれば、古墳時代中期の4世紀末から5世紀初頭頃と推定されています。日本海三大古墳のうちでは、4世紀中葉の蛭子山1号墳、4世紀後半の網野銚子山古墳に続く3番目の築造にあたるといいます。
そして、この古墳のあと丹後の大型前方後円墳は終わります。神明山古墳に続く首長墓は黒部銚子山古墳とされ、それをもって丹後で大型前方後円墳が造られなくなり、5世紀中頃以降は中心が南の丹波地方へ移るとされます。移った先には、亀岡市の千歳車塚古墳があります。
神明山古墳の場所と行き方(観光情報)
付近には竹野神社があり、その古代の祭りと古墳との関わりを指摘する説があるとされます。周辺には産土山古墳、大成古墳群、片山古墳といった古墳も分布します。
出土した埴輪は、京丹後市立丹後古代の里資料館で保管・展示されていると伝えられます。同じ丹後の蛭子山古墳と合わせて訪ねると、日本海側の勢力の広がりが見えてきます。
神明山古墳
神明山古墳の住所:京丹後市丹後町宮
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした。発掘調査は行われておらず、墳丘はよく残っているとされます
所在地として公式に確かめられたのは、文化庁が記す京丹後市丹後町宮という市区町村名までです。堺市の全国ランキングは、より大まかに京都府京丹後市と記しています。
下調べによれば、より細かくは丹後町宮小字家ノ上とされ、峰山駅または網野駅からバスで丹後庁舎前バス停へ行き、南東へ徒歩約20分と案内されているといいます。ただし、この行き方を公式のページで確かめることはできませんでした。
神明山古墳の発見と調査の歩み
海に横腹を見せる置き方
この古墳は、竹野川の河口近くで丘陵の先端を切断して築かれています。置き方に特徴があります。
下調べによれば、網野銚子山古墳と神明山古墳は、それぞれ浅茂川湖・竹野湖という古代の潟湖に対して、葺石で覆われた墳丘の横面を見せる形式をとっているとされます。潟湖とは、砂州で海と隔てられた入り江の湖のことです。
潟湖は港として使われていました。船で入ってきた者の正面に、石で覆われた巨大な墳丘の横腹が立ちはだかる。そういう見え方を計算した置き方だと考えられています。
古墳は、見せるために造られた面がある。そのことが立地からわかる例です。兵庫県の五色塚古墳が明石海峡に向くことも、同じ文脈で語られます。
掘らずに測るということ
神明山古墳では、発掘調査が行われていません。下調べによれば、1964年から1967年にかけて同志社大学考古学研究会による測量調査が実施されただけとされます。
それでも、わかることはあります。墳丘の外表からは葺石のほか、円筒埴輪と形象埴輪、石製模造品、弥生土器などが検出されているといいます。埴輪のなかには丹後型円筒埴輪の破片があり、舟を漕ぐ人物の線刻を持つ破片も見つかっているとされます。
墳丘の表面を歩き、落ちているものを拾い、形を測る。それだけでも、この古墳が丹後の土地固有の埴輪を使い、舟の絵を描いていたことまではわかります。
いっぽう埋葬施設は明らかでありません。後円部の中央に板石が散乱していたことから、竪穴式石室があったのではないかと推測される段階にとどまっています。
墳頂に経塚が営まれた
この古墳の後円部の頂には、後世になって別のものが造られています。経塚です。
経塚とは、お経を書いた巻物を筒に入れて土に埋めた塚のことをいいます。平安時代の後期に各地で営まれました。
下調べによれば、神明山経塚と呼ばれるこの塚からは、経筒4口と銅鏡2面が出土したとされます。いずれも平安時代後期の作で、京丹後市指定有形文化財になっているといいます。
古墳が造られてから700年ほどのちに、同じ墳頂が別の信仰の場として使われたことになります。三昧塚古墳でも、室町時代に墳丘を掘って墓地が営まれています。古墳のその後には、こうした二度目の使われ方がしばしばあります。
神明山古墳から出土したもの
この古墳では発掘調査が行われていないため、埋葬施設から出た副葬品はわかっていません。知られているのは、墳丘の表面で採集された葺石・埴輪・石製模造品・弥生土器などです。
出土した埴輪は、京丹後市立丹後古代の里資料館で保管・展示されているとされます。経塚から出た経筒と銅鏡は竹野神社が所蔵し、京都府立丹後郷土資料館に寄託されていると伝えられます。
丹後型円筒埴輪
丹後半島に特有の形の円筒埴輪。蛭子山古墳・網野銚子山古墳にも共通して見られる。
舟を漕ぐ人物の線刻
埴輪の破片に描かれていた絵。海と結びついたこの地の姿を伝える。
形象埴輪
家形・盾形・蓋形などの埴輪が検出されている。
経筒と銅鏡
後円部の墳頂に後世営まれた経塚から出土。平安時代後期の作とされる。
神明山古墳と関連する古墳
神明山古墳についてよくある質問
神明山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。発掘調査が行われておらず、埋葬施設も明らかでありません。宮内庁の陵墓ではなく、大正12年に国の史跡として指定されています。
神明山古墳はどこにありますか。
文化庁は所在地を京都府京丹後市丹後町宮としています。堺市の全国ランキングは京都府京丹後市と記しています。竹野川の河口近くにあたります。
神明山古墳の大きさはどれくらいですか。
堺市の全国ランキングは墳丘規模200メートル、全国第36位としています。文化庁の解説文は、高さを前方部で八間余り、後円部で十間余りとしています。
神明山古墳はいつ作られましたか。
公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは4世紀末から5世紀初頭頃とされ、日本海三大古墳のうちでは3番目の築造にあたります。
神明山古墳の墳丘に登れますか。
立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした。後円部の頂には後世の経塚が営まれていたとされます。現地の表示に従ってください。
神明山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
潟湖(かたこ)
砂州によって海と隔てられた入り江の湖。古代には港として使われた。
経塚(きょうづか)
お経を筒に納めて埋めた塚。平安時代後期に各地で営まれ、古墳の墳頂が使われることもある。
石製模造品(せきせいもぞうひん)
道具や器を石で写した品。実用ではなく、祭りや埋葬のために作られる。
間(けん)
日本の古い長さの単位。一間はおよそ1.8メートル。古い指定文にこの単位が使われる。
神明山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。