全長84メートルの前方後方墳。1692年に徳川光圀の命で調査され、遺物は記録後に埋め戻された。
下侍塚古墳とはどんな古墳か
下侍塚古墳は、大田原市湯津上の那珂川右岸の段丘上にある前方後方墳です。全長は84.0メートル。上侍塚古墳とともに、昭和26年(1951年)6月9日に国の史跡に指定されました。
元禄5年(1692年)、水戸藩主の徳川光圀の命で上下両古墳が発掘されました。日本で最初の学術的な発掘調査とされ、出土品は絵師に図を描かせたのち、再び墓の中へ埋め戻されました。
下侍塚古墳の読み方と別名
下侍塚古墳(シモサムライズカコフン)
上侍塚古墳の北約800メートルにある古墳。
侍塚古墳(サムライズカコフン)
国指定史跡としての名称。上侍塚古墳と下侍塚古墳の2基をまとめて指す。
下侍塚古墳は誰の墓か
1692年の発掘は、現在笠石神社に祀られている国宝の那須国造碑の碑主を探すためのものでした。しかし、碑主を明らかにする資料は出ませんでした。以後も被葬者を示す資料は、大田原市の解説には挙げられていません。
1692年の発掘でも碑主を示す資料は出なかった:特定されていない
光圀は那須国造碑の碑主を探すために発掘させた。
下侍塚古墳の大きさと形
大田原市の解説では、全長は84.0メートルです。後方部は長さ・幅とも48.0メートルで高さ9.4メートル、前方部は長さ・幅とも36.0メートルで高さ5.0メートル。四角い後方部が、前方部より4メートル以上高く盛り上がっています。
全長:84.0メートル
後方部:長さ48.0メートル、幅48.0メートル、高さ9.4メートル
前方部:長さ36.0メートル、幅36.0メートル、高さ5.0メートル
下侍塚古墳はいつ作られたか
大田原市の解説は、出土品の検討から、上侍塚古墳は西暦400年をさかのぼる時期に造られ、下侍塚古墳はそれより先に築かれたと考えられていると述べています。
下侍塚古墳の場所と行き方(観光情報)
所在地は栃木県大田原市湯津上です。上下の古墳の発掘の跡は、後方部の墳頂に凹地として今も残っています。
下侍塚古墳の発見と調査の歩み
光圀が掘らせ、埋め戻した古墳
元禄5年(1692年)、徳川光圀の命で上侍塚・下侍塚の両古墳が発掘されました。目的は那須国造碑の碑主を探すことでした。日本で最初の学術的な発掘調査とされています。
鏡や管玉、壺などが見つかり、絵師に図を描かせたあと、松板の箱に収めて墓の中へ戻されました。後方部の墳頂には発掘の跡が凹地として残り、墳丘には盛土の崩れを防ぐために松が植えられて、今も景観を整えています。
段丘の上に築かれた84メートルの前方後方墳
後方部は一辺48メートルの方形で高さ9.4メートル、前方部は一辺36メートルで高さ5.0メートルです。昭和50年(1975年)には、土地改良事業にともなって周溝が発掘され、古墳の規模と周溝の形が確かめられました。このとき土師器の壺などが出土しています。
北に約800メートル、上侍塚古墳との関係
上侍塚古墳は下侍塚古墳の北方約800メートルにあり、全長は114.0メートルです。栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山古墳に次ぐ大きさとされています。
築造は下侍塚のほうが先と考えられています。令和3年度から7年度には、栃木県が「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」で両古墳の調査を行いました。
下侍塚古墳から出土したもの
1692年の出土品は図に写されたのち墓中に埋め戻されました。
鏡・管玉・壺など
1692年の発掘で出土。市の解説は上下両古墳をまとめて記しており、下侍塚だけの内訳は不明。
土師器の壺
1975年の周溝の発掘で出土。
下侍塚古墳と関連する古墳
下侍塚古墳についてよくある質問
下侍塚古墳の大きさはどれくらいですか。
全長84.0メートルで、後方部の高さは9.4メートル、前方部の高さは5.0メートルです。
徳川光圀はなぜ発掘させたのですか。
現在笠石神社に祀られている国宝、那須国造碑の碑主を探すためです。ただし碑主を明らかにする資料は出ませんでした。
発掘で出た品々は今どこにありますか。
絵師に図を描かせたあと松板の箱に収め、墓の中へ埋め戻されました。
上侍塚古墳とはどう違いますか。
上侍塚古墳は全長114.0メートルで、下侍塚古墳の北約800メートルにあります。築造は下侍塚古墳のほうが先と考えられています。
下侍塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
前方後方墳()
四角い後方部に四角い前方部がつながった形の古墳。
後方部()
前方後方墳で、主に埋葬が行われる四角い高い部分。
周溝()
墳丘の周りに掘られた溝。
史跡()
文化財保護法にもとづき、価値の高い遺跡を国などが指定したもの。
下侍塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。