徳川光圀の命で掘られた、日本で最初の学術的な発掘調査の現場。
侍塚古墳とはどんな古墳か
侍塚古墳は、栃木県大田原市湯津上にある2基の前方後方墳です。南に上侍塚古墳、その北およそ800メートルに下侍塚古墳があります。大田原市は、上侍塚古墳を全長114.0メートル、下侍塚古墳を全長84.0メートルとしています。
この2基が特別なのは、大きさではありません。元禄5年(1692)に徳川光圀の命により、日本で最初の学術的な発掘調査が上下両侍塚古墳で実施された、その現場だからです。
目的は、近くの笠石神社に祀られる那須国造碑(国宝)の碑主をつきとめることでした。大田原市は、この調査ではそれを明らかにするものは出てこなかったとしています。見つかった鏡や管玉、壺などは、画工に図化させたうえで松板の箱に収め、ふたたび墓の中へ埋め戻されました。
侍塚古墳の読み方と別名
読みは「さむらいづかこふん」です。2基あるため、南側を「かみさむらいづか」、北側を「しもさむらいづか」と呼び分けます。
まぎらわしいのは、上が南で、下が北であることです。これは那珂川の流れにそった呼び方で、川上を「上」、川下を「下」とするためです。しかも大田原市によれば、下侍塚古墳のほうが上侍塚古墳に先立って築造されたと考えられており、名前の順と造られた順が逆になっています。
「侍塚」という名の由来ははっきりしません。武士の塚と読めますが、古墳が築かれたのは武士が現れるはるか前の時代です。
侍塚古墳(さむらいづかこふん)
国の史跡としての指定名称。上侍塚古墳と下侍塚古墳の2基をまとめて指す。
上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)
南側の1基。全長114.0メートル。栃木県内の前方後方墳では第2位の大きさ。
下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)
北側の1基。全長84.0メートル。上侍塚古墳に先立って築造されたと考えられている。
侍塚古墳は誰の墓か
侍塚古墳の被葬者はわかっていません。しかもこの古墳の場合、わからなかったことが記録に残っています。
元禄5年(1692)の発掘は、那須国造碑の碑主を求めて行われました。大田原市は次のように書いています。
この調査は現在笠石神社に祀られている那須国造碑(国宝)の碑主を求めての調査でしたが、それを明らかにするものは出てきませんでした
300年以上前に、答えが出なかったことがはっきり書き留められている。これはとても珍しいことです。
碑文に登場する那須直韋提(なすのあたいいで)という人物の墓を確かめようとしたのが、この調査の動機でした。出てきたのは鏡や管玉、壺などの品で、名を記したものはありません。問いは立ったまま、いまも残っています。
公式の説明:わかっていない
那須国造碑の碑主を求めての調査だったが、それを明らかにするものは出てこなかったとする。
元禄の調査が想定した候補:那須直韋提
那須国造碑の碑主。光圀はその墓を確かめようとしたが、裏づけは得られなかった。
侍塚古墳の大きさと形
大田原市は、2基の大きさを次のように公表しています。
上侍塚古墳は全長114.0メートル、後方部長60.5メートル、後方部幅58.0メートル、後方部高11.5メートル、前方部長53.5メートル、前方部幅52.0メートル、前方部高6.5メートル。
下侍塚古墳は全長84.0メートル、後方部長48.0メートル、後方部幅48.0メートル、後方部高9.4メートル、前方部長36.0メートル、前方部幅36.0メートル、前方部高5.0メートルです。
どちらも前方後方墳です。後円部のかわりに、四角い後方部をもつ形をいいます。那須地方にはこの形の古墳が多く、上侍塚古墳は栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山古墳に次いで第2位の大きさを誇るとされます。
2基は那珂川右岸の段丘上に立地します。前方部が後方部よりずっと低いのは、前期古墳に多い特徴です。
上侍塚古墳の全長:114.0メートル
上侍塚古墳の後方部:長さ60.5メートル・幅58.0メートル・高さ11.5メートル
上侍塚古墳の前方部:長さ53.5メートル・幅52.0メートル・高さ6.5メートル
下侍塚古墳の全長:84.0メートル
下侍塚古墳の後方部:長さ48.0メートル・幅48.0メートル・高さ9.4メートル
2基のあいだの距離:約800メートル
侍塚古墳はいつ作られたか
侍塚古墳の場所と行き方(観光情報)
下侍塚古墳の北には、那須国造碑を神体とする笠石神社があります。元禄の調査は、この碑の碑主を探すために行われました。
碑と古墳をあわせて訪ねると、光圀がなぜ掘ろうと考えたのかが実感できます。訪ねる前に、大田原市の最新の案内を確かめることをおすすめします。
国指定史跡 侍塚古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)
国指定史跡 侍塚古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)の住所:栃木県大田原市湯津上
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:公式に確認できませんでした
大田原市は、所在地を大田原市湯津上、員数を2基としています。最寄り駅からの行き方や駐車場については、公式のページでは確かめられませんでした。
上下どちらの後方部の墳頂にも、元禄5年の発掘の痕跡が凹地として今なお残っています。300年以上前に掘られた穴が、そのまま地形として見られるということです。問い合わせ先は大田原市文化振興課(栃木県大田原市本町1丁目4番1号 本庁舎4階)です。
侍塚古墳の発見と調査の歩み
日本で最初の学術的な発掘
大田原市は、この2基について、元禄5年(1692)に徳川光圀の命により、日本で最初の学術的な発掘調査が実施されたとしています。
きっかけは一つの石碑でした。光圀は那須の地にある古碑に興味を持ち、碑文に登場する人物の墓を確かめようと考えます。目当ての答えは出ませんでした。碑主を明らかにするものは出てこなかったと、大田原市は書いています。
それでも、この調査は日本の考古学の出発点とされています。目的をもって計画し、出たものを記録し、結果を文書に残す。当時の様子は、大金重貞(おおがねしげさだ)が著した記録や、光圀の家臣である佐々介三郎宗淳の手紙をまとめた「佐々介三郎書簡」によって知ることができます。
掘った理由と、掘って何が出たかが、両方残っている。それが「学術的」と呼ばれる理由です。
掘って、描いて、埋め戻した
この調査がいまも語られる最大の理由は、そのあとの始末にあります。
大田原市によれば、このとき鏡や管玉、壺など多くの遺物が発見されましたが、これらの遺物は画工に図化させた後に松板の箱に収められ、ふたたび墓中に埋め戻されました。さらに墳丘には盛土の崩落を防ぐため松が植えられ、現在も美観を高めています。
掘り出した品を持ち去らず、記録を取って元の場所へ返す。1692年に、それが行われました。大田原市は、この姿勢が現在の文化財保存対策の一つの手法として生き続けているとしています。
同じ時代、各地の古墳は盗掘に遭い、副葬品は散逸していきました。武蔵府中熊野神社古墳の石室も、明治には開いて中身の多くが持ち出されています。侍塚古墳の扱いは、当時としては異例でした。
前方後方墳という、東国の形
侍塚古墳の2基は、どちらも前方後方墳です。後円部のかわりに四角い後方部をもつ形をいいます。
大田原市によれば、上侍塚古墳は栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山古墳に次いで第2位の大きさを誇ります。
前方後方墳は、東国と東海に多い墳形です。前方後円墳が畿内の王権と結びついた形であるのに対し、前方後方墳はそれとは別の系統とのつながりを示すのではないか、と考えられています。同じ関東でも、埼玉古墳群の稲荷山古墳や、茨城の舟塚山古墳は前方後円墳です。
2基とも葺石が認められ、墳丘の周囲には周濠の痕跡があります。下侍塚古墳では昭和50年(1975)に土地改良事業にともなう周溝の発掘調査が実施され、古墳の規模と周溝の形状が確認され、土師器の壺などの遺物が出土しました。
侍塚古墳から出土したもの
元禄の出土品は、いまも古墳の中にあると考えられています。持ち去られなかったからです。
代わりに残ったのが、画工が描いた図と、大金重貞や佐々介三郎宗淳の書き残した文書です。物ではなく記録を持ち帰るという方法が、300年以上前に選ばれました。
鏡
元禄5年の調査で両古墳から発見された。図化されたのち、埋め戻された。
管玉
細長い筒状の玉。同じく元禄の調査で見つかり、松板の箱に収めて埋め戻された。
壺
元禄の調査での出土品として、大田原市が名を挙げている。
土師器の壺
昭和50年の下侍塚古墳の周溝の発掘調査で出土した。
葺石
2基とも墳丘に葺石が認められている。
発掘の痕跡
上下どちらの後方部の墳頂にも、元禄5年の発掘の跡が凹地として今なお残っている。
侍塚古墳と関連する古墳
侍塚古墳についてよくある質問
侍塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。元禄5年の発掘は、那須国造碑の碑主である那須直韋提の墓かどうかを確かめるために行われましたが、大田原市は、それを明らかにするものは出てこなかったとしています。
侍塚古墳はどこにありますか。
栃木県大田原市湯津上です。那珂川の右岸の段丘上に、上侍塚古墳と下侍塚古墳の2基があります。最寄り駅からの行き方は、公式のページでは確かめられませんでした。
侍塚古墳の大きさはどれくらいですか。
大田原市は、上侍塚古墳を全長114.0メートル、下侍塚古墳を全長84.0メートルとしています。上侍塚古墳は栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山古墳に次いで第2位の大きさです。
侍塚古墳はいつ作られましたか。
大田原市は、上侍塚古墳は西暦400年をさかのぼる時期に築造され、下侍塚古墳はそれに先立って築造されたと考えられるとしています。名前の順と、造られた順が逆になっています。
なぜ日本で最初の学術的な発掘といわれるのですか。
元禄5年(1692)に、那須国造碑の碑主を確かめるという目的をもって行われ、出土品を図に描いて記録したうえで埋め戻し、墳丘に松を植えて守ったためです。この姿勢が現在の文化財保存につながったとされています。
侍塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)
後円部のかわりに四角い後方部をもつ古墳。東国と東海に多く、那須地方に集中する。
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)
笠石神社の神体となっている石碑。国宝。元禄の発掘は、この碑主を求めて行われた。
周溝(しゅうこう)
墳丘のまわりを掘った溝。下侍塚古墳では昭和50年に発掘調査が行われた。
土師器(はじき)
古墳時代の素焼きの土器。下侍塚古墳の周溝から壺などが出土している。
後方部(こうほうぶ)
前方後方墳の四角い部分。前方後円墳の後円部にあたり、埋葬施設が置かれる。
侍塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。