本文へ移動

京都府

蛭子山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

蛭子山古墳  / エビスヤマコフン

前方後円墳 4世紀

丹後の日本海側に築かれた、舟形石棺の残る大型前方後円墳。

蛭子山古墳とはどんな古墳か

京都府与謝郡与謝野町にある前方後円墳です。文化庁の国指定文化財等データベースは、所在地を与謝郡与謝野町とし、1930年(昭和5年)7月8日に国の史跡に指定されたと記しています。

指定のときの解説文は、いまと違ってという古い単位で書かれています。そこには、大師山山麓の低い丘陵上に築かれた前方後円墳で、封土は三段より成り、全長約五百四十尺、後円部の直径約三百八十尺、高さ約五十尺、前方部の幅約百八十尺、高さ約三十尺、とあります。全面に葺石があり埴輪を存する、とも続きます。

後円部の頂の中央から刳抜式の石棺が掘り出され、棺の内には頭のところに枕の形が彫り出されていた、と解説文は記します。人骨、漢式の鏡、直刀などが見つかったともあります。網野銚子山古墳・神明山古墳と合わせて日本海三大古墳と呼ばれる、丹後を代表する古墳です。

蛭子山古墳の読み方と別名

読みは「えびすやまこふん」です。文化庁のふりがなも同じで、迷うところはありません。

名の由来は、墳丘にある祠にあるようです。文化庁の解説文は、後円部の東南に接して小円墳があり、今、蛭子の祠を存す、と結んでいます。蛭子は「えびす」と読む字で、この祠の名が山の名になり、さらに古墳の名になったと考えられます。

古墳の名は、このように後から付いたものがほとんどです。造ったころの呼び名は、ほぼ残っていません。

蛭子山古墳(えびすやまこふん)

文化庁の指定名称。ふりがなも「えびすやまこふん」で、これが公式の呼び方になる。

蛭子山1号墳(えびすやまいちごうふん)

台地上に並ぶ蛭子山古墳群のうち、この前方後円墳だけを指すときの言い方。

日本海三大古墳(にほんかいさんだいこふん)

網野銚子山古墳・神明山古墳と合わせた総称。いずれも丹後半島にある。

蛭子山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

文化庁の解説文は、石棺のこと、人骨のこと、鏡や直刀が見つかったことまでは記していますが、葬られた人については何も書いていません。宮内庁の陵墓にも陵墓参考地にも入っていない、国の史跡です。

わかるのは、この人が置かれていた立場です。丹後半島では弥生時代の終わりから古墳時代の前期にかけて、日本海の交易によって伸びた勢力があったといわれます。蛭子山古墳は、その丹後で、段築・葺石・円筒埴輪の三つをそろえた最も早い部類の古墳とされます。

墳形はヤマト王権に特有の前方後円形です。いっぽう石棺は加悦谷で採れる花崗岩を刳り抜いたもので、埴輪も丹後型と呼ばれる土地固有のものでした。中央の形式と土地の作り方が、一つの墳丘に同居しています。

断定できない:わかっていない

指定のときの解説文は石棺・人骨・副葬品にふれるが、葬られた人には一言もふれていない。

蛭子山古墳の大きさと形

文化庁が公表しているのは、1930年(昭和5年)の指定のときに書かれた数字だけです。単位はで、全長約五百四十尺、後円部の直径約三百八十尺、高さ約五十尺、前方部の幅約百八十尺、高さ約三十尺とされます。後円部の頂は平面をなし、直径約百尺とも記されています。

一尺はおよそ30センチメートルですから、全長は160メートルほどにあたる計算になります。ただし、これをメートルで言い直した数字を公式のページで確かめることはできませんでした。墳丘は三段に築かれ、全面に葺石があり、埴輪が立っていました。

全長:約五百四十尺

後円部の直径:約三百八十尺

後円部の高さ:約五十尺

前方部の幅:約百八十尺

前方部の高さ:約三十尺

国の史跡の指定年月日:1930年(昭和5年)7月8日

蛭子山古墳はいつ作られたか

蛭子山古墳の築造年代を記した公式ページを、確かめられませんでした。文化庁のデータベースは、時代・年代・西暦の欄がいずれも空欄のままです。

下調べによれば、古墳時代前期後半の4世紀中頃と推定されています。日本海三大古墳のうちでは規模は3番目ですが、築かれたのはこの古墳がいちばん早い、とされます。

手がかりは埴輪と石棺です。丹後型円筒埴輪という土地固有の埴輪が使われており、同じ埴輪は網野銚子山古墳や神明山古墳にも見られます。石棺は加悦谷で採れる花崗岩製で、これも土地のものです。年代を決める材料はそろっていますが、公式のページに書かれた数字としては取り出せませんでした。

蛭子山古墳の場所と行き方(観光情報)

谷を一つ隔てた南およそ50メートルには、作山古墳群という別の国の史跡があるとされます。岡山県総社市の作山古墳とは別のもので、蛭子山古墳との関わりが指摘されています。

同じ丹後には、この古墳と並び称される神明山古墳が京丹後市丹後町にあります。二つを合わせて訪ねると、丹後の勢力の広がりが見えてきます。

蛭子山古墳

地図で開く

蛭子山古墳の住所:与謝郡与謝野町

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした。下調べでは、古墳群が史跡整備を経て町立の古墳公園に含まれるとされますが、公式のページでは確かめられませんでした

所在地として公式に確かめられたのは、文化庁が記す与謝郡与謝野町という市区町村名までです。それより細かい町名や番地は、公式のページで確かめられませんでした。

舟形石棺は、掘り出されたあと埋め戻された位置の上に覆屋を建てて保存されていると伝えられます。ただし、その覆屋を見られるかどうかについても、公式の記載を確かめられませんでした。訪ねる前に、与謝野町へ問い合わせるのが確かです。

蛭子山古墳の発見と調査の歩み

  1. 尺で書かれた、100年前の指定文
  2. 石を刳り抜いた棺と、彫り出された枕
  3. 棺のまわりに立てられた四角い埴輪の列

尺で書かれた、100年前の指定文

文化庁のデータベースにある蛭子山古墳の解説文は、いまの日本語とはずいぶん違います。片仮名まじりの文語体で、長さの単位もです。

大師山山麓ノ低キ丘陵上ニ築カレタル前方後円墳ニシテ封土ハ三段ヨリ成リ全長約五百四十尺後円部ノ直徑約三百八十尺高サ約五十尺

国の史跡に指定されたのは1930年(昭和5年)です。当時の書き方がそのまま残り、いまも公式の記述として読めます。

これは古い文書が放置されているというより、指定のときに何をどう認めたかが、その言葉のまま保たれているということです。同じことは、同じ時期に指定された神明山古墳の解説文にも見られます。

石を刳り抜いた棺と、彫り出された枕

後円部の中央には、石を刳り抜いて作った舟形の石棺が据えられていました。文化庁の解説文は、最近、中央より刳抜式石棺を発掘せり、と記しています。

この石棺には目印になる特徴があります。蓋には前後に各二個、身には前後に各一個の縄掛凸起があり、棺の内には頭のところに枕の形が彫り出されている、というのです。縄掛凸起は、棺を運ぶときに縄をかけるための出っぱりとされます。

石の棺の中に、石の枕まで彫り込んであるということです。葬られた人の頭を、どの向きにどう置くかまで決めて作られています。棺の材は加悦谷で採れる花崗岩で、遠くから運ばれたものではありません。中の人がどこの人であったかを考えるときの、一つの手がかりになります。

棺のまわりに立てられた四角い埴輪の列

文化庁の解説文には、もう一つ興味深い記述があります。石棺を囲み、十尺内外の距離に埴輪円筒を樹てたるもののごとく、その南隅に十数個の埴輪円筒が短形に並列している、というのです。

つまり、墳丘の斜面に並ぶ埴輪とは別に、棺のまわりを四角く囲む埴輪の列があったことになります。解説文はさらに、その内側の石棺に近いところに家形埴輪の残片が一個ある、と続けます。

棺を囲う四角い柵と、その中に置かれた家。埋葬の場そのものを、埴輪で組み立てていたことになります。

同じような四角い埴輪列は、東側の埋葬施設のまわりでも見つかっているとされます。丹後の古墳が独自の作法を持っていたことを示す例です。

蛭子山古墳から出土したもの

文化庁の解説文が挙げているのは、人骨、漢式の鏡、直刀、そして埴輪円筒と家形埴輪の残片です。石棺そのものも、いまに伝わる出土品のひとつです。

舟形石棺は2019年(平成31年)3月29日に京都府の指定有形文化財となったと伝えられますが、その指定を記した公式のページは確かめられませんでした。出土した埴輪などは、与謝野町の資料館で保管・展示されているとされます。

刳抜式舟形石棺

花崗岩を刳り抜いた舟形の棺。蓋と身に縄掛凸起があり、内には枕の形が彫り出されている。

漢式の鏡

文化庁の解説文が石棺内から見つかったと記す鏡。中国の漢の時代の様式のもの。

直刀

石棺の中から人骨・鏡とともに発見されたと解説文にある。

丹後型円筒埴輪

丹後半島に特有の形の円筒埴輪。この古墳と神明山古墳・網野銚子山古墳に共通して見られる。

家形埴輪

石棺を囲む埴輪列の内側、石棺に近いところから残片が見つかったと解説文にある。

蛭子山古墳と関連する古墳

蛭子山古墳についてよくある質問

蛭子山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。文化庁の解説文は石棺や副葬品にはふれていますが、葬られた人については記していません。宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡として扱われています。

蛭子山古墳はどこにありますか。

文化庁は所在地を京都府与謝郡与謝野町としています。それより細かい町名や番地は、公式のページでは確かめられませんでした。丹後半島の付け根、加悦谷の東の縁にあたります。

蛭子山古墳の大きさはどれくらいですか。

文化庁の解説文は全長約五百四十尺、後円部の直径約三百八十尺、高さ約五十尺としています。一尺はおよそ30センチメートルにあたります。

蛭子山古墳はいつ作られましたか。

築造年代を記した公式ページは確かめられませんでした。下調べでは4世紀中頃とされ、日本海三大古墳のうちでは最も早い築造と考えられています。

蛭子山古墳の石棺を見られますか。

石棺は覆屋の中に安置されていると伝えられます。ただし見学できるかどうかについて、公式の記載は確認できませんでした。与謝野町に問い合わせるのが確実です。

蛭子山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

(しゃく)

日本で使われてきた長さの単位。一尺はおよそ30センチメートル。古い指定文はこの単位で書かれる。

刳抜式石棺(くりぬきしきせっかん)

一つの石の塊をくり抜いて作った棺。板石を組み合わせる組合式と区別される。

縄掛凸起(なわかけとっき)

石棺の蓋や身に付く出っぱり。棺を運ぶときに縄をかけるためのものとされる。

丹後型円筒埴輪(たんごがたえんとうはにわ)

丹後半島に特有の形をした円筒埴輪。土地の勢力が独自に作ったものと考えられている。

蛭子山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁