天智天皇の山科陵として治定されている、京都市山科区の八角墳。
御廟野古墳とはどんな古墳か
京都市山科区にある古墳です。宮内庁は、第38代天智天皇の山科陵として管理し、所在地を京都府京都市山科区御陵上御廟野町としています。
宮内庁が記す陵形は「上円下方」です。いっぽう考古学では、八角形の墳丘を持つ八角墳と見るのが一般的になっています。同じ古墳を、行政の帳簿は上円下方と呼び、研究者は八角墳と呼んでいます。
八角墳は7世紀の中ごろから大王の墓にかぎって造られるようになった形で、明日香村の野口王墓古墳や牽牛子塚古墳、中尾山古墳も同じ仲間に数えられます。被葬者を疑う説がほとんど無い古墳として、野口王墓古墳と並び称されます。参道の入口には、時を知らせた天智天皇の功績にちなむ日時計が置かれています。
御廟野古墳の読み方と別名
読みは「ごびょうのこふん」です。所在地である山科区御陵上御廟野町の「御廟野」から来ています。
地名のほうが古墳の名になっているのではなく、古墳があるから地名が「御陵」「御廟野」になった、という順序です。最寄り駅の名も御陵駅で、この一帯は陵を中心にできた土地です。
宮内庁の陵名は山科陵。読みは「やましなのみささぎ」です。天智天皇の諡号の読みを、宮内庁は「てんぢてんのう」と記しています。太田茶臼山古墳が三嶋藍野陵と呼ばれるように、陵名は多くの場合、その土地の古い地名から付けられます。
御廟野古墳(ごびょうのこふん)
考古学の側からの呼び方。所在地の御廟野町という地名に由来する、場所による名。
山科陵(やましなのみささぎ)
宮内庁が定める陵名。第38代天智天皇の陵として管理されている。
天智天皇陵(てんぢてんのうりょう)
治定にもとづく呼び方。宮内庁のページは諡号のよみを「てんぢてんのう」と記す。
御廟野古墳は誰の墓か
宮内庁は、この古墳を第38代天智天皇の山科陵として管理しています。この治定については、学説の側からもほとんど異論がありません。
古墳の被葬者が誰かという問いは、たいてい答えが出ません。大仙陵古墳も誉田御廟山古墳も、治定と学説が食い違ったまま並んでいます。ところがこの古墳と、明日香村の野口王墓古墳の二つだけは、天皇の墓と呼んでもほぼ間違いがないとされます。
理由は、記録の連なりです。『延喜式』では十の近陵の一つに列せられ、朝廷から使いが送られ続けました。祭りが途切れなかったため、場所を見失うことがなかったのです。
明治天皇の伏見桃山陵から現在まで、天皇の陵は上円下方墳の形で造られていますが、その手本になったのが、当時この形と見なされたこの古墳でした。
宮内庁の治定。学説もこれを支持する:第38代天智天皇
陵名は山科陵、陵形は上円下方、所在地は京都府京都市山科区御陵上御廟野町と記されている。
呼び方が分かれている:八角墳とみるか、上円下方墳とみるか
宮内庁の欄は上円下方。考古学では八角形の墳丘とみる説が一般的で、名が一致していない。
御廟野古墳の大きさと形
宮内庁が公表しているのは、陵名・陵形・所在地・行き方・参拝の時間までです。墳丘の寸法は、宮内庁のページには載っていません。
記されているのは陵形が「上円下方」であること。上が円く、下が四角い形という意味です。明治以降の天皇の陵がこの形で造られているのは、この古墳を手本にしたためだと言われています。
いっぽう考古学では、この古墳は八角墳とされます。八角形の墳丘は、正面から見ると台形が重なったように見えるため、上円下方と見間違えられやすい形です。実際の各部の寸法を記した公式のページは、確かめられませんでした。
宮内庁が記す陵形:上円下方
宮内庁が記す陵名:山科陵(やましなのみささぎ)
所在地:京都府京都市山科区御陵上御廟野町
墳丘の各部の寸法:宮内庁のページには記載がなく、公式には確認できませんでした
御廟野古墳はいつ作られたか
御廟野古墳の場所と行き方(観光情報)
京都市内で天皇の陵に治定されている古墳は多くありません。市街地から地下鉄で行ける古墳としては、もっとも訪ねやすい一基です。
同じ京都府には、椿井大塚山古墳や天皇の杜古墳、物集女車塚古墳、恵解山古墳など、時代の違う古墳が点在しています。あわせて歩くと、形の移り変わりが見えてきます。
御廟野古墳(天智天皇 山科陵)
御廟野古墳(天智天皇 山科陵)の住所:京都府京都市山科区御陵上御廟野町
交通:京都市営地下鉄・京阪 御陵駅から徒歩約12分(宮内庁)
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝できます。宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています。
最寄りの御陵駅は、この陵にちなむ駅名です。駅を出て歩き始めた時点で、すでに陵の名の中にいることになります。宮内庁は徒歩約12分としています。
参道は長く、両側を木立にはさまれた一本道です。入口の左手には日時計が置かれています。天智天皇が漏刻という水時計を作らせ、初めて時を知らせたという伝えにちなむものです。参拝できるのは拝所までで、墳丘には近づけません。
御廟野古墳の発見と調査の歩み
上円下方か、八角形か
宮内庁の欄には「上円下方」と書かれています。上が円く、下が四角い形という意味です。ところが考古学では、この古墳は八角墳とされます。
食い違いには理由があります。八角形の墳丘は、角がゆるやかで、木におおわれていると円く見えます。大正のころには上円下方墳と見なされていました。宮内庁の欄は、そのころの理解を引き継いでいます。
そして、この「上円下方」という見立てが、その後の天皇の陵の形を決めました。明治天皇の伏見桃山陵から現在まで、天皇の陵は上円下方墳の形で造られています。手本になったのは、この古墳です。見立てが間違っていたかもしれない、その形が制度になりました。
祭りが途切れなかった、ということ
御廟野古墳から出土したもの
この古墳から出土したものは、公式には確認できませんでした。陵墓として管理されており、発掘調査が行われていないためです。
中がわからない、というのが陵墓の常です。高松塚古墳やキトラ古墳のように壁画が見つかった古墳は、陵墓ではなかったからこそ調べられました。この古墳について語れるのは、外から見た形と、書かれた記録だけです。
日時計
参道の入口の左側に置かれている。時を知らせた天智天皇の功績にちなむ、後世のもの。
「山科陵」の立て札
参道の入口にある宮内庁の標識。陵名を示す。
御廟野古墳と関連する古墳
御廟野古墳についてよくある質問
御廟野古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は第38代天智天皇の山科陵として管理しています。記録と祭りが途切れずに続いたため、学説の側からもほとんど異論がなく、明日香村の野口王墓古墳と並ぶ数少ない例とされます。
御廟野古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を京都府京都市山科区御陵上御廟野町としています。行き方は京都市営地下鉄・京阪の御陵駅から徒歩約12分と案内されています。
御廟野古墳の大きさはどれくらいですか。
宮内庁のページに墳丘の寸法の記載はなく、公式には確認できませんでした。記されているのは陵形が「上円下方」であることまでです。考古学では八角墳とされます。
御廟野古墳はいつ作られましたか。
7世紀の終わりから8世紀にかけての築造とみられています。天智天皇は671年に世を去ったと伝えられ、前方後円墳が造られなくなって久しい時期にあたります。
御廟野古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は原則として年間をとおして参拝可能、時間は原則8時30分から17時としています。
御廟野古墳と併せて覚えたい言葉・用語
上円下方墳(じょうえんかほうふん)
下が四角く、上が円い形の古墳。宮内庁はこの古墳の陵形をこの語で記している。
八角墳(はっかくふん)
墳丘の平面が八角形の古墳。7世紀の大王の墓にかぎられ、全国でも数基しか知られていない。
近陵(きんりょう)
『延喜式』が、朝廷に近い縁のものとして手厚く扱った陵。この古墳は十の近陵の一つ。
拝所(はいしょ)
陵墓の前に設けられた参拝の場所。陵墓では、ここまでしか入ることができない。
御廟野古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。