南山城で最大の前方後円墳。長持形石棺と7面の鏡が未盗掘で見つかった。
久津川車塚古墳とはどんな古墳か
京都府城陽市平川にある前方後円墳です。文化庁は史跡「久津川古墳群」の所在地を城陽市平川、面積を33037.09平方メートルとし、昭和54年(1979年)1月19日の指定と記しています。
文化庁の解説文は、この古墳を全長184メートル、後円部径114メートル、前方部幅107メートルの大規模な前方後円墳とし、墳丘は3段に築成され、各段に埴輪列を持ち、斜面に葺石を葺くとしています。濠を含めた全体は、全長224メートル、幅164メートルに及びます。
後円部の中央には長持形石棺があり、鏡7面、甲冑5領のほか多数の玉類が発見されました。石棺は明治27年(1894年)、鉄道の敷設工事のさなかに未盗掘のまま姿を現したと伝えられます。
石棺は京都大学、鏡は泉屋博古館がそれぞれ保管し、いずれも国の重要文化財です。
久津川車塚古墳の読み方と別名
読みは「くつかわくるまづかこふん」です。ただし文化庁の中でも読みが揺れています。史跡の登録では「くつかわこふんぐん」ですが、重要文化財の登録では「くづかわくるまづかこふん」と濁ります。
「車塚」は各地にある古墳の名です。物集女車塚古墳、牧野車塚古墳も同じ名を持ちます。墳丘の形を車に見立てた呼び方とされますが、同じ名の古墳どうしに関係があるわけではありません。
史跡の指定名称は、平成28年(2016年)に「久津川車塚・丸塚古墳」から「久津川古墳群」へ変更されました。
久津川車塚古墳(くつかわくるまづかこふん)
一般に用いられる名。車塚は、墳丘の形を車に見立てた呼び方とされる。
くづかわくるまづかこふん(くづかわくるまづかこふん)
文化庁の重要文化財の登録では、この読みで「くづかわ」と濁る形が使われている。
久津川古墳群(くつかわこふんぐん)
平成28年に指定名称が変更された史跡の名。この古墳のほか丸塚古墳などを含む。
久津川車塚古墳は誰の墓か
葬られた人が誰かは、わかっていません。
文化庁の解説文は、この古墳を南山城最大の古墳群の中心とし、5世紀代を中心に連綿と系譜的に築造されていく古墳群として極めて重要なものだとしていますが、被葬者の名は挙げていません。
下調べの範囲では、その規模と内容から南山城地方を治めた大首長の墓と推測されています。宮内庁の陵墓でも陵墓参考地でもなく、国の史跡として扱われているため、調査ができます。
長持形石棺は畿内の大王の墓に見られる形式で、そこから鏡7面と甲冑5領が出ました。畿内の中枢と強く結びついた人物であったことは、副葬品から読み取れます。
さらに西側の造出でも、組合式木棺を直接埋めた埋葬施設が確認されています。そこに葬られた人が誰かも、わかっていません。
断定できない:わかっていない
史跡の解説文は墳丘と副葬品を詳しく記すが、被葬者の名には触れていない。
学術的な見方のひとつ:南山城を治めた大首長
長持形石棺は畿内の大王の墓に見られる形式で、中枢との結びつきを示すとされる。
久津川車塚古墳の大きさと形
文化庁の解説文は、全長184メートル、後円部径114メートル、前方部幅107メートルとしています。周濠は幅20メートル・深さ4メートルで、濠を含めた全体は全長224メートル、幅164メートルになります。
いっぽう、奈良文化財研究所の全国遺跡報告総覧に載る立命館大学の調査概報は、特記事項に「墳長175メートル・三段築造」と記しています。文化庁の184メートルと、9メートルの差があります。
食い違いではなく、測り直しの結果です。古墳の大きさは、測り直されるたびに書き換わります。
墳丘は3段に築かれ、各段に埴輪列を持ち、幅5メートルの平坦面が段ごとに作られています。周濠の外側には幅8メートル以上の外堤がめぐり、内外両側縁に埴輪列が二重に立てられていました。
全長:184メートル(文化庁)/175メートル(立命館大学の調査概報)
後円部の径:114メートル
前方部の幅:107メートル
濠を含めた全体:全長224メートル、幅164メートル
久津川車塚古墳はいつ作られたか
文化庁は、久津川古墳群を「5世紀代を中心に以降まで連綿と系譜的に各墳が築造されていく古墳群」とし、南山城最大の古墳群として極めて重要だとしています。この古墳ひとつの時代・年代の欄は空欄です。
下調べでは、古墳時代中期前半の5世紀前半頃の築造と推定されます。ただし、この年代を示す公式の記載は確かめられませんでした。
5世紀前半は、大阪府で上石津ミサンザイ古墳などの巨大古墳が築かれた時期です。長持形石棺という共通の形式が、畿内とこの地を結んでいます。京都府では、少し前に椿井大塚山古墳が築かれています。
久津川車塚古墳の場所と行き方(観光情報)
史跡「久津川古墳群」には、この古墳のほかに丸塚古墳・芭蕉塚古墳・久世小学校古墳が含まれます。平成28年(2016年)に指定名称が変更され、令和6年(2024年)10月11日にも追加指定が行われました。
出土品は各地に分かれています。長持形石棺は京都大学、鏡7面は泉屋博古館が保管し、いずれも国の重要文化財です。
久津川車塚古墳
久津川車塚古墳の住所:京都府城陽市平川車塚9番地
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓ではなく、国の史跡です。史跡整備に向けた調査が続いており、墳丘に立ち入れるかどうかについての公式の記載は確認できませんでした
住所は、奈良文化財研究所の全国遺跡報告総覧に登録された調査概報の遺跡所在地です。文化庁が公表する史跡の所在地は城陽市平川までとなっています。
この古墳の変わったところは、鉄道が古墳域を縦断していることです。明治27年の鉄道敷設工事のさなかに石棺が見つかったのも、そのためでした。工事が古墳を壊し、同時に中身を見つけたことになります。
久津川車塚古墳の発見と調査の歩み
鉄道工事が掘り当てた石棺
明治27年(1894年)、奈良鉄道の線路を敷く工事が後円部にかかりました。そこで見つかったのが、未盗掘の長持形石棺と、その中の副葬品でした。
文化庁の重要文化財の解説によれば、この石棺は中国の組み合わせ木棺を模したもので、古墳時代中期に盛行した形式です。凝灰岩6箇を組み合わせて作り、蓋石と側石に縄掛け突起を持ちます。蓋石の外面は蒲鉾形に盛り上げ、内面は平らです。
縄掛突起の数が左右で違うという、変わった特徴も記されています。一方の側石が長辺の両端に二箇つけるのに対し、他方は一箇しかありません。石棺は現在、京都大学が保管しています。
造出に葬られた人
この古墳には、埋葬施設が二つあります。後円部の中央の長持形石棺と、西側のくびれ部の造出に置かれた組合式木棺です。
造出は、くびれ部などに付く方形の張り出しで、ふつうは供え物を並べて祭りを行う場と考えられています。そこに人を葬るのは珍しい例とされます。
下調べによれば、この造出は全体が円筒埴輪列で囲まれ、北半を土器による食物供献の場、南半を埋葬施設としていたといいます。木棺は墓坑の底に粘土を敷いた上に据えられ、棺の内外から副葬品が出土しました。外表からは家形・囲形・靫形・蓋形の大型の形象埴輪群も出ています。
祭りの場と墓が、同じ張り出しの上にありました。
184メートルと175メートル
文化庁の解説文はこの古墳を全長184メートルとし、奈良文化財研究所に登録された立命館大学の調査概報は「墳長175メートル」と記しています。9メートルの差があります。
どちらが誤りというわけではありません。文化庁の数字は昭和53年の史跡指定のときのもので、175メートルはその後の調査を踏まえたものです。古墳の大きさは、測り直されるたびに書き換わります。
同じことはいたすけ古墳でも起きています。堺市の146メートルと、文化庁の約140メートル。数字が一つに決まらないのは、古墳を扱うときの常です。
調査はいまも続いています。2023年度には後円部の東側で中段斜面裾と下段テラスを、2024年度には前方部の東側で下段斜面や南東の隅角部、外堤を確認したと報告されています。
久津川車塚古墳から出土したもの
出土品は二つの機関に分かれて保管されています。文化庁のデータベースによれば、長持形石棺は国立大学法人京都大学、出土鏡7面は公益財団法人泉屋博古館です。石棺は平成3年(1991年)6月21日、鏡は昭和28年(1953年)11月14日に国の重要文化財となりました。
石棺の附指定として、玉類一括、石製刀子10箇、鉄剣1口も含まれています。未盗掘だったからこそ、これだけまとまった形で残りました。
長持形石棺
後円部中央に直接埋められていた。凝灰岩6箇を組み合わせた棺で、国の重要文化財。
銅鏡7面
画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡・変形画文帯神獣鏡各1面と変形四獣鏡4面。泉屋博古館が保管。
甲冑
文化庁の解説文は5領としている。石棺の外から出土した。
形象埴輪
西側造出から家形・囲形・靫形・蓋形・水鳥形が出土。祭りの場を飾っていた。
久津川車塚古墳と関連する古墳
久津川車塚古墳についてよくある質問
久津川車塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。文化庁の解説文にも被葬者の名はありません。規模と副葬品から南山城地方を治めた大首長の墓と推測されています。宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡です。
久津川車塚古墳はどこにありますか。
奈良文化財研究所の全国遺跡報告総覧には、遺跡所在地として「京都府城陽市平川車塚9番地」が登録されています。文化庁が公表する史跡の所在地は城陽市平川までです。
久津川車塚古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁は全長184メートル、後円部径114メートル、前方部幅107メートルとし、濠を含めた全体を全長224メートル・幅164メートルとしています。近年の調査概報は墳長175メートルとしています。
久津川車塚古墳はいつ作られましたか。
文化庁は久津川古墳群を5世紀代を中心とする古墳群としています。この古墳は古墳時代中期前半の5世紀前半頃とされますが、その年代を示す公式の記載は確認できませんでした。
久津川車塚古墳の石棺はどこで見られますか。
実物は京都大学が保管しており、国の重要文化財です。出土した鏡7面は泉屋博古館が保管しています。城陽市歴史民俗資料館などには石棺の複製が展示されているといいます。
久津川車塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
長持形石棺(ながもちがたせっかん)
板石を組み合わせた箱形の石棺。畿内の大王の墓によく見られ、蓋や側に縄掛突起が付く。
造出(つくりだし)
くびれ部などに付く方形の張り出し。ふつうは祭りの場だが、この古墳では埋葬も行われた。
外堤(がいてい)
周濠の外側をめぐる堤。この古墳では幅8メートル以上あり、埴輪列が二重に立てられていた。
渡土堤(わたりどて)
濠を横切って墳丘へ渡るために設けられた土手。後円部の西側で確認されている。
久津川車塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。