箸墓古墳と同じ段の造りを持つ、最古級の前方後円墳。
五塚原古墳とはどんな古墳か
京都府向日市寺戸町にある前方後円墳です。向日市は、はり湖池の西側に見える古墳時代前期初頭(3世紀後半)の前方後円墳とし、前方部はバチ形で、箸墓古墳と共通の段築構造が確認されており、最古級の前方後円墳と考えられるとしています。
規模は、向日市によれば全長約91メートル、後円部は直径約54メートル・高さ約9メートル、前方部は長さ約41メートル・高さ約4メートルです。墳丘は後円部が三段築成、前方部が二段築成で、全体に葺石が施されています。埋葬施設は不明とされています。
2016年(平成28年)3月1日に、国の史跡「乙訓古墳群」のひとつとして指定されました。文化庁は、この史跡の面積を126199.41平方メートルとしています。なお向日市は、古墳のある「はり湖山」への立ち入りはできません、と注意を出しています。
五塚原古墳の読み方と別名
読みは「いつかはらこふん」です。文化庁のふりがなもこの形です。ただし「いつつがはらこふん」と読む例も伝えられており、呼び方に揺れがある古墳です。
五塚原という名の由来を記した公式の説明は、確かめられませんでした。
史跡としての名は「乙訓古墳群」です。文化庁のふりがなには、天皇の杜古墳・寺戸大塚古墳・元稲荷古墳・物集女車塚古墳・恵解山古墳など、同じ史跡に含まれる古墳の読みが並んで記されています。
五塚原古墳(いつかはらこふん)
文化庁のふりがなは「いつかはらこふん」。向日市もこの表記を用いる。
五塚原古墳(いつつがはらこふん)
別の読み方として伝えられるもの。地元での呼び方に揺れがある。
乙訓古墳群(おとくにこふんぐん)
この古墳が含まれる国の史跡の名。天皇の杜古墳や恵解山古墳なども同じ史跡に入る。
五塚原古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。向日市も、埋葬施設は不明としています。宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡として扱われています。
下調べによれば、埋葬施設は後円部墳頂の竪穴式石室で、川原石の自然石を積み上げて構築されているとされます。石室は長さ6.2メートル・幅1.3メートルで、内部は未調査といいます。自然石のみで造られた大型前方後円墳の石室としては初めての例になるとして注目されています。
わかるのは位置づけです。この古墳は、向日丘陵の首長墓群では最も古いとされます。墳丘の「斜路状平坦面」という造りは箸墓古墳と共通し、前方部の形は奈良県の東田大塚古墳と一致するといいます。
断定できない:わかっていない
向日市の案内は規模と築成を記したうえで、埋葬施設は不明としている。
宮内庁の治定は無い:治定はされていない
陵墓ではなく、史跡「乙訓古墳群」の一部として国の史跡に指定されている。
五塚原古墳の大きさと形
向日市は、規模を全長約91メートル、後円部は直径約54メートル・高さ約9メートル、前方部は長さ約41メートル・高さ約4メートルとしています。
墳丘は後円部が三段築成、前方部が二段築成で、全体に葺石が施されています。この後円部3段・前方部2段という組み合わせが、以後の前方後円墳の基本になったとされます。
前方部は「バチ形」に開きます。三味線の撥のように、先へ行くほど広がる形で、古墳時代の初期に見られる特徴とされます。
下調べでは、復元規模を墳丘長91.2メートル、後円部の直径55メートル・高さ8.7メートル、前方部の長さ40.5メートル・幅33メートルとしています。向日市の数字とわずかに違いますが、同じ規模を指しています。
全長:約91メートル
後円部の直径と高さ:直径約54メートル・高さ約9メートル
前方部の長さと高さ:長さ約41メートル・高さ約4メートル
史跡「乙訓古墳群」の面積:126199.41平方メートル
五塚原古墳はいつ作られたか
五塚原古墳の場所と行き方(観光情報)
史跡「乙訓古墳群」には、五塚原古墳のほかに天皇の杜古墳、寺戸大塚古墳、元稲荷古墳、物集女車塚古墳、恵解山古墳などが含まれます。
墳丘に立ち入れない以上、この古墳を訪ねるなら周辺の史跡と合わせて歩くことになります。同じ乙訓の恵解山古墳は、公園として整備されている古墳です。
五塚原古墳
五塚原古墳の住所:公式には確認できませんでした
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:向日市は、五塚原古墳が所在する「はり湖山」への立ち入りはできません、と注意を出しています。墳丘に入ることはできません
向日市は、五塚原古墳が所在する「はり湖山」への立ち入りはできません、と明記しています。行くなら、この点をまず確かめてください。
番地としての住所は、公式のページで確かめられませんでした。文化庁は史跡「乙訓古墳群」の所在地を京都市・向日市・長岡京市・乙訓郡大山崎町としており、これは群全体の範囲を指します。向日市の案内によれば、古墳ははり湖池の西側に見えるとされます。
五塚原古墳の発見と調査の歩み
箸墓古墳と共通する段の造り
向日市は、この古墳について次のように書いています。
前方部はバチ形で、箸墓古墳(奈良県桜井市)と共通の段築構造が確認されており、最古級の前方後円墳と考えられます
段築構造とは、墳丘を段に分けて積み上げる造りのことです。下調べによれば、墳丘の斜面の途中に「斜路状平坦面」という平らな帯を持つ点が、箸墓古墳と共通するとされます。
奈良の箸墓古墳と、京都の丘の上の古墳が、同じ設計思想でできているということです。
以後の前方後円墳の基本となる後円部3段・前方部2段の構造としては、この古墳が最古級の例とされ、畿内の大王墓の基本設計になったとする説も挙げられています。
よそから運ばれてきた埴輪の棺
この古墳の発掘調査で、少し変わったものが見つかっています。埴輪でできた棺です。
向日市は、これまでの発掘調査で墳丘西端から埴輪の棺が出土したが、古墳にその樹立が考えられないため他所から持ち込まれたものと推測されている、としています。
つまり、この古墳に立っていた埴輪ではない、ということです。向日市は、4世紀中頃の妙見山古墳から出土した埴輪と高い共通性をもつことが判明しており、妙見山古墳から運ばれてきたのではと考えられている、と説明しています。
なぜ運ばれたのかは不明とされます。下調べでは、埴輪棺に葬られた人と五塚原古墳の被葬者が血縁者だったと見る説が挙げられています。
10次を超える調査が続いた
この古墳は、繰り返し調べられてきました。下調べによれば、1967年から1968年の測量調査にはじまり、2000年から2001年の第1次・第2次発掘調査と続きます。
2013年度以降は、向日市埋蔵文化財センターと立命館大学が交互に調査を行い、第10次にまで及んでいるといいます。くびれ部、前方部の隅角、後円部の斜面と、少しずつ場所を変えながら墳丘の輪郭を確かめる調査です。
2016年(平成28年)3月1日、既に史跡だった天皇の杜古墳・恵解山古墳・寺戸大塚古墳の3か所に、五塚原古墳など8基が追加指定され、名称が「乙訓古墳群」に変更されました。
少しずつ確かめた成果が、指定につながった例です。
五塚原古墳から出土したもの
向日市は、この古墳の埋葬施設を不明としています。棺に何が納められていたのかは、わかっていません。
知られているのは、墳丘の西端から出た埴輪棺です。その埴輪は上部が球状の特異な形で、丹後型円筒埴輪のもとになった可能性が指摘されています。丹後型円筒埴輪は、蛭子山古墳や神明山古墳にも使われています。
埴輪棺
墳丘西端から出土。古墳に立てられた埴輪ではなく、他所から持ち込まれたと推測される。
葺石
向日市によれば、墳丘の全体に施されている。埴輪列は検出されていない。
竪穴式石室
後円部墳頂にあるとされる。川原石の自然石を積み上げた構造で、内部は未調査。
円筒埴輪
崖面から検出されたというが、近年の調査では確認されず、存在は確かでない。
五塚原古墳と関連する古墳
五塚原古墳についてよくある質問
五塚原古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。向日市は埋葬施設を不明としています。宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡「乙訓古墳群」の一部として指定されています。
五塚原古墳はどこにありますか。
京都府向日市寺戸町にあります。向日市の案内によれば、はり湖池の西側に見える位置です。番地までは公式のページで確かめられませんでした。
五塚原古墳の大きさはどれくらいですか。
向日市は全長約91メートル、後円部は直径約54メートル、前方部は長さ約41メートルとしています。
五塚原古墳はいつ作られましたか。
向日市は古墳時代前期初頭(3世紀後半)としています。前方部がバチ形であることと、箸墓古墳と共通の段築構造から、最古級と考えられています。
五塚原古墳の墳丘に登れますか。
登れません。向日市は、五塚原古墳が所在する「はり湖山」への立ち入りはできません、と注意を出しています。
五塚原古墳と併せて覚えたい言葉・用語
バチ形(ばちがた)
前方部が先へ行くほど広がる形。三味線の撥に似ることによる呼び名で、初期の前方後円墳に多い。
段築(だんちく)
墳丘を段に分けて積み上げる造り。何段に築くかは時期や格によって違う。
埴輪棺(はにわかん)
円筒埴輪を棺として転用した埋葬。古墳の周辺に営まれることが多い。
斜路状平坦面(しゃろじょうへいたんめん)
墳丘の斜面の途中にある平らな帯。箸墓古墳と五塚原古墳に共通する古い形式とされる。
五塚原古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。