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京都府

千歳車塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

千歳車塚古墳  / チトセクルマヅカコフン

前方後円墳 6世紀

皇位を継がなかった王の墓とする説がある、丹波最大の後期古墳。

千歳車塚古墳とはどんな古墳か

京都府亀岡市にある前方後円墳です。文化庁は所在地を亀岡市千歳町とし、1982年(昭和57年)12月18日に国の史跡に指定されたと記しています。

この古墳が語られるのは、被葬者をめぐる説によってです。日本書紀に見える倭彦王という王族の墓ではないか、という見方が挙げられています。武烈天皇が後継ぎなく亡くなったとき、のちの継体天皇とともに皇位継承の候補に挙がりながら、位につかなかったと伝えられる人物です。

墳丘のまわりには二重の周濠がめぐり、その外側の堤には人物埴輪を並べた祭りの場があったと推定されています。出土した埴輪は、大阪府高槻市の新池遺跡で焼かれたものと推定されており、同じ窯の埴輪は今城塚古墳にも使われています。

古墳時代後期としては丹波地方で最大規模とされます。

千歳車塚古墳の読み方と別名

読みは「ちとせくるまづかこふん」です。文化庁のふりがなも同じです。千歳は所在地の千歳町から来ています。

車塚という名は、各地の前方後円墳に付いています。京都府では物集女車塚古墳牧野車塚古墳などが知られます。同じ名でも、造られた時代も大きさも別々で、互いに関係があるわけではありません。

なお、古墳の西方に「吉備」という字があることから、地元ではかつてこの古墳を元明天皇の陵とし、吉備何某がその守をしたという言い伝えがあったとされます。いまはそう扱われていません。

千歳車塚古墳(ちとせくるまづかこふん)

文化庁の指定名称。ふりがなも同じで、これが公式の呼び方になる。

車塚(くるまづか)

前方後円墳に各地で付けられる名。牛車の形に見立てたともいわれる。

倭彦王(やまとひこのおおきみ)

この古墳の被葬者に比定される説がある王族。仲哀天皇の5世孫と伝えられる。

千歳車塚古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。文化庁のデータベースには解説文が載っておらず、被葬者にふれた公式の記述は確かめられませんでした。

下調べによれば、当時としては丹波地方で最大規模であることから、亀岡盆地だけでなく南丹波全域を支配した首長の墓と推定されています。西丹波まで支配した広域の首長の墓とする説もあるといいます。

よく挙げられるのが倭彦王です。日本書紀の継体天皇即位前紀に見える、仲哀天皇の5世孫とされる王族で、丹波国桑田郡にいたと伝えられます。ただし倭彦王自体、実在性の薄い仲哀天皇の後裔であり、名も「ヤマトヒコ」という普通名詞であることから、伝承性の強い人物とされています。

この時期としては近畿でも屈指の規模の古墳がここにある以上、そのもとになる皇位継承候補者が実際にいた可能性は指摘されます。ただし、名前が一致するという話ではありません。

断定できない:わかっていない

解説文の欄が空欄で、被葬者にふれた公式の記述は確かめられなかった。

宮内庁の治定は無い:治定はされていない

陵墓ではなく、1982年に国の史跡として指定されている。

千歳車塚古墳の大きさと形

千歳車塚古墳の大きさを記した公式のページを、確かめられませんでした。文化庁のデータベースは、面積・時代・年代の欄がいずれも空欄です。

下調べによれば、墳丘長は現在約82メートルで、もとは88メートル程度とみられるとされます。後円部の直径は約46メートル、高さ約7.5メートル、前方部の幅は約49メートル、高さ約7メートルといいます。墳丘の裾まわりは後世に削られて崖状になっており、第一段はほぼ失われたとみられています。

墳形にも特徴があります。墳丘の主軸線と前方部の前端が直交しない、左右非対称のいびつな前方後円形で、「片直角型」と呼ばれる形とされます。

所在地(市区町村):亀岡市千歳町

国の史跡の指定年月日:1982年(昭和57年)12月18日

種別:史跡

墳丘の規模:公式には確認できませんでした

千歳車塚古墳はいつ作られたか

築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。文化庁のデータベースは時代・年代・西暦のいずれも空欄です。

下調べによれば、古墳時代後期の6世紀前半頃と推定されています。興味深いのは、この年代がいったん書き換えられていることです。後円部で採集された円筒埴輪をもとに、かつては5世紀頃の築造と推定されていましたが、近年の円筒埴輪の再検討によって6世紀前半に推定し直されたといいます。

同じ土から出た同じ埴輪でも、比べる基準が細かくなれば年代の見方は動きます。古墳の年代が、掘り直さなくても変わることを示す例です。

千歳車塚古墳の場所と行き方(観光情報)

周辺には、丹波国分寺跡・国分尼寺跡・出雲大神宮といった古代の丹波国の中心となる施設が並んでいたとされます。古墳だけを見に行くのではなく、この一帯が何であったかを歩いて確かめられる場所です。

同じ京都府では、乙訓の恵解山古墳や物集女車塚古墳が知られます。千歳車塚古墳はそれらより北の、丹波側の首長墓にあたります。

千歳車塚古墳

地図で開く

千歳車塚古墳の住所:亀岡市千歳町

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした。下調べでは、毎年春先に墳丘の野焼きが行われるとされます

所在地として公式に確かめられたのは、文化庁が記す亀岡市千歳町という市区町村名までです。番地は確かめられませんでした。

下調べによれば、亀岡盆地の北東部、稲築山から伸びる台地の先端にあたる位置です。内側の周濠の跡は、いまも墳丘のまわりの一段低い平地として見てとれるといいます。行き方・駐車場・料金は、いずれも公式の記載を確かめられませんでした。

千歳車塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 皇位につかなかった王という説
  2. 片直角型と剣菱型、二つの設計
  3. 高槻の窯から運ばれた埴輪

皇位につかなかった王という説

下調べによれば、この古墳の被葬者を倭彦王とする説があります。日本書紀の継体天皇即位前紀に出てくる、丹波国桑田郡にいたという仲哀天皇の5世孫です。

6世紀のはじめ、武烈天皇が後継ぎなく亡くなったとき、男大迹王とともに皇位継承の候補に挙げられたものの、位につくことはなかったと伝えられます。男大迹王は、のちの継体天皇です。

ただし、この人物は伝承性が強いとされます。実在性の薄い仲哀天皇の後裔であり、名も「ヤマトヒコ」という普通名詞にすぎないためです。

それでも説が消えないのは、古墳の側に理由があります。この時期としては近畿地方でも屈指の規模の古墳が、なぜ丹波の盆地にあるのか。その問いに答えようとした形が、この説だといえます。

片直角型と剣菱型、二つの設計

この古墳の墳形は、左右非対称のいびつな前方後円形です。墳丘の主軸線と前方部の前端が直交せず、周濠の片側の側線と前方部の正面線が直交する、「片直角型」と呼ばれる形とされます。

この形は、古墳時代中期に多く見られる古い規格です。いっぽう同じ6世紀前半の大王墓、たとえば継体大王の真陵とされる今城塚古墳では、前方部の前端が突き出す「剣菱型」が新しく採用されていました。

同じ時代に、古い設計と新しい設計が並んでいたことになります。

ここから、千歳車塚古墳の被葬者を新勢力とは性格を異にする「旧勢力」の首長と見る説が挙げられています。墳丘の輪郭の違いが、立場の違いとして読まれているわけです。

高槻の窯から運ばれた埴輪

出土した埴輪を土の分析にかけたところ、意外なことがわかったといいます。下調べによれば、この埴輪は大阪府高槻市の新池遺跡で生産されたものと推定されています。

新池遺跡は、今城塚古墳に埴輪を供給した窯の跡です。同じ窯の埴輪は、奈良県の西山塚古墳、兵庫県の天王山3号墳、香川県の母神ひさご塚古墳、三重県の新堂古墳にも運ばれたとされます。

丹波の首長が、大王墓と同じ窯から埴輪を取り寄せていたことになります。これはヤマト王権と被葬者との親密な関係を示すと考えられています。

墳形は古い規格、埴輪は大王墓と同じ窯。この二つは、そのままでは噛み合いません。一つの古墳が、二つの違う面を同時に見せている例です。

千歳車塚古墳から出土したもの

発掘調査が少ないため、出土品は限られています。墳丘そのものの本格的な調査は行われておらず、埋葬施設は未調査で明らかになっていません。

2001年度から2005年度にかけて、ほ場整備事業などにともなって墳丘の周囲が調査され、二重の周濠と外堤の壇状施設が確認されたとされます。出土した埴輪は、亀岡市の文化資料館で展示されていると伝えられます。

円筒埴輪

後円部で採集された。この埴輪の再検討によって、築造年代が5世紀から6世紀前半に改められた。

人物埴輪

外堤の張出しに並べられていたと推定される。埴輪による祭りの空間があったとみられる。

葺石

墳丘の外表で確認されている。埴輪とともに墳丘を飾っていた。

弥生時代の墓の痕跡

発掘調査によれば、古墳の周辺は弥生時代にも墓域であった可能性があるとされる。

千歳車塚古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

千歳車塚古墳についてよくある質問

千歳車塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。倭彦王に比定する説がありますが、この人物自体が伝承性の強い存在とされます。宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡として扱われています。

千歳車塚古墳はどこにありますか。

文化庁は所在地を京都府亀岡市千歳町としています。番地までは確かめられませんでした。亀岡盆地の北東部、台地の先端にあたる位置です。

千歳車塚古墳の大きさはどれくらいですか。

公式の数字は確かめられませんでした。下調べでは墳丘長は現在約82メートルで、もとは88メートル程度とみられるとされます。

千歳車塚古墳はいつ作られましたか。

公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは6世紀前半とされ、かつての5世紀という見方は円筒埴輪の再検討によって改められています。

千歳車塚古墳の墳丘に登れますか。

立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした。下調べでは、毎年春先に墳丘の野焼きが行われるとされます。現地の表示に従ってください。

千歳車塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

周濠(しゅうごう)

墳丘のまわりを取り巻く濠。二重にめぐるものもあり、この古墳もその一つとされる。

外堤(がいてい)

周濠の外側に築かれた堤。ここに埴輪を並べて祭りの場としたと考えられている。

片直角型(かたちょっかくがた)

前方部の前端が主軸と直交しない、左右非対称の前方後円形。中期に多く見られる。

剣菱型(けんびしがた)

前方部の前端が突き出す形の前方後円墳。後期の大王墓に新しく採用された。

千歳車塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁