帆立貝形としては全国最大とされる、西都原古墳群の中心の古墳。
男狭穂塚古墳とはどんな古墳か
男狭穂塚古墳の読み方と別名
読みは「おさほづかこふん」です。「男」を「お」、「狭穂」を「さほ」と読みます。すぐ南にある女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)と対になる名で、二つ合わせて「男狭穂塚・女狭穂塚」と呼ばれることがよくあります。
この古墳には、立場の違う二つの呼び方があります。ひとつは男狭穂塚古墳という考古学上の名、もうひとつは宮内庁が用いる男狭穂塚陵墓参考地という名です。
陵墓参考地は、被葬者を特定しないまま宮内庁が管理する区分です。「◯◯天皇陵」のように人物を定めた治定とは、扱いが違います。同じ区分には、兵庫県の雲部車塚古墳や奈良県の新木山古墳があります。
男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)
考古学の側で用いられる名。西都原古墳群の一基として、古墳そのものを指す呼び方。
男狭穂塚陵墓参考地(おさほづかりょうぼさんこうち)
宮内庁が用いる名。陵墓参考地は、被葬者を特定しないまま管理される区分をいう。
女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)
すぐ南に隣り合う前方後円墳。こちらも陵墓参考地で、男狭穂塚とほぼ同じ墳丘長をもつ。
男狭穂塚古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
宮内庁は、この古墳を陵墓参考地として管理しています。陵墓参考地とは、皇室にゆかりがある可能性を否定できないものの、被葬者を特定できないまま管理される区分です。「◯◯天皇陵」として人物を定める治定とは、扱いがはっきり違います。
宮崎県教育委員会が奈良文化財研究所の全国文化財総覧に登録した報告書は、この古墳の種別を陵墓参考地とし、地中レーダー探査などの調査が行われたことを記していますが、被葬者については触れていません。
被葬候補者として瓊瓊杵尊が挙げられている、という説明がしばしばなされますが、その記載を公式のページで確かめることはできませんでした。
確かなのは、5世紀前半に、九州で最も大きな墳丘を築ける立場の人物がここに葬られた、ということまでです。
宮内庁の陵墓参考地(人物を定める治定とは扱いが違います):被葬者を特定していない
遺跡所在地を宮崎県西都市大字三宅とし、種別に陵墓参考地を挙げる。被葬者名の記載はない。
断定できない:わかっていない
広域史跡の全域探査・地中レーダー探査の報告。埋葬施設についての記載は確認できなかった。
男狭穂塚古墳の大きさと形
この古墳は、帆立貝形古墳としては全国でいちばん大きいとされています。帆立貝形古墳とは、前方後円墳のうち前方部がごく短いものをいい、貝の形に見えることからそう呼ばれます。
墳丘は、円丘部が三段、前方部にあたる方壇部が二段に築かれています。周囲には二重の周堀がめぐりますが、内壕・外壕とも前方部の前面には回らず、耳の形をした環状をなします。
公式のページで確かめられた数字は所在地と種別までで、墳丘の長さなどの実測値は確認できませんでした。宮内庁が管理する陵墓参考地であるため、公表されている数字が限られているためです。ここでは推測で数字を書かず、確かめられた項目だけを載せています。
遺跡所在地:宮崎県西都市大字三宅
種別:陵墓参考地
所在する古墳群:特別史跡 西都原古墳群
墳丘の長さ:公式には確認できませんでした
男狭穂塚古墳はいつ作られたか
男狭穂塚古墳の場所と行き方(観光情報)
西都原古墳群は、九州地方でも最大規模の古墳群です。男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳は、その中央にあたる丸山支群に並んでいます。
行き方・駐車場・料金については、公式のページで確かめられた記載がありませんでした。推測で埋めるわけにいきませんので、ここでは空欄のままにしてあります。出かける前に宮崎県立西都原考古博物館の案内で確かめてください。
男狭穂塚古墳(男狭穂塚陵墓参考地)
男狭穂塚古墳(男狭穂塚陵墓参考地)の住所:宮崎県西都市大字三宅
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓参考地ですので、墳丘に立ち入ることはできません。公開や特別参拝についての記載は、公式のページでは確認できませんでした
所在地は、宮崎県教育委員会の報告書に記された宮崎県西都市大字三宅です。より細かい字については、17253番の報告書に「宮崎県西都市大字 三宅字丸山」という記載があります。
西都原古墳群そのものは国の特別史跡ですが、男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の区域は陵墓参考地に治定されている関係で、史跡の指定範囲には含まれていません。同じ台地の上で、扱いの違う区域が隣り合っているということです。
男狭穂塚古墳の発見と調査の歩み
男狭穂塚と女狭穂塚、どちらが先か
この二基は近くに並んで築かれているため、どちらが先かをめぐって長く議論がありました。男狭穂塚が先で女狭穂塚を造るときに前方部を壊したという見方、女狭穂塚が先で男狭穂塚の前方部の築造を途中でやめたという見方、二基とも重なりはないという見方の三つです。
宮崎県教育委員会が行った立ち入り地中レーダー探査の結果、男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳には重複関係はなかったとされました。
二基が台地の中央に築かれたのは、西から伸びる小さな丘の先端を利用することで、盛り土の量を確保できたためと見られています。限られた場所の中で、二基が同じ墳丘長になるよう精いっぱい大きく計画されていた点が注目されます。
同じ台地に、二系統の埴輪がある
男狭穂塚古墳から出土した円筒埴輪には、器の壁が薄く、突帯の端の面が細く、黒斑がはっきりしないという特徴があります。窖窯という穴を掘った窯で焼かれたと見られます。
いっぽう女狭穂塚古墳の埴輪は、時期はごく近いのに、野焼きという別の作り方で焼かれています。同じ台地の、隣り合う二基の古墳に、違う工人の系統の埴輪が並んでいるということです。
丸山支群では、170号墳の埴輪が男狭穂塚の系列、169号墳・171号墳の埴輪が女狭穂塚の系列に位置づけられます。男狭穂塚系列は畿内的でない埴輪とされ、周辺の大型前方後円墳へ広がっていきます。
男狭穂塚古墳から出土したもの
この古墳の埋葬施設は明らかになっていません。宮内庁が管理する陵墓参考地であるため、墳丘を掘ることができないからです。棺の中に何が納められていたのかは、わかっていません。
知られているのは、墳丘の外表に並べられていた埴輪です。陪塚と見られる西都原170号墳からは埴輪子持家と埴輪船が出ており、どちらも国の重要文化財になっています。この二点は、かつて169号墳から出たとされていましたが、再調査で170号墳のものと確認されました。
円筒埴輪
墳丘の外表から出土。器壁が薄く突帯端面が細いという特徴をもち、窖窯で焼かれたと見られる。
壺形埴輪
丸山支群の調査で確認されている埴輪。円筒埴輪とともに墳頂や斜面に並べられた。
盾形・靱形・甲形・冑形の埴輪
武具をかたどった形象埴輪。丸山支群の報告書に主な遺物として挙げられている。
葺石
墳丘の斜面を覆う石。丸山支群の調査で、第2段目・第3段目の斜面において確認されている。
男狭穂塚古墳と関連する古墳
男狭穂塚古墳についてよくある質問
男狭穂塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁は被葬者を特定しない陵墓参考地として管理しています。被葬候補者として瓊瓊杵尊が挙げられているという説明がありますが、その記載は公式のページで確認できませんでした。
男狭穂塚古墳はどこにありますか。
宮崎県教育委員会の報告書は、遺跡所在地を宮崎県西都市大字三宅としています。西都原古墳群の中央、丸山支群にあり、女狭穂塚古墳と並んでいます。
男狭穂塚古墳の大きさはどれくらいですか。
帆立貝形古墳としては全国でいちばん大きいとされます。ただし墳丘の長さなどの実測値は、公式のページでは確認できませんでした。陵墓参考地であるため公表が限られています。
男狭穂塚古墳はいつ作られましたか。
5世紀前半、古墳時代中期と考えられています。すぐ南の女狭穂塚古墳とほぼ同じ時期で、二基には重複関係がなかったことが地中レーダー探査で確かめられています。
男狭穂塚古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓参考地ですので、墳丘に立ち入ることはできません。公開や特別参拝についての記載は、公式のページでは確認できませんでした。
男狭穂塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
帆立貝形古墳(ほたてがいがたこふん)
前方後円墳のうち、前方部がごく短いもの。上から見た形が帆立貝に似ることからこう呼ばれる。
陵墓参考地(りょうぼさんこうち)
宮内庁が、被葬者を特定しないまま管理している場所。人物まで定める治定とは扱いが違う。
陪塚(ばいちょう)
大きな古墳のそばに寄り添うように築かれた小さな古墳。副葬品を納めるためのものもある。
窖窯(あながま)
斜面に穴を掘って作った窯。高い温度で焼けるため、野焼きとは違う色や質感の埴輪ができる。
男狭穂塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。