九州最大級の前方後円墳。男狭穂塚と並び立つ、西都原の中心。
女狭穂塚古墳とはどんな古墳か
女狭穂塚古墳の読み方と別名
読みは「めさほづかこふん」です。「めさほ」と読み、「おんなさほ」ではありません。
北隣の男狭穂塚古墳と対になっており、二基あわせて語られるのが常です。宮崎県教育委員会が出した報告書の題も『男狭穂塚女狭穂塚陵墓参考地測量報告書』で、二基まとめて扱われています。
宮内庁は、女狭穂塚に木花開耶姫、男狭穂塚にその夫の瓊瓊杵尊を当てています。ただし陵墓参考地は被葬者を定めない区分ですから、これは候補として想定されているにすぎません。名前の「男」と「女」も、この想定に沿った呼び分けです。
女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)
一般に使われる呼び方。北隣の男狭穂塚古墳と対になる名で、男女で呼び分けている。
女狭穂塚陵墓参考地(めさほづかりょうぼさんこうち)
宮内庁が管理する区分としての名。宮崎県教育委員会の報告書の題にも使われる。
男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)
北に隣接する帆立貝形の古墳。二基は常に対で語られ、報告書も二基まとめて作られる。
女狭穂塚古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
宮内庁は陵墓参考地として管理しています。被葬者を定めない区分ですが、女狭穂塚に木花開耶姫、男狭穂塚に瓊瓊杵尊を当てて想定しています。
研究の側からは、別の仮説が出されています。宮崎県のページによれば、県立西都原考古博物館の北郷泰道氏らは、仁徳天皇の妃となった髪長姫と、その父である諸県君牛諸井ではないか、という仮説を立てています。
根拠として挙げられているのは、二基が隣接してほぼ同時に造られていること、当時は女性が出身地に葬られる習わしがあったこと、記紀に具体名として登場する日向の支配者が諸県君牛諸井だけであることです。宮崎県は、仁徳天皇の実在には議論があるとしつつ、有力な天皇と日向の一族に姻戚関係があったことに注目したい、と結んでいます。
宮内庁の治定(被葬者は定めない):被葬者を定めない陵墓参考地
宮崎県教育委員会の報告書の題が『男狭穂塚女狭穂塚陵墓参考地測量報告書』で、区分がわかる。
学術的な見方のひとつ:日向髪長姫(とその父 諸県君牛諸井)
県立西都原考古博物館の北郷泰道氏らの仮説として、宮崎県のページに紹介されている。
断定できない:わかっていない
宮崎県自身が「仮説」と書いており、確かめられた被葬者ではないことを明示している。
女狭穂塚古墳の大きさと形
この古墳の墳丘の長さを記した公式のページは、確かめられませんでした。そのため、寸法そのものは書いていません。
代わりに、宮崎県が公表しているのは造るのにかかった労力です。女狭穂塚だけでも、一日1000人が動員されて2年半かかったと試算されるほどの大工事だった、としています。
また宮崎県は、西都原には31基の前方後円墳があり、このうち29基が約150年の間に作られている、と書いています。宮崎中央平野一帯の前方後円墳は140基近くにのぼり、宮崎県全体の8割に達する数だといいます。
築造にかかったとされる労力:一日1000人が動員されて2年半(試算)
西都原の前方後円墳の数:31基(うち29基が約150年の間に築造)
墳丘長:公式には確認できませんでした
女狭穂塚古墳はいつ作られたか
女狭穂塚古墳の場所と行き方(観光情報)
西都原古墳群は、台地の上に多くの古墳が並ぶ、九州で最大規模の古墳群です。国の特別史跡に指定されています。ただし男狭穂塚・女狭穂塚は陵墓参考地であるため、史跡の範囲には含まれていません。同じ台地の上で、制度が二つに分かれています。
女狭穂塚古墳(女狭穂塚陵墓参考地)
女狭穂塚古墳(女狭穂塚陵墓参考地)の住所:宮崎県西都市大字三宅
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が陵墓参考地として管理しており、ふだん墳丘に立ち入ることはできません。宮崎県は毎年11月に古墳まつりが開かれると書いていますが、特別な参拝の有無や日程について、公式ページでの記載は確認できませんでした。
所在地は、宮崎県教育委員会の報告書の記録にある宮崎県西都市大字三宅です。奈良文化財研究所の全国文化財総覧に、遺跡所在地としてそのまま記録されています。
西都原古墳群の台地は広く、二基は台地のちょうど中央にあります。宮崎県は、毎年11月に開かれる古墳まつりが、室町時代から行われてきた山陵祭を原型とするものだと書いています。近くには宮崎県立西都原考古博物館があり、二基の墳丘模型が展示されています。
女狭穂塚古墳の発見と調査の歩み
掘らずに、地面の下を見る
陵墓参考地は掘ることができません。それでも、この古墳については調査が積み重ねられてきました。立ち入り測量と、地中レーダー探査です。
宮崎県教育委員会は1997年度に立ち入り測量調査を行い、その後に立ち入り地中レーダー探査を実施しました。その報告書は、奈良文化財研究所の全国文化財総覧で公開されています。
この探査によって、長年の論争に決着がつきました。男狭穂塚と女狭穂塚のどちらが先に造られ、どちらが相手を壊したのかという問題です。探査の結果、二基には重複関係はなかったとされました。掘らなくてもわかることがある、という例です。
同じ長さに、そろえて造る
男狭穂塚は帆立貝の形をした古墳、女狭穂塚は前方後円墳です。形は違うのに、墳丘の長さはほぼ等しく造られています。
二基が台地の中央に築かれたのは、西から伸びる小さな丘陵の先端を利用して、土の量を確保するためだったとみられます。限られた場所で、二基が最大限の大きさで、しかも同じ長さになるよう企画された点が注目されています。
形を変えながら、長さだけをそろえる。そこには、二人の関係を形で示そうとする意図が読み取れます。宮崎県のページが紹介する仮説では、二人は父と娘です。埴輪の作り方も違い、男狭穂塚は野焼き、女狭穂塚は畿内的な作り方だとされます。
西都原の古墳は、なぜこんなに多いのか
女狭穂塚古墳から出土したもの
この古墳そのものの埋葬施設は、わかっていません。陵墓参考地として管理されており、掘ることができないためです。
知られているのは、墳丘の表面で採集された埴輪と、まわりの陪塚から出たものだけです。西都原169号墳と171号墳は、位置と埴輪の特徴からこの古墳の陪塚と推測されています。国の重要文化財である埴輪の子持家と埴輪の船は、再調査で170号墳から出たものと確認されました。
円筒埴輪
器壁が厚く、突帯の端が重厚で、淡い褐色。野焼きで焼かれたとみられる。
形象埴輪
家形・鶏形・盾形・冑形・短甲形・草摺形の埴輪が知られる。
陪塚の副葬品
西都原169号墳から、小型の鏡・直刀・鉄斧・銅釧・鉄鏃などが出土。
女狭穂塚古墳と関連する古墳
女狭穂塚古墳についてよくある質問
女狭穂塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁は被葬者を定めない陵墓参考地として管理しています。宮崎県は、仁徳天皇の妃となった髪長姫ではないかという県立西都原考古博物館の研究者らの仮説を紹介しています。
女狭穂塚古墳はどこにありますか。
宮崎県教育委員会の報告書の記録では、遺跡所在地は宮崎県西都市大字三宅です。西都原古墳群の台地の中央にあり、近くに宮崎県立西都原考古博物館があります。
女狭穂塚古墳の大きさはどれくらいですか。
墳丘の長さを記した公式のページは確かめられませんでした。宮崎県は、この古墳だけでも一日1000人が動員されて2年半かかったと試算されるほどの大工事だったとしています。
女狭穂塚古墳はいつ作られましたか。
宮崎県は5世紀前半としています。大規模な前方後円墳の築造は生目に始まり、5世紀を中心に西都原へ、5世紀末ごろから新田原へ移っていったと説明されています。
女狭穂塚古墳の中に入れますか。
宮内庁が陵墓参考地として管理しており、ふだん墳丘に立ち入ることはできません。宮崎県は毎年11月に古墳まつりが開かれると書いていますが、参拝の可否は確認できませんでした。
女狭穂塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
陵墓参考地(りょうぼさんこうち)
宮内庁が、陵墓の可能性があるとして管理する土地。被葬者は定められていない。
地中レーダー探査(ちちゅうレーダーたんさ)
地面に電波を当てて、掘らずに地下の様子を調べる方法。陵墓でも使える。
帆立貝形古墳(ほたてがいがたこふん)
前方部が短い前方後円墳。貝のような形に見える。男狭穂塚がこの形。
特別史跡(とくべつしせき)
国の史跡のうち、とりわけ価値が高いとされたもの。西都原古墳群が指定。
女狭穂塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。