水田のただ中に残る大型前方後円墳。前方部には祠がまつられている。
横瀬古墳とはどんな古墳か
横瀬古墳はひとことで言えば平地にひとつだけ残る大型古墳です。鹿児島県曽於郡大崎町にあり、文化庁の解説文は「有明湾の西方約一粁の平地にあり」と書き出しています。一粁は1キロメートルのことです。
丘の上ではなく、平らな土地に築かれています。まわりに高い場所がないぶん、墳丘の大きさがそのまま目に入ります。
墳形は前方後円形で、ほぼ南南西を向いています。後円部の頂には竪穴式石室の遺構があり、現在は蓋石の一部が地表に出ています。裾には埴輪の破片が散らばり、表面には軽石による葺石がありました。前方部には神社が建てられています。
国の史跡に指定されたのは1943年です。大崎町の郷土資料展示室では、この古墳に関連する資料を見ることができます。
横瀬古墳の読み方と別名
読みは「よこせこふん」です。文化庁のふりがなも同じです。
「横瀬」は大崎町の地名です。同じ鹿児島県には唐仁古墳群(東串良町)があり、そちらの唐仁大塚古墳と混同されることがあります。どちらも「大塚」の名で呼ばれてきたためです。
江戸時代の地誌には「大塚山」として記されており、この古墳が古くから知られていたことがわかります。文化庁のデータベースは「よこせこふん」と読ませ、名称の欄も「横瀬古墳」です。
横瀬古墳(よこせこふん)
文化庁の国指定文化財等データベースと大崎町が用いる名。
横瀬大塚山古墳(よこせおおつかやまこふん)
別名。江戸時代の地誌には「大塚山」として記された。
大塚山(おおつかやま)
地元での古い呼び名。塚が大きいことをそのまま言い表している。
横瀬古墳は誰の墓か
横瀬古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。文化庁の解説文にも、人物を比定する記載はありません。
手がかりが乏しい理由は、石室の状態にあります。文化庁は「後圓部頂上に竪穴式石室の遺構ありて現在蓋石の一部露出し」と記しています。頂が削られ、石室が地表に現れてしまっている状態です。そうなれば中身は早くに持ち出されます。
それでもこの古墳が重んじられるのは、位置によります。南九州の平地に、これだけの規模の前方後円墳が単独で築かれていること自体が、ここに大きな力を持つ人物がいたことを示します。
文化庁はこの古墳を「此の地方に於ける代表的の古墳なり」と評しました。前方部に神社が建てられ、少し傷んだところはあるものの、なお旧態をよく保っているとも記しています。名は伝わっていません。
公式の説明:わかっていない
解説文は墳丘と石室の状態を述べるだけで、被葬者を比定していない。
断定できない:わかっていない
郷土資料展示室の案内に、被葬者を示す記載はない。
横瀬古墳の大きさと形
文化庁のデータベースには、指定当時の解説文がそのまま残っています。長さは尺という古い単位で記されています。1尺はおよそ30センチメートルにあたります。
封土は前方後圓型にして略南々西に面し長徑約四百十尺、後圓部徑約二百十尺、高さ約三十四尺、前方部幅約二百六尺、高さ約二十六尺を有す
長径が約四百十尺、後円部の径が約二百十尺、高さが約三十四尺。前方部は幅が約二百六尺、高さが約二十六尺です。後円部のほうが前方部より高く積まれていたことが、この数字からわかります。
メートル単位で示した数字は、公式のページでは確かめられませんでした。大崎町も鹿児島県も、この古墳の寸法をウェブページで公表していません。
墳丘の表面には軽石による葺石があり、裾には埴輪の破片が散らばっていました。
長径:約四百十尺
後円部の径:約二百十尺
後円部の高さ:約三十四尺
前方部の幅:約二百六尺
前方部の高さ:約二十六尺
横瀬古墳はいつ作られたか
横瀬古墳がいつ造られたかについて、公式のページで確かめることはできませんでした。
文化庁のデータベースの時代欄と年代欄はいずれも空欄で、解説文も築造時期にふれていません。大崎町のページにも記載はありません。
一般には、墳形や埋葬施設、出土品から古墳時代中期の5世紀ごろとする見方が採られています。ただしこれは公式のページで裏づけられた数字ではないため、この図鑑では確定した年代として扱いません。
手がかりはあります。埋葬施設が竪穴式石室であること、墳丘に葺石があり埴輪が伴うこと。いずれも古墳時代の前期から中期に多い特徴です。同じ南九州の生目古墳群(宮崎県宮崎市)が古墳時代前期の九州最大の古墳群とされ、西都原古墳群がそれに続くことを考えれば、この古墳もその流れの中に置いて見ることになります。
横瀬古墳の場所と行き方(観光情報)
大崎町の郷土資料展示室が、この古墳を知るいちばんの手がかりです。大崎町は「国指定史跡の横瀬古墳に関連する資料や神領古墳群から出土した土器や軽石石棺など貴重な埋蔵文化財を展示しています」と案内しています。
同じ展示室には、大崎郷の武家が使っていた品々や太平洋戦争の関連資料、昔の民具も並びます。問い合わせ先は大崎町(鹿児島県曽於郡大崎町仮宿1029番地、電話099-476-1111)です。
横瀬古墳
横瀬古墳の住所:鹿児島県曽於郡大崎町
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:後円部の頂に竪穴式石室の蓋石の一部が露出している。前方部には神社が建つ
文化庁のデータベースは、所在都道府県を鹿児島県、所在地(市区町村)を曽於郡大崎町としています。それより細かい住所と、行き方・駐車場・料金については、公式のページで確かめられませんでした。
大崎町も鹿児島県も、この古墳の見学案内をウェブページでは公表していません。
大崎町中央公民館内の郷土資料展示室で、この古墳に関連する資料を見ることができます。展示室の開館時間は午前8時30分から午後5時15分までです。
横瀬古墳の発見と調査の歩み
平地に築かれた古墳
多くの大型古墳は、丘の上や台地の縁に築かれます。遠くから見えるようにするためです。摩利支天塚古墳も生目古墳群も台地の上にあります。
横瀬古墳は違います。文化庁の解説文は「有明湾の西方約一粁の平地にあり」と、はっきり平地だと書いています。
平らな土地に築くということは、高さをすべて自分の土で稼ぐということです。丘を削って形を整える工法が使えません。運んだ土の量が、そのまま墳丘の大きさになります。
しかも、まわりに競う相手がいません。周囲に同じ規模の古墳がないため、この一基だけが際立ちます。文化庁が「此の地方に於ける代表的の古墳なり」と書いたのは、そういう風景を指しています。
前方部に神社が建った
横瀬古墳の前方部には、神社が建てられています。文化庁の解説文はこう記しています。
前方部に神社建立せられ少しく毀損せらるる所ありと雖尚よく舊態を保ち
少し傷んだところはあるけれども、なお元の姿をよく保っている、という意味です。
古墳の上に社が建つのは、めずらしいことではありません。同じ組の摩利支天塚古墳(栃木県小山市)も、後円部の頂に摩利支天の社をいただいています。
社が建つと、墳丘は少し削られます。参道や石段が付き、土が動きます。しかしそのかわり、土地は信仰の場になり、田にも宅地にもならずに済みます。
横瀬古墳が水田地帯のただ中で残ったのは、この神社によるところが大きいと考えられます。削ったものと守ったものが、同じ一つの建物だったのです。
古い文体のまま残る記録
文化庁の国指定文化財等データベースには、指定当時の解説文がそのまま残っています。横瀬古墳の指定は1943年、太平洋戦争のさなかです。
そのため文章は片仮名まじりの文語体で、長さの単位も尺のままです。「封土」は盛った土、「周裾」は墳丘の裾のこと。読み下すには少し手間がかかります。
しかし、この文章は当時の姿をそのまま伝えているという点で貴重です。後円部の頂で蓋石の一部が露出していたこと、裾に埴輪片が散っていたこと、表面に軽石の葺石があったこと。80年以上前に誰かが実際に歩いて確かめた記録です。
同じ文体の解説文は、琵琶塚古墳(栃木県小山市)や五郎山古墳(福岡県筑紫野市)にも残っています。読みにくさは、記録が古いことの証しでもあります。
横瀬古墳から出土したもの
副葬品の記録は、公式のページで確かめられませんでした。文化庁の解説文が挙げているのは、墳丘の裾に散らばった埴輪片と、表面の葺石だけです。
後円部の頂で石室の蓋石が露出している状態からすれば、中身は早くに持ち出されたと考えるほかありません。
埴輪片
墳丘の裾に散らばっていた。文化庁は「周裾に埴輪片散布し」と記している。
軽石による葺石
墳丘の表面を覆っていた。軽石を使う点が南九州らしい。
竪穴式石室
後円部の頂にある。現在は蓋石の一部が地表に露出している。
郷土資料展示室の資料
大崎町中央公民館内の展示室に、この古墳に関連する資料が展示されている。
横瀬古墳と関連する古墳
横瀬古墳についてよくある質問
横瀬古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の治定もありません。後円部の頂で石室が露出しており、副葬品も早くに失われたとみられます。
横瀬古墳はどこにありますか。
鹿児島県曽於郡大崎町です。文化庁は「有明湾の西方約一粁の平地」としています。それより細かい住所と行き方は、公式に確認できませんでした。
横瀬古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁は長径を約四百十尺、後円部の径を約二百十尺、高さを約三十四尺としています。1尺はおよそ30センチメートルです。メートル単位の数字は公式に確認できませんでした。
横瀬古墳はいつ作られましたか。
公式のページでは確かめられませんでした。文化庁のデータベースの時代欄・年代欄はいずれも空欄です。一般には古墳時代中期とする見方が採られています。
横瀬古墳の読み方は。中に入れますか。
読みは「よこせこふん」です。後円部の頂に竪穴式石室の蓋石の一部が露出していますが、内部を見学できるという記載は公式に確認できませんでした。
横瀬古墳と併せて覚えたい言葉・用語
竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)
上から穴を掘って石を積み、棺を納めてから蓋をする埋葬施設。追葬ができない。
封土(ほうど)
墓の上に盛った土。古い解説文で墳丘を指すときに使われる言い方。
粁(キロメートル)
キロメートルを表す古い漢字。文化庁の解説文に「約一粁」として残る。
海浜型前方後円墳(かいひんがたぜんぽうこうえんふん)
海沿いの平地に築かれた前方後円墳。海の道との関わりが指摘される。
横瀬古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。