4世紀の古墳が、8世紀の称徳天皇の陵として治定されている一基。
佐紀高塚古墳とはどんな古墳か
奈良県奈良市山陵町にある前方後円墳です。宮内庁はこの古墳を第48代称徳天皇(第46代孝謙天皇の重祚)の高野陵として管理し、陵形を前方後円、所在地を奈良県奈良市山陵町、最寄りを近鉄平城駅から徒歩約8分としています。
佐紀盾列古墳群の西群にあり、佐紀石塚山古墳・佐紀陵山古墳の南に隣り合って築かれています。墳丘は三段で、前方部を西に向けており、南北を主軸とする西群のほかの古墳とは、向きが直角に交わります。
古墳時代前期後半、4世紀の築造と考えられており、8世紀に亡くなった称徳天皇の時代とは400年ほどの開きがあります。天皇陵として治定されているため、本格的な調査は行われていません。埋葬施設も副葬品も明らかになっていません。
佐紀高塚古墳の読み方と別名
読みは「さきたかつかこふん」です。佐紀は、平城宮跡の北に広がる一帯の地名です。所在地の山陵町も「みささぎちょう」と読み、古くから陵のある土地として呼ばれてきたことがわかります。
宮内庁が用いるのは高野陵(たかののみささぎ)という陵名です。被葬者とされる人物には、二つの名があります。第46代孝謙天皇として即位し、いったん退いたあと、第48代称徳天皇として再び位に就きました。これを重祚といいます。
そのため、この古墳は称徳天皇陵とも孝謙天皇陵とも呼ばれます。宮内庁の表記は「稱德天皇」です。
佐紀高塚古墳(さきたかつかこふん)
考古学の側で用いられる名。佐紀という地名と、高い塚という土地の呼び名にもとづく。
高野陵(たかののみささぎ)
宮内庁が用いる正式な陵名。行政上の扱いを示す名で、被葬者が確かめられたことを意味しない。
称徳天皇陵(しょうとくてんのうりょう)
宮内庁の治定にもとづく通称。称徳天皇は孝謙天皇が重祚した際の名で、孝謙天皇陵とも呼ばれる。
佐紀高塚古墳は誰の墓か
宮内庁は、この古墳を第48代称徳天皇の高野陵として管理しています。宮内庁は称徳天皇の父を聖武天皇、母を皇后天平應眞仁正皇太后としています。
ただし治定は行政上の扱いであって、学術的な確定ではありません。この古墳の築造は古墳時代前期後半、4世紀と考えられています。称徳天皇が亡くなったのは8世紀ですから、およそ400年の開きがあります。
称徳天皇の真陵の位置については、別の場所を推定する見方があります。続日本紀によれば、称徳天皇は宝亀元年(770年)に崩御し、鈴鹿王の旧宅の場所に山陵が営まれたといいます。この記述などから、真陵は西大寺の寺域の西の限りにあったとする推定が出されています。
後世にその所伝は失われ、鎌倉時代の絵図を初めとしてこの古墳にあてる説が生まれました。江戸時代にはさらに北の五社神古墳を称徳天皇陵とする説も出ています。幕末の文久の修陵で改めてこの古墳が称徳天皇陵と比定され、いまに踏襲されています。
宮内庁の治定(行政上の扱いで、学術的な確定ではありません):第48代称徳天皇
陵名を高野陵、陵形を前方後円、所在地を奈良県奈良市山陵町とする。
断定できない:確かめられていない
古墳の築造は4世紀とされ、8世紀に崩御した称徳天皇とは400年ほどの開きがある。
佐紀高塚古墳の大きさと形
宮内庁が公表しているのは、陵名・陵形・所在地・交通アクセスといった項目までで、墳丘の実測値は記されていません。ここでは、確かめられた項目だけを一覧に載せています。
宮内庁が記す陵形は前方後円です。この点については、考古学の見方と食い違いがありません。市庭古墳や念仏寺山古墳のように「円丘」と記される古墳もあるなかで、この古墳は形の見方が一致している例です。
墳丘は三段に築かれ、前方部を西に向けています。周囲には不連続ながら、鍵穴の形をした幅の狭い周濠がめぐります。佐紀の古墳群のなかでは中型にあたり、墳丘の向きも他の主要な古墳と違うため、主要古墳に随伴する立場の古墳だったと推測されています。
陵名:高野陵(たかののみささぎ)
陵形:前方後円
所在地:奈良県奈良市山陵町
被葬者とされる天皇の代数:第48代(第46代孝謙天皇の重祚)
佐紀高塚古墳はいつ作られたか
築造は古墳時代前期後半、4世紀と推定されています。佐紀盾列古墳群のなかでも古い時期にあたります。
4世紀の佐紀丘陵では、佐紀石塚山古墳、佐紀陵山古墳、五社神古墳といった大型の前方後円墳が次々に築かれました。この古墳はそれらの南に、向きを変えて置かれています。
8世紀の天皇の陵に、4世紀の古墳があてられている。同じことが、同じ古墳群のなかで二度起きています。すぐ東の市庭古墳は5世紀前半の古墳ですが、9世紀の平城天皇の楊梅陵として治定されています。奈良時代の都のすぐそばに、それより何百年も前の古墳が並んでいたことが、こうした治定を生む背景になりました。
佐紀高塚古墳の場所と行き方(観光情報)
佐紀盾列古墳群は、平城宮跡の北に広がる古墳群です。西群には佐紀石塚山古墳、佐紀陵山古墳、五社神古墳、そしてこの佐紀高塚古墳が集まっています。東群にはウワナベ古墳、コナベ古墳、市庭古墳があります。
どれも宮内庁が管理する陵墓か陵墓参考地で、墳丘には入れません。濠の外の道からは、木立に覆われた墳丘を見わたすことができます。
佐紀高塚古墳(称徳天皇 高野陵)
佐紀高塚古墳(称徳天皇 高野陵)の住所:奈良県奈良市山陵町
交通:宮内庁は交通アクセスを「近鉄 平城駅から徒歩約8分」としています
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています
宮内庁が示す所在地は奈良県奈良市山陵町です。最寄りは近鉄京都線の平城駅で、徒歩約8分とされています。
すぐ北には、同じく宮内庁が管理する佐紀石塚山古墳と佐紀陵山古墳があります。三基の陵墓が肩を寄せ合うように並んでおり、歩いて続けて参拝できます。近鉄の大和西大寺駅からも歩ける距離です。参拝時間は宮内庁の記載にしたがってください。
佐紀高塚古墳の発見と調査の歩み
一人の人物に、二つの名がある
この古墳の被葬者とされる人物には、孝謙天皇と称徳天皇という二つの名があります。
同じ人が二度、位に就いたためです。まず第46代孝謙天皇として即位し、いったん退いたあと、第48代称徳天皇として再び位に就きました。これを重祚といいます。宮内庁も、代数の欄を「第48代」としたうえで、諡号・追号を「稱德天皇」と記しています。
そのためこの古墳は、称徳天皇陵とも孝謙天皇陵とも呼ばれます。どちらの呼び方も誤りではありません。地図や案内板では、書かれている名がまちまちですので、探すときは両方を手がかりにするとよいでしょう。
向きが違うということ
佐紀盾列古墳群の西群にある大型の古墳は、どれも南北を主軸としています。ところがこの佐紀高塚古墳だけは、前方部を西に向けており、ほかの古墳と向きが直角に交わります。
古墳の向きは、たまたま決まるものではありません。同じ群のなかで向きをそろえるのは、被葬者どうしのつながりを形で示す意味があったと考えられています。
この古墳の墳丘長は、佐紀石塚山古墳や五社神古墳に比べると小さく、群のなかでは中型にあたります。向きが違い、規模も小さい。この二点から、主要な古墳に随伴する立場の古墳だったと推測されています。誰の墓かはわかりませんが、群のなかでどのあたりの立場だったかは、形が語っています。
本来の高野陵は、どこにあったのか
続日本紀によれば、称徳天皇は宝亀元年(770年)8月4日に崩御し、即日、山陵を造る役所が置かれました。畿内・近国の役夫6,300人を動員し、鈴鹿王の旧宅の場所に山陵が営まれ、8月17日に葬られたといいます。
延喜式諸陵寮は、これを遠陵の「高野陵」として記し、大和国添下郡の所在で、兆域は東西5町・南北3町とします。
研究の側では、西大寺の記録をもとに、真陵は西大寺の東ではなく寺域の西の限りにあったと推定する見方が出されています。つまり、いま高野陵とされている場所とは、方角が逆だということです。後世に所伝は失われ、鎌倉時代の絵図をもとにこの古墳にあてる説が生まれ、幕末の文久の修陵で確定しました。
佐紀高塚古墳から出土したもの
この古墳から何が出たのかは、ほとんどわかっていません。宮内庁が管理する陵墓であるため、墳丘の中を掘ることができないためです。埋葬施設の構造も、副葬品も明らかになっていません。
近年、古墳の西を流れる秋篠川の河川改修のときに、多数の大型円筒埴輪が出土しました。これをこの古墳のものとする説がありますが、確かめられてはいません。陵墓の情報は、こうして周囲から少しずつ集められています。
埴輪
かつて墳丘から検出されたというが、詳しいことはわかっていない。
周濠
墳丘の周囲をめぐる、不連続で幅の狭い濠。鍵穴の形をしている。
大型円筒埴輪
古墳の西を流れる秋篠川の河川改修時に多数出土したもの。この古墳のものとする説がある。
佐紀高塚古墳と関連する古墳
佐紀高塚古墳についてよくある質問
佐紀高塚古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は第48代称徳天皇の高野陵として治定していますが、古墳の築造は4世紀とされ、8世紀の称徳天皇とは400年ほどの開きがあります。実際の被葬者はわかっていません。
佐紀高塚古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を奈良県奈良市山陵町としています。平城宮跡の北に広がる佐紀盾列古墳群の西群にあり、最寄りは近鉄平城駅から徒歩約8分です。
佐紀高塚古墳の大きさはどれくらいですか。
宮内庁は墳丘の実測値を公表していません。陵形は前方後円とされ、墳丘は三段に築かれ、前方部を西に向けています。
佐紀高塚古墳はいつ作られましたか。
古墳時代前期後半、4世紀の築造と推定されています。佐紀盾列古墳群のなかでも古い時期にあたります。
佐紀高塚古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓ですので、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は原則として年間をとおして、8時30分から17時までとしています。
佐紀高塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
重祚(ちょうそ)
いちど位を退いた天皇が、ふたたび位に就くこと。孝謙天皇は称徳天皇として重祚した。
兆域(ちょういき)
陵墓として定められた区域。延喜式には、東西何町・南北何町という形で記されている。
周濠(しゅうごう)
墳丘の周囲をめぐらせた濠。水をたたえるものと、水のない空濠とがある。
真陵(しんりょう)
本来その人物が葬られた陵。治定された陵と真陵が別だとする説がある古墳は少なくない。
佐紀高塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。