対辺約22メートルの八角墳。斉明天皇の真陵とする説が有力。
牽牛子塚古墳とはどんな古墳か
牽牛子塚古墳はひとことで言えば八角形の古墳です。奈良県高市郡明日香村大字越にあり、明日香村は「平成21年の調査で対辺長約22メートル高さ4.5メートル以上の八角形墳であることが判明した」としています。
八角墳は、飛鳥時代の大王墓(天皇陵)に採用された形です。ふつうの豪族の墓には使われません。この形であること自体が、被葬者の格を示します。
墳丘の裾には凝灰岩の切石が敷き詰められ、その直上から大量の切石が出土したことから、墳丘全体が切石で飾られていたことがわかりました。
石室は凝灰岩の巨石を刳り抜いた横口式石槨で、中に墓室が二つあります。二人を葬るための造りです。
2010年、南東に接して越塚御門古墳が見つかりました。
牽牛子塚古墳の読み方と別名
読みは「けんごしづかこふん」です。
「牽牛子」は朝顔の種を指す漢語です。明日香村はこの古墳に「あさがおづか」という別名があることを紹介しています。古墳の形が朝顔の種に似ているという見立てから来ています。
地元には小字として「御前塚」「越塚御門」という地名が残っており、これらが被葬者を女性とする伝承と結びつけられてきました。
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
明日香村・奈良県が用いる正式な名。
あさがおづか(あさがおづか)
明日香村が紹介する別名。「牽牛子」は朝顔の種を指す漢語。
越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)
南東に接する一辺約10メートルの方墳。2010年に検出された。牽牛子塚古墳とは別の古墳。
牽牛子塚古墳は誰の墓か
牽牛子塚古墳の被葬者は、学術的には確定していません。ただしこの古墳は、宮内庁の治定と学術的な見解が食い違う、もっともはっきりした例のひとつです。
学術の側は、斉明天皇の陵とする見方を有力とします。明日香村は「被葬者は、川嶋皇子とも浅香王ともいわれたが、斉明天皇と間人皇女という説が有力である」としています。
根拠は三つあります。第一に、八角墳であること。この形は飛鳥時代の大王墓に採用されたものです。第二に、石槨の中に墓室が二つあること。二人を合葬する造りです。第三に、2010年に南東で見つかった越塚御門古墳の存在です。
日本書紀の天智天皇六年二月条には、斉明天皇と間人皇女を合葬した小市岡上陵と、その陵の前に大田皇女を葬ったことが記されています。二人を葬る古墳の手前に、もう一基の古墳がある。記述と遺跡の並びが合います。
宮内庁の側は違います。宮内庁が斉明天皇の陵として治定しているのは、奈良県高市郡高取町大字車木にある別の古墳です。
発掘した自治体が「有力」とする場所と、宮内庁が管理する場所が、別の町にあります。
学術的に有力な説:斉明天皇と間人皇女
「斉明天皇と間人皇女という説が有力である」と明日香村が記す。八角墳であること、墓室が二つあることが根拠。
宮内庁の治定:斉明天皇(別の場所)
宮内庁が治定する斉明天皇陵は奈良県高市郡高取町大字車木にあり、牽牛子塚古墳ではない。
かつて言われた説:川嶋皇子・浅香王
過去にはこれらの名も挙がったが、現在は斉明天皇説が有力とされる。
牽牛子塚古墳の大きさと形
明日香村は「平成21年の調査で対辺長約22メートル高さ4.5メートル以上の八角形墳であることが判明した」としています。奈良県も「対辺約22mの八角墳」としています。
指定されている面積は12,381平方メートルです。指定年月日は大正12年3月7日。
墳丘の裾には凝灰岩の切石が敷き詰められ、その石敷の直上から大量の凝灰岩切石が出土しました。墳丘全体が切石で覆われていたことになります。
南東に接する越塚御門古墳は、一辺約10メートル程度の方墳と考えられています。
墳丘の対辺長:約22メートル
墳丘の高さ:4.5メートル以上
指定面積:12,381平方メートル
越塚御門古墳:一辺約10メートル程度の方墳
牽牛子塚古墳はいつ作られたか
牽牛子塚古墳の場所と行き方(観光情報)
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の住所:奈良県高市郡明日香村大字越
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:2022年3月から一般公開されている。復元された八角形の墳丘を見られる
明日香村は「2022年3月〜 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の一般公開」と記しています。
復元整備が行われ、白い凝灰岩の切石で覆われた八角形の墳丘がよみがえりました。造られた当時の姿を見られる、数少ない終末期古墳です。
行き方・駐車場・入場料については、公式の記載を確かめられませんでした。
牽牛子塚古墳の発見と調査の歩み
八角形であることの意味
2009年(平成21年)の調査で、この古墳が八角墳であることが確認されました。
八角墳は数が非常に少なく、飛鳥時代の大王墓(天皇陵)に採用された形です。奈良県は「越智岡の一角に所在する牽牛子塚古墳が飛鳥時代の大王墓(天皇陵)に採用されている八角墳であ」ることを重要な点として挙げています。
なぜ八角なのか。中国の思想では、八は天下の方角すべてを表します。天下を治める者の墓を八角にするという考えがあったと見られています。
形そのものが「この墓は大王の墓である」と主張しているわけです。円墳や方墳では、この主張はできません。
墓室が二つある石槨
牽牛子塚古墳の埋葬施設は、凝灰岩の巨石を刳り抜いた横口式石槨です。
ふつうの石槨は、中に一人分の空間があります。この古墳の石槨には、墓室が二つあります。一つの巨石を刳り抜いて、部屋を二つ作ったのです。
開口部には二重の閉塞石が置かれ、さらに石槨の外周は直方体の巨石で保護されていました。二人を葬り、厳重に閉じるという意図がはっきりしています。
日本書紀は、斉明天皇と間人皇女を合葬したと記します。母と娘です。二つの墓室という造りは、この記述と合います。
2010年、手前でもう一基が見つかった
2010年、牽牛子塚古墳の南東に接して、もう一基の古墳が見つかりました。越塚御門古墳です。
一辺約10メートル程度の方墳で、埋葬施設は石英閃緑岩の巨石を使った刳り抜き式の横口式石槨。墓室は一つです。
この発見が決定的でした。日本書紀の天智天皇六年二月条には、斉明天皇と間人皇女を合葬した陵の前に大田皇女を葬ったと記されています。
二人を葬る古墳の手前に、一人を葬る古墳がある。記述どおりの並びが、地面から出てきました。
奈良県はこれを「当該期の終末期古墳を考える上で極めて重要な資料」と評価しています。ただし宮内庁の治定は、いまも高取町車木のままです。
大正時代の調査で棺の飾りが出た
牽牛子塚古墳の調査は、近年に始まったものではありません。
明日香村によれば、大正3年(1914年)の調査のときに、夾紵棺の破片、七宝飾金具、ガラス製の丸玉、人骨片などが検出されています。
夾紵棺は、麻布を漆で塗り固めて作った棺です。木や石ではなく、布と漆でできています。作るのに手間がかかり、最上級の棺とされます。
これらのうち「牽牛子塚古墳出土棺飾金具」(七宝焼亀甲形飾金具1箇、金銅製八花形座金1箇、銅製金具残片1箇、乾漆棺残片一括)は、1937年(昭和12年)3月3日に国の重要文化財(考古資料)に指定されました。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館が保管しています。
牽牛子塚古墳から出土したもの
出土品のうち棺飾金具は重要文化財に指定され、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館が保管しています。
夾紵棺が使われていたことは、被葬者の格の高さを示す手がかりのひとつです。
夾紵棺の破片
麻布を漆で塗り固めた最上級の棺。大正3年の調査で検出された。
七宝焼亀甲形飾金具
棺を飾った金具。1937年に重要文化財に指定。
金銅製八花形座金
同じく棺飾金具として重要文化財に含まれる。
ガラス製丸玉
大正3年の調査で出土。
人骨片
大正3年の調査で検出された。
凝灰岩の切石
墳丘の裾に敷き詰められ、墳丘全体を覆っていたと考えられる。
牽牛子塚古墳と関連する古墳
牽牛子塚古墳についてよくある質問
牽牛子塚古墳は誰の墓ですか。
明日香村は「斉明天皇と間人皇女という説が有力である」としています。ただし宮内庁が斉明天皇陵として治定しているのは奈良県高取町大字車木にある別の古墳です。学術的には確定していません。
八角墳とは何ですか。
上から見て八角形になる古墳です。飛鳥時代の大王墓(天皇陵)に採用された形で、数がきわめて少ないため、この形であること自体が被葬者の格を示します。
牽牛子塚古墳は見学できますか。
明日香村は2022年3月からの一般公開を告知しています。復元整備により、白い凝灰岩の切石で覆われた八角形の墳丘を見ることができます。
越塚御門古墳とは何ですか。
牽牛子塚古墳の南東に接して2010年に見つかった、一辺約10メートル程度の方墳です。日本書紀が記す、斉明天皇の陵の前に大田皇女を葬ったという記述と並びが合います。
牽牛子塚はなんと読みますか。
「けんごしづか」と読みます。「牽牛子」は朝顔の種を指す漢語で、明日香村は「あさがおづか」という別名も紹介しています。
牽牛子塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
八角墳(はっかくふん)
上から見て八角形になる古墳。飛鳥時代の大王墓に採用された。
夾紵棺(きょうちょかん)
麻布を漆で塗り固めて作った棺。手間がかかり、最上級とされる。
刳り抜き式石槨(くりぬきしきせっかく)
一つの巨石をくり抜いて作った石室。
閉塞石(へいそくせき)
石室の入口をふさぐ石。
合葬(がっそう)
二人以上を同じ墓に葬ること。
牽牛子塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。