未盗掘の家形石棺に2人が眠り、金銅製の馬具が出た円墳。
藤ノ木古墳とはどんな古墳か
藤ノ木古墳はひとことで言えば手つかずで残っていた古墳です。奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目にあり、法隆寺の西方約350メートルに位置します。
6世紀後半に造られた直径50メートル以上の円墳です。横穴式石室には未盗掘の家形石棺が安置され、石棺内には2人が葬られていました。奈良県によれば、金銅製の冠や履なども埋葬当時の状態で見つかっています。
埋葬当時の状態というのが要点です。ほとんどの古墳は盗掘を受けており、副葬品は失われるか、位置がわからなくなっています。この古墳では、何をどこに置いたかがそのまま残っていました。
さらに石棺と奥壁とのあいだから、華麗な装飾を施した金銅製の馬具が出土しました。古墳は国の史跡に、出土品は国宝に指定されています。
藤ノ木古墳の読み方と別名
読みは「ふじのきこふん」です。「ノ」を片仮名で書くのが正式で、奈良県も斑鳩町もこの表記を使います。
法隆寺の西方約350メートルという場所にあり、聖徳太子ゆかりの地の只中です。そのため被葬者をめぐる関心も、太子の周辺の人物に向きがちになります。
ただし、寺と古墳の年代は違います。古墳は6世紀後半、法隆寺の創建は7世紀です。
藤ノ木古墳(ふじのきこふん)
奈良県・斑鳩町が用いる正式な名。
藤の木古墳(ふじのきこふん)
「ノ」を平仮名で書く表記。同じ古墳を指す。
藤ノ木古墳は誰の墓か
藤ノ木古墳の被葬者は確定していません。宮内庁の治定も受けていません。
わかっているのは、石棺の中に2人の人物が葬られていたということです。副葬品が埋葬当時の状態で残っていたため、どのように葬られたかは詳しくわかります。しかし、誰かはわかりません。
江戸時代の法隆寺には、崇峻天皇の墓とする考えがありました。崇峻天皇は蘇我馬子に殺害されたと日本書紀に記される天皇で、聖徳太子の叔父にあたります。奈良県は、これを江戸時代の法隆寺にあった考えとして紹介していますが、確定した学説ではありません。
2人が同じ石棺に葬られているという事実そのものが手がかりです。血縁の近い者どうし、あるいは同時に亡くなった者どうしと考えられますが、そこから先は決まっていません。
江戸時代の法隆寺にあった考え:崇峻天皇
聖徳太子の叔父にあたる崇峻天皇の墓とする考えが江戸時代の法隆寺にあった、と奈良県が紹介する。確定した学説ではない。
学術的な状況:確定していない
石棺内に2人が葬られていたことはわかっているが、人物は特定されていない。
藤ノ木古墳の大きさと形
奈良県は「法隆寺の西方約350mのところに位置する、6世紀後半に造営された直径50m以上の円墳です」としています。
円墳としては大型の部類に入ります。同じ6世紀後半には、各地で前方後円墳を造ることをやめる動きが進んでおり、この時期に50メートルを超える円墳を築けたことは、被葬者の格の高さを示します。
埋葬施設は横穴式石室で、中に家形石棺が安置されていました。墳丘の規模だけでなく、未盗掘の石棺と副葬品が原位置に残ったことが、この古墳の重要性です。
墳丘の直径:50メートル以上
法隆寺からの距離:西方約350メートル
藤ノ木古墳はいつ作られたか
奈良県は「6世紀後半に造営された」としています。
6世紀後半は、古墳の造られ方が大きく変わる時期です。前方後円墳を造ることをやめる地域が増え、代わりに横穴式石室を持つ円墳が主流になっていきます。追葬ができる横穴式石室は、家族を同じ墓に葬るという新しい考え方に合っていました。
藤ノ木古墳もその流れの中にあります。石棺に2人が葬られていたことは、この時期の埋葬の考え方をよく示しています。同じ奈良県では、5世紀後半から6世紀前半にかけて新沢千塚古墳群(橿原市)に小さな古墳が数百基も造られました。大型の円墳と、数百の小円墳。同じ時代に、まったく規模の違う墓が並んで築かれていました。
藤ノ木古墳の場所と行き方(観光情報)
法隆寺の西約350メートルにあります。通常も墳丘と、扉の窓ガラス越しの石室・石棺を見学できます。
近くの斑鳩文化財センターでは、藤ノ木古墳出土品のレプリカと紹介映像を常設展示しており、通常の入館料は無料です。石室特別公開とは場所・開館条件が異なるため、それぞれの公式案内を確認してください。
藤ノ木古墳
藤ノ木古墳の住所:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目1795他
交通:JR法隆寺駅から奈良交通バス「法隆寺参道」下車、西へ徒歩約10分。またはJR王寺駅・近鉄筒井駅から「斑鳩町役場」下車、北へ徒歩約5分
駐車場:藤ノ木古墳に一般駐車場なし。公共交通または法隆寺周辺の有料駐車場を利用
料金:墳丘の外観見学は無料。石室特別公開の実施条件は斑鳩町の最新案内を確認
内部見学:通常は扉の窓ガラス越しに石室・石棺を見学。春秋などの特別公開時は石室内を見学できる場合がある
所在地は奈良県が公表する斑鳩町法隆寺西2丁目1795他です。法隆寺の西方約350メートルにあたります。
斑鳩町の石室特別公開案内は、法隆寺参道バス停から西へ徒歩約10分、斑鳩町役場バス停から北へ徒歩約5分としています。古墳に一般駐車場はありません。公開時期・受付方法・荒天中止は回ごとに確認してください。
藤ノ木古墳の発見と調査の歩み
盗掘されていなかった
藤ノ木古墳がこれほど重要なのは、ただ一点、盗掘を受けていなかったからです。
日本の古墳の大半は、古い時代に開けられています。石室に入れる横穴式石室は特にそうです。副葬品は持ち去られ、残ったものも位置が動かされます。
藤ノ木古墳の家形石棺は、蓋を閉じたときのまま残っていました。奈良県は「金銅製の冠や履などの豪華な副葬品が埋葬当時の状態で見つかりました」としています。
どこに何を置いたか、どういう順で納めたかがわかる。これは、品そのものの価値とは別の、手つかずでしか得られない情報です。
石棺の外に置かれていた馬具
副葬品は石棺の中だけではありませんでした。
奈良県は「石棺と奥壁との間からは、華麗な装飾を施した金銅製の馬具などが出土しています」としています。棺の外、石室の奥壁とのすきまに置かれていたのです。
金銅は、銅に金メッキを施したものです。馬具に金銅を使い、装飾を施すというのは、当時としては最上級のあつらえにあたります。
棺の中には身につけるもの、棺の外には持ち物という置き分けがあったと考えられます。手つかずだったからこそ、その区別がわかりました。
藤ノ木古墳から出土したもの
出土品は一括で国宝に指定されています。奈良県は金銅製鞍金具について、東アジアでも類例の少ない技巧と装飾を備えた資料と説明しています。
実物の常設場所と展示期間は固定ではありません。現地の斑鳩文化財センターでは代表的な副葬品のレプリカと映像から、石棺内外での出土位置を学べます。
家形石棺
未盗掘のまま残っていた。中に2人の人物が葬られていた。
金銅製の冠
埋葬当時の状態で石棺内から出土。
金銅製の履
同じく石棺内から出土。
金銅製の馬具
石棺と奥壁のあいだから出土。華麗な装飾が施されている。
藤ノ木古墳と関連する古墳
藤ノ木古墳についてよくある質問
藤ノ木古墳は誰の墓ですか。
確定していません。石棺の中に2人が葬られていたことはわかっています。江戸時代の法隆寺には崇峻天皇の墓とする考えがありましたが、確定した学説ではありません。
藤ノ木古墳はなぜ有名なのですか。
盗掘を受けておらず、副葬品が埋葬当時の状態で残っていたためです。金銅製の冠・履・馬具が置かれた位置までわかりました。
藤ノ木古墳の大きさはどれくらいですか。
奈良県は直径50メートル以上の円墳としています。6世紀後半の円墳としては大型です。
藤ノ木古墳はどこにありますか。
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目1795他です。法隆寺の西方約350メートルにあります。
藤ノ木古墳には2人が葬られていたのですか。
そのとおりです。ひとつの家形石棺の中に2人の人物が葬られていました。血縁が近い、あるいは同時に亡くなったと考えられますが、人物は特定されていません。
藤ノ木古墳と併せて覚えたい言葉・用語
未盗掘(みとうくつ)
盗掘を受けていないこと。副葬品が置かれた位置まで残る。
金銅(こんどう)
銅に金メッキを施したもの。古墳時代の最上級の装飾に使われる。
追葬(ついそう)
すでに葬った墓に、あとから別の人を葬ること。横穴式石室で可能になった。
奥壁(おくへき)
石室のいちばん奥の壁。
藤ノ木古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。