ペルシャや中国の品が出た、径10メートル級の古墳が並ぶ大群集墳。
新沢千塚古墳群とはどんな古墳か
新沢千塚古墳群はひとことで言えば小さな古墳が数百基集まった群です。奈良県橿原市の鳥屋町・北越智町・川西町にまたがります。
橿原市は総数を約600基とし、文化庁は「350基前後の古墳のうち大部分は径10メートルから30メートルを計る円墳であるが、9基の前方後円墳、1基の前方後方墳、12基の方(長方)墳を含み」としています。
築造は4世紀の終わりごろから6世紀の終わりごろまでの約200年。もっとも多く造られたのは5世紀後半から6世紀前半の100年間です。
有名なのが126号墳です。東西約22メートル、南北約16メートルの長方形墳という小さな古墳ですが、そこから漆盤、銅製柄付皿、ガラス皿、ガラス壺、金製指輪、帯金具、金板、金製耳飾など、大陸の色彩が濃い品が出土しました。
橿原市は、被葬者を朝鮮半島あるいは中国東北部から渡ってきた女性ではないかとしています。
新沢千塚古墳群の読み方と別名
読みは「にいざわせんづかこふんぐん」です。
かつては「川西千塚」「鳥屋千塚」とも呼ばれていました。橿原市がその由来を紹介しています。古墳群が複数の集落にまたがっているため、それぞれの村の名で呼ばれていたのです。
「千塚」は、小さな塚が数多く集まっていることを表す言い方です。同じ言い方をする古墳群は各地にあります。
個々の古墳は「126号墳」のように番号で呼ばれます。
新沢千塚古墳群(にいざわせんづかこふんぐん)
文化庁・橿原市が用いる名。
川西千塚(かわにしせんづか)
かつての呼び名。橿原市が紹介している。
鳥屋千塚(とりやせんづか)
同じくかつての呼び名。
新沢千塚古墳群は誰の墓か
新沢千塚古墳群の被葬者は、群全体としてはわかっていません。
手がかりがあるのは126号墳です。橿原市は次のように書いています。
古墳の被葬者は、朝鮮半島あるいは中国東北部から日本に渡ってきた女性ではないかと考えられています
根拠は副葬品です。文化庁は126号墳の出土品として「漆盤、銅製柄付皿、鏡、玉、龍文唐草透彫方形金板、銀製空玉、垂下式金製耳飾、ガラス皿、ガラス壺、金製指輪や帯金具など大陸的な色彩のつよい副葬品」を挙げています。
橿原市はさらに「遠くペルシャ地方や中国、朝鮮半島からもたらされた豊富な副葬品が出土した」としています。
東西約22メートルという小さな古墳から、ペルシャに由来するとされるガラス器が出た。これがこの古墳群を有名にしました。
ただし「考えられています」であって、確定ではありません。
126号墳についての推定:大陸から渡ってきた女性
朝鮮半島あるいは中国東北部から渡ってきた女性ではないかと考えられている。確定ではない。
群全体について:わかっていない
群を築いた集団についての特定はされていない。
新沢千塚古墳群の大きさと形
総数は橿原市が約600基、文化庁が350基前後としています。数え方の範囲が違うためです。
形の内訳を、文化庁が示しています。大部分は径10メートルから30メートルの円墳。ほかに前方後円墳が9基、前方後方墳が1基、方(長方)墳が12基です。
つまり99パーセント近くが小さな円墳です。大型の古墳が並ぶ百舌鳥古墳群や埼玉古墳群とは、まったく性格が違います。
有名な126号墳は、橿原市によれば東西約22メートル、南北約16メートルの長方形墳。埋葬施設は長さ約3.1メートルの割竹形木棺です。
古墳の総数:約600基(文化庁は350基前後とする)
大部分の古墳の規模:径10メートルから30メートルの円墳
形の内訳:前方後円墳9基・前方後方墳1基・方(長方)墳12基・残りは円墳
126号墳:長方形墳・東西約22メートル・南北約16メートル
126号墳の埋葬施設:長さ約3.1メートルの割竹形木棺
新沢千塚古墳群はいつ作られたか
新沢千塚古墳群の場所と行き方(観光情報)
歴史に憩う橿原市博物館が古墳群の近くにあり、出土品を見ることができます。
数百基の小さな古墳が丘陵に散らばる景色は、大型古墳の並ぶ古墳群とはまったく違う印象を与えます。
新沢千塚古墳群
新沢千塚古墳群の住所:奈良県橿原市鳥屋町・北越智町・川西町
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公園内の散策は無料
内部見学:公園として整備されており、散策できる
橿原市は、公園内を「散策することができる」としています。
問い合わせ先は橿原市の文化財保存活用課(奈良県橿原市川西町858-1、歴史に憩う橿原市博物館内、電話 0744-47-1315)です。
駐車場の台数・料金・開閉園の時間については、公式の記載を確かめられませんでした。
新沢千塚古墳群の発見と調査の歩み
22メートルの古墳から出たペルシャの器
新沢千塚古墳群を有名にしたのは、126号墳です。
東西約22メートル、南北約16メートル。群のなかでは小さいほうの古墳です。ところが、そこから出た品が並外れていました。
文化庁が挙げるのは、漆盤、銅製柄付皿、鏡、玉、龍文唐草透彫方形金板、銀製空玉、垂下式金製耳飾、ガラス皿、ガラス壺、金製指輪、帯金具。
橿原市は、これらを「遠くペルシャ地方や中国、朝鮮半島からもたらされた豊富な副葬品」としています。
5世紀の日本の、22メートルの古墳に、ペルシャに由来するとされるガラス器が納められていた。
古墳の大きさと、副葬品の価値は比例しません。この古墳が、それをはっきり示しています。
開墾計画が調査のきっかけになった
新沢千塚古墳群が詳しく調べられたのは、壊されそうになったからでした。
橿原市は次のように書いています。
1960年代、新沢千塚一帯の丘陵地に開墾計画がもちあがったことをきっかけとして、古墳群全体の約2割にあたる約130基の古墳の発掘調査が行われました
約130基が調査されました。126号墳のペルシャの器も、このときに出たものです。
開発の前に調査を行うことを緊急発掘と呼びます。日本の考古学の成果の多くは、この形で得られてきました。
壊すために掘る。掘ったから残った。新沢千塚は1976年に国の史跡に指定され、いまは公園として保存されています。
大部分が小さな円墳
新沢千塚古墳群は、大型古墳の群ではありません。
文化庁の記述によれば、350基前後のうち大部分は径10メートルから30メートルの円墳です。前方後円墳は9基、前方後方墳が1基、方(長方)墳が12基。
こうした小さな古墳が密集した群を群集墳と呼びます。5世紀後半から6世紀にかけて、各地で盛んに造られました。
意味するところは大きな変化です。それまで古墳は、地域を治める首長だけのものでした。それがより広い階層の人々にまで広がったということです。
古墳が特別なものでなくなっていく過程が、この群には残っています。数百基が並ぶ景色そのものが、その証拠です。
新沢千塚古墳群から出土したもの
出土品は126号墳のものが突出して知られています。文化庁はこれらを「大陸的な色彩のつよい副葬品」と表しています。
22メートルの古墳から、ペルシャ・中国・朝鮮半島の品がまとまって出ました。
ガラス皿・ガラス壺
126号墳から出土。橿原市はペルシャ地方からもたらされたものとする。
金製指輪
126号墳から出土。
垂下式金製耳飾
126号墳から出土。朝鮮半島の様式に近い。
龍文唐草透彫方形金板
126号墳から出土した、龍と唐草を透かし彫りにした金板。
漆盤・銅製柄付皿
126号墳から出土。
銀製空玉・鏡・玉・帯金具
同じく126号墳の副葬品。
新沢千塚古墳群と関連する古墳
新沢千塚古墳群についてよくある質問
新沢千塚古墳群は誰の墓ですか。
群全体としてはわかっていません。126号墳については、橿原市が「朝鮮半島あるいは中国東北部から日本に渡ってきた女性ではないか」としていますが、確定ではありません。
新沢千塚古墳群には古墳がいくつありますか。
橿原市は約600基、文化庁は350基前後としています。数える範囲が違うためです。大部分は径10メートルから30メートルの円墳です。
126号墳からは何が出土しましたか。
ガラス皿、ガラス壺、金製指輪、垂下式金製耳飾、龍文唐草透彫方形金板、漆盤、銅製柄付皿などです。橿原市はペルシャ地方や中国、朝鮮半島からもたらされたものとしています。
新沢千塚古墳群はどこにありますか。
奈良県橿原市の鳥屋町・北越智町・川西町にまたがります。近くに歴史に憩う橿原市博物館があります。
新沢千塚古墳群はいつ作られましたか。
4世紀の終わりごろから6世紀の終わりごろまでの約200年です。もっとも多く造られたのは5世紀後半から6世紀前半の100年間です。
新沢千塚古墳群と併せて覚えたい言葉・用語
群集墳(ぐんしゅうふん)
小型の古墳が密集した一群。5世紀後半から6世紀にかけて各地で造られた。
割竹形木棺(わりたけがたもっかん)
丸太を縦に割って中をくり抜いた棺。
緊急発掘(きんきゅうはっくつ)
開発で失われる前に行う発掘調査。
透彫(すかしぼり)
金属板を切り抜いて文様を表す技法。
新沢千塚古墳群の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。