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大阪府

大仙古墳(大仙陵古墳・仁徳天皇陵古墳)とはどんな古墳か|誰の墓か・大きさ

大仙陵古墳  / ダイセンリョウコフン

前方後円墳 5世紀

墳丘の長さ486メートル。日本でいちばん大きい前方後円墳。

大仙陵古墳とはどんな古墳か

大仙陵古墳は、大阪府堺市の百舌鳥古墳群にある墳丘長486メートルの前方後円墳です。墳丘の長さで比べると日本最大で、後円部と前方部をそれぞれ三段に築き、周囲に三重の濠をめぐらせています。濠を含む陵域は一辺が800メートルを超える規模です。

一般には「仁徳天皇陵」「仁徳天皇陵古墳」として知られます。これは宮内庁が第16代仁徳天皇の陵「百舌鳥耳原中陵」と治定し、現在も陵墓として管理しているためです。一方、考古学では被葬者を確認できていません。宮内庁による陵墓名と、発掘資料から確定した墓の主は同じ意味ではありません。

築造年代は5世紀と考えられています。堺市は、履中天皇陵古墳より後に造られたことを示しており、『日本書紀』の伝える仁徳天皇・履中天皇の在位順と古墳の築造順が一致しない点を紹介しています。この食い違いが、「本当に仁徳天皇の墓なのか」という検索上の疑問につながります。

大仙陵古墳は単独の巨大墳ではありません。周囲の陪塚、近隣の大型前方後円墳とともに、5世紀の倭王権が人員・資材・技術を集めた規模を示します。2019年には「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産として世界文化遺産に登録されました。大きさ、被葬者の未確定、立ち入り制限、世界遺産という四点を分けて理解することが、この古墳を読む入口です。

大仙陵古墳の読み方と別名

読みは「だいせんりょうこふん」です。「大仙古墳(だいせんこふん)」「大山古墳(だいせんこふん)」も同じ古墳を指します。

表記が分かれる背景には、資料ごとに目的が違うことがあります。「仁徳天皇陵古墳」は宮内庁の治定を踏まえた名称で、「大仙古墳」「大山古墳」は被葬者を名称で断定しない呼び方です。教科書などでは、両方が分かるよう「大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)」のように併記されることがあります。

なお「大山」と「大仙」はどちらも地名から来ており、意味の違いはありません。

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)

墳丘を指す中立的な名称として用いられる形。地元では古くから「大仙陵」と呼ばれてきた。

大山古墳(だいせんこふん)

堺市の古墳データベースが正式表記に添えている読み。地名の「大山(だいせん)」に由来する。

大仙古墳(だいせんこふん)

教科書や案内で広く使われる形。堺市の資料でも用いられる。

仁徳天皇陵古墳(にんとくてんのうりょうこふん)

堺市の古墳データベースの正式表記。宮内庁の治定にもとづく呼び方。

百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)

宮内庁が定めた陵の名。北の反正天皇陵・南の履中天皇陵とあわせて百舌鳥耳原三陵と呼ぶ。

大仙陵古墳は誰の墓か

結論から言うと、この古墳の被葬者は学術的には確定していません

宮内庁は第16代仁徳天皇の「百舌鳥耳原中陵」として管理しています。これは現在の陵墓としての公式な扱いです。ただし、陵墓のため墳丘中心部の全面的な発掘調査は行われておらず、墓誌のように被葬者名を直接示す資料も確認されていません。

考古学上の疑問は築造順にあります。堺市の解説では、大仙陵古墳は履中天皇陵古墳より後に築造されたとされます。『日本書紀』では仁徳天皇の後に履中天皇が即位するため、伝承上の親子・在位順と、古墳の新旧関係が素直には対応しません。この年代差だけで仁徳天皇説を完全否定できるわけではありませんが、確定とも言えません。

また、5世紀に中国南朝へ使者を送った「倭の五王」の一人を葬った墓と見る考え方もあります。ただし、讃・珍・済・興・武という中国史料上の名と、日本側の天皇名の対応には複数説があります。したがって、現時点では「宮内庁は仁徳天皇陵として管理」「考古学では被葬者未確定」を並べて示すのが最も正確です。

宮内庁の治定:仁徳天皇

陵名は百舌鳥耳原中陵、陵形は前方後円、所在地は大阪府堺市堺区大仙町とされる。

学術的な見方のひとつ:倭の五王のうちの一人

中国の記録に見える倭の五王の誰かを葬った墓といわれる、とする。

築造順から見た疑問:特定できていない

履中天皇陵古墳よりあとに築造されたことがわかっており、記録の在位順と合わない。

大仙陵古墳の大きさと形

墳丘の長さは486メートルです。堺市の全国の大きさ順では、2位が応神天皇陵古墳(425メートル)、3位が履中天皇陵古墳(365メートル)、4位が岡山県の造山古墳(350メートル)です。なお、ピラミッドなどと並べる「世界三大墳墓」という表現は、墳丘長・高さ・体積など比較基準が統一された学術分類ではありません。

墳丘の基底部だけで103,410平方メートル。濠を含めた陵域は約47万平方メートルで、堺市はこれを「甲子園球場が12個も入る広さ」と説明しています。

濠は三重です。内側から第1濠・第1堤・第2濠・第2堤・第3濠と重なります。ただし、外側の第3濠は明治時代に掘り直されたものです。現在の景観を、そのまま築造当初の姿とみなすことはできません。

墳丘の長さ:486メートル

後円部の直径:249メートル

後円部の高さ:35.8メートル

前方部の幅:307メートル

前方部の高さ:34メートル(堺市の古墳データベースでは約33.9メートル)

濠を含む最大長:840メートル

墳丘基底部の面積:103,410平方メートル

大仙陵古墳はいつ作られたか

堺市は古墳時代を「3世紀から7世紀の約400年間」とし、この古墳を倭の五王の時代、すなわち5世紀前半から6世紀初頭に造られた畿内の巨大古墳のひとつに数えています。

年代を決める手がかりのひとつが、造出しから出た須恵器の甕です。堺市は昭和30年代と近年の調査でこれが出土したことを「古墳が造られた年代を知る資料として、話題になっています」と記しています。

もうひとつの手がかりが、履中天皇陵古墳よりあとに造られたという前後関係です。日本書紀の在位の順と合わないため、この古墳の年代は被葬者の議論と切り離せません。

大仙陵古墳の場所と行き方(観光情報)

拝所は古墳の南側にあります。堺市の2026年案内では、JR阪和線の百舌鳥駅から西へ徒歩約10分、南海バスの堺市博物館前から北へ徒歩約2分です。宮内庁が案内する参拝時間は通常、午前8時30分から午後5時までです。

地上から墳丘全体を一望することはできません。規模や形を理解する目的なら、外周を歩くだけでなく、大仙公園内の堺市博物館百舌鳥古墳群ビジターセンターの模型・映像も合わせると位置関係をつかみやすくなります。

車の場合は大仙公園第1・第2・第3駐車場を利用できます。いずれも堺市の案内では午前5時から午後10時までで、普通車は2時間まで200円、以後1時間ごと100円、1日最大600円です。料金・利用時間は変更されることがあるため、来訪前に堺市の最新案内を確認してください。

大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)

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大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)の住所:大阪府堺市堺区大仙町

交通:JR阪和線 百舌鳥駅から西へ徒歩約10分。南海バス「堺市博物館前」から北へ徒歩約2分(堺市の2026年案内)

駐車場:大仙公園第1・第2・第3駐車場(有料。普通車は2時間まで200円、以後1時間ごと100円、1日最大600円)

料金:拝所までは無料

内部見学:入れない。宮内庁が陵墓として管理しているため墳丘には立ち入れない

見学できる中心は、南側の拝所と濠の外周です。墳丘と濠の内側は宮内庁が陵墓として管理しているため、一般の見学者は立ち入れません。

それでも濠に沿って一周する道が整備されており、全長は約2.8キロメートル。歩くと1時間近くかかります。地上からは森にしか見えないことが、かえって大きさを実感させます。

大仙陵古墳の発見と調査の歩み

  1. 明治5年、前方部から石棺が出た
  2. 陪塚が10基以上ある
  3. 外濠は明治に掘り直された

明治5年、前方部から石棺が出た

墳丘内部を知る重要な記録の一つが、明治初期の前方部石室に関する記録です。

堺市によれば、明治5年(1872年)に前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺がみつかり、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。このときの出土品は再び埋め戻されたと言われていますが、詳細な絵図の記録が残っており、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。

以後、宮内庁の管理下にある墳丘中心部では、被葬者を確定できる全面的な発掘調査は行われていません。明治期の絵図は内部を考える重要な資料ですが、古墳全体の埋葬施設を示すものではありません。

陪塚が10基以上ある

大仙陵古墳の周りには、陪塚と考えられる小さな古墳が10基以上あります。陪塚とは、大きな古墳に付き従うように造られた小さな古墳のことです。

世界遺産の一覧では、茶山古墳(円墳56メートル)と大安寺山古墳(円墳62メートル)が大仙陵古墳と一体の構成資産として扱われています。ほかに孫太夫山古墳(帆立貝形墳65メートル)、丸保山古墳(帆立貝形墳87メートル)、収塚古墳(帆立貝形墳59メートル)などが周囲に並びます。

主となる古墳の形は前方後円墳、従う古墳は帆立貝形墳や円墳、方墳。形そのものが身分の順序を表しています。

外濠は明治に掘り直された

いま見えている三重の濠のうち、いちばん外側は造られた当時のままではありません。

堺市は「現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです」と記しています。江戸時代までに埋まっていたものを、陵墓として整えるときに掘り直したものです。

古墳の姿は、1600年のあいだに何度も人の手が入っています。見えているものがそのまま古代の姿だとは限らないという点は、古墳を見るときの大事な前提です。

大仙陵古墳から出土したもの

出土品は多くありません。発掘されていないからです。

知られているもののほとんどは、明治5年の前方部の崩落をきっかけに記録された品と、外側の造出しから出た土器です。石室そのものは開けられていません。

長持形石棺

明治5年、前方部の竪穴式石室から見つかった。再び埋め戻されたとされるが、絵図の記録が残る。

金銅製の甲冑

同じときの出土品。絵図から、金銅で飾った立派なものだったと考えられている。

刀剣・ガラス製の壺と皿

同じ石室から出土。ガラス器は当時の交易の広さを示す。

須恵器の甕

造出しから出土。築造年代を知る手がかりとして注目されている。

埴輪

人物(女子の頭部)・水鳥・馬・鹿・家などの形象埴輪が出土している。

大仙陵古墳と関連する古墳

大仙陵古墳についてよくある質問

大仙古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁は仁徳天皇の陵として管理していますが、堺市自身が、この古墳は履中天皇陵古墳よりあとに造られたことがわかっていると書いており、日本書紀の在位の順と合いません。倭の五王のうちの一人とする見方もあります。

大仙古墳はどこにありますか。

大阪府堺市堺区大仙町です。堺市の案内では、JR阪和線の百舌鳥駅から西へ徒歩約10分で南側の拝所に着きます。

大仙古墳の大きさはどれくらいですか。

堺市によれば墳丘の長さ486メートル、後円部の直径249メートル、高さ35.8メートルです。濠を含めた最大長は840メートルあります。

大仙古墳の中に入れますか。

入れません。宮内庁が陵墓として管理しているため、墳丘や濠の内側には立ち入れません。見られるのは南側の拝所と、濠の外を回る道です。

大仙古墳と大山古墳はどちらが正しいのですか。

どちらも同じ古墳を指します。「大仙」「大山」はどちらも地名に由来する表記で、意味の違いはありません。「仁徳天皇陵古墳」は宮内庁の治定にもとづく呼び方です。

大仙古墳はいつ作られたのですか。

5世紀とされます。堺市は倭の五王が中国と交渉を持った5世紀前半から6世紀初頭に造られた畿内の古墳のひとつに数えています。

大仙陵古墳と併せて覚えたい言葉・用語

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)

四角い前方部と丸い後円部をつないだ、鍵穴のような形の古墳。日本で独自に発達した。

治定(じじょう)

宮内庁がどの陵墓を誰の墓と定めること。学術的な確定とは別のもの。

陪塚(ばいちょう)

大きな古墳に従うように周りに造られた小さな古墳。

造出(つくりだし)

前方部と後円部のくびれのあたりに張り出した平らな場所。まつりを行った場と考えられている。

長持形石棺(ながもちがたせっかん)

長方形の箱に蓋をかぶせた形の石の棺。5世紀の大きな古墳に多い。

大仙陵古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 宮内庁「仁德天皇 百舌鳥耳原中陵」
  2. 堺市博物館「仁徳天皇陵古墳百科」
  3. 堺市「仁徳天皇陵古墳(大山古墳)」
  4. 堺市「百舌鳥古墳群への交通アクセス」
  5. 堺市「大仙公園」