本文へ移動

長野県

弘法山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

弘法山古墳  / コウボウヤマコフン

前方後方墳 3世紀4世紀

長野県で最も古い部類に入る前方後方墳。松本平を見下ろす丘の先端にある。

弘法山古墳とはどんな古墳か

弘法山古墳はひとことで言えば東国のはじまりの古墳です。長野県松本市神田・並柳にあり、文化庁は「弘法山と俗称される丘陵の先端に所在する前方後方墳である」としています。

前方後円墳ではありません。後ろが四角い前方後方墳です。松本市の令和7年版リーフレットは、墳丘の全長を約61.5メートル、後方部の幅36メートル、前方部前端の幅24.9メートルとしています。

この古墳の値打ちは、3世紀末ごろに造られた東日本最古級の一基であることにあります。古墳という文化が、いつ、どのように東国へ届いたのかを考えるための資料です。

弘法山古墳の読み方と別名

読みは「こうぼうやまこふん」です。

「弘法山」は古墳のある丘の俗称で、文化庁も「弘法山と俗称される丘陵」と書いています。古墳の名が、古墳そのものではなく、丘の呼び名から来ている例です。

古墳の形は前方後方墳です。「前方後円墳」と一字違いですが、別の形です。後ろが円ではなく四角になります。

弘法山古墳(こうぼうやまこふん)

文化庁が用いる正式な名。

弘法山(こうぼうやま)

古墳のある丘の俗称。古墳の名はここから来ている。

弘法山古墳は誰の墓か

弘法山古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。

文化庁の解説は、墳丘の構造と副葬品について詳しく述べていますが、人物の特定にはまったく触れていません。資料が無いからです。

わかるのは、どういう立場の人物だったかの見当までです。松本平を見下ろす丘の先端という立地、約61.5メートルという規模、そして東海地方の特徴を持つ土器や副葬品から、松本市は当時この地域を治めた王の墓と考えています。

最新の松本市資料は、副葬品の配置から被葬者が北東へ頭を向けていたと推定し、鉄斧は石室北端の、想定される棺の外側から見つかったと説明しています。

名は残っていませんが、葬られ方は残っています。

弘法山古墳の大きさと形

再調査を反映した松本市の令和7年版リーフレットでは、墳丘全長は約61.5メートルです。後方部は長さ34.1メートル・幅36メートル・高さ6.2メートル以上、前方部は長さ27.4メートル・前端幅24.9メートル・高さ1.9メートル以上とされます。

埋葬施設は後方部中央の竪穴式石室状の礫槨で、長さ5.5メートル・幅1.32メートル・深さ0.93メートルです。

墳丘には埴輪を立てた痕跡がなく、葺石はくびれ部などの一部で確認されています。古い指定時の数値と最新調査値を混ぜず、ここでは松本市の最新資料を優先します。

墳丘の長さ:約61.5メートル

後方部の幅:36メートル

後方部の高さ:6.2メートル以上

前方部の幅:24.9メートル

前方部の高さ:1.9メートル以上

埋葬施設の範囲:長さ5.5メートル・幅1.32メートル・深さ0.93メートル

弘法山古墳はいつ作られたか

松本市の最新資料は、築造を3世紀末ごろとし、東日本最古級の前方後方墳と説明しています。

年代を推し量る手がかりは三つあります。前方後方墳という形。埴輪の円筒列が無いこと。そして竪穴式石室状の礫槨という埋葬施設です。

いずれも、古墳という文化が始まったばかりの段階を示します。前方後円墳がまだ全国に広がりきっていない時期に、この地域が古墳文化を受け入れていたことになります。

弘法山古墳の場所と行き方(観光情報)

丘の上にあるため、松本平を一望できる立地です。首長の墓がなぜこの場所に置かれたのかが、立つとわかります。

春は桜の名所としても知られています。

弘法山古墳

地図で開く

弘法山古墳の住所:長野県松本市並柳2丁目1000番ほか

交通:JR松本駅から並柳団地線で約15分、「弘法山入口」下車後、徒歩約10分。松本駅からタクシー約15分

駐車場:史跡駐車場あり。松本市は台数が限られるとして公共交通機関の利用を案内

料金:屋外史跡の見学は自由。出土品を展示する松本市立考古博物館も観覧無料

内部見学:丘の上の史跡として整備されている。埋葬施設は埋め戻されている

所在地は文化庁が公表する松本市神田、並柳です。松本平を見下ろす丘陵の先端にあります。

松本市の案内では、松本ICから車で約25分です。遺構保護のため園路以外の斜面には入らず、桜の時期などは駐車場の混雑を避けて公共交通機関を利用してください。

弘法山古墳の発見と調査の歩み

  1. 前方後方墳という形
  2. 副葬品の配置から葬り方を読む
  3. 再調査で変わった墳丘の数字

前方後方墳という形

弘法山古墳は前方後方墳です。前方後円墳とは一字しか違いませんが、別の形です。

前方後円墳が「四角い前方部 + 丸い後円部」であるのに対し、前方後方墳は「四角い前方部 + 四角い後方部」になります。上から見ると、大小の四角がつながった形です。

前方後方墳は東国に多い形です。畿内で前方後円墳が主流になったあとも、東海・北陸・関東・東北の一部では前方後方墳が造られ続けました。

同じ時代に、別の形の墓を選ぶ地域があった。その事実は、古墳の形が単なる流行ではなく、立場や系統を示すものであったことを示しています。

副葬品の配置から葬り方を読む

最新資料では、鉄斧は石室北端、想定される棺の外側から見つかっています。被葬者の向きは、副葬品の配置から北東頭位と推定されます。

鏡は1面、ガラス小玉は738点、鉄剣または鉄槍3点、銅鏃1点、鉄鏃24点、工具は鉄斧とヤリガンナ各1点です。

何が出たかだけでなく、身体のどこに置かれたかを照合することで、棺が失われた埋葬施設から葬り方を復元します。

再調査で変わった墳丘の数字

弘法山古墳では令和2年度から5年度に再調査が行われ、墳丘裾や表面の構造が確かめられました。令和7年版リーフレットの全長は約61.5メートルで、古い指定解説の63メートルとは数値が異なります。

埴輪を立てた痕跡はなく、葺石はくびれ部などで部分的に確認されました。盛土は砕石を混ぜた土を突き固め、後方部では元の地形から4メートル近い厚さになります。

古墳の数字は不変ではありません。再発掘で外形を確かめた結果を、古い概数より優先して表示します。

弘法山古墳から出土したもの

埋葬施設は竪穴式石室状の礫槨で、長さ5.5メートル・幅1.32メートル・深さ0.93メートルです。

墳丘上に埴輪を立てた痕跡はありません。出土品は松本市立考古博物館で公開され、観覧料は無料です。

鉄斧

石室北端の、想定される棺の外側から出土した工具。

上方作系浮彫式獣帯鏡1面。直径11.65センチメートル。

銅鏃・鉄鏃

矢じり。銅と鉄の両方が副葬されていた。

鉄剣

副葬品のひとつ。

ガラス小玉

装身具として副葬されていた。

葺石

くびれ部など、再調査で墳丘表面の一部に確認された。

弘法山古墳と関連する古墳

弘法山古墳についてよくある質問

弘法山古墳は誰の墓ですか。

個人名はわかっていません。松本市は、立地と出土品から、当時この地域を治めていた王の墓と考えています。

弘法山古墳は前方後円墳ですか。

違います。前方後方墳です。後ろが円ではなく四角い形をしています。前方後方墳は東国に多い形です。

弘法山古墳の大きさはどれくらいですか。

松本市の令和7年版リーフレットでは、全長約61.5メートル、後方部の幅36メートル、前方部前端の幅24.9メートルです。

弘法山古墳はどこにありますか。

長野県松本市並柳2丁目1000番ほかです。JR松本駅から並柳団地線で約15分、「弘法山入口」下車後、徒歩約10分です。

弘法山古墳はいつ作られましたか。

3世紀末ごろです。松本市は東日本最古級の前方後方墳と説明しています。

弘法山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

四角い前方部と四角い後方部をつないだ形の古墳。東国に多い。

竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

上から棺を納めて閉じる石室。追葬ができない。

銅鏃(どうぞく)

青銅で作った矢じり。

古墳時代前期(こふんじだいぜんき)

おおむね3世紀後半から4世紀。竪穴式石室と鏡の副葬が特徴。

弘法山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 松本市「弘法山古墳」
  2. 松本市「弘法山古墳リーフレット(令和7年4月)」
  3. 松本市「弘法山古墳出土品」
  4. 文化庁 文化遺産オンライン「弘法山古墳」