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奈良県

箸墓古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

箸墓古墳  / ハシハカコフン

前方後円墳 3世紀

日本列島で最初の巨大前方後円墳。卑弥呼の墓とする説がある。

箸墓古墳とはどんな古墳か

箸墓古墳は、奈良県桜井市の纒向遺跡南東部にある定型化した最古級の巨大前方後円墳です。奈良県と桜井市は、3世紀中頃から後半に築かれた全長約280メートルの古墳として案内しています。

墳丘の長さは奈良県が約280メートル、文化庁が290メートル前後としており、数字にわずかな幅があります。後円部の直径は約160メートルから165メートル。後円部は4段に築かれ、頂に円形の壇を持ちます。

築造は3世紀中頃から後半。古墳時代のはじまりを画す古墳です。

宮内庁は倭迹迹日百襲姫命の墓として管理しています。一方で、築造年代と規模から卑弥呼の墓ではないかとする説があります。治定された墓名と学術上の仮説を混同せず、被葬者を確定できる墓誌や全面発掘の成果がないことを前提に読む必要があります。

箸墓古墳の読み方と別名

読みは「はしはかこふん」です。

名の由来は日本書紀にあります。倭迹迹日百襲姫命が、夫である大物主神の正体が蛇であることに驚いた際、箸が陰部に刺さって死に至ったと記されており、それが「箸墓」の名になったとされます。

地元には別の言い伝えもあります。奈良県によれば、箸中長者の伝説として、お金が貯まりすぎて困った長者が貧しくなりたいと願い、食事のたびに箸を捨て続けた結果、箸が山のように積み上がって「箸塚」ができた、と伝わっています。

由来の話が二つ残っているのは、それだけ古くから人の目を引いてきた証拠です。

箸墓古墳(はしはかこふん)

一般に使われる名。文化庁の史跡指定名称は「箸墓古墳周濠」。

倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことのおおいちのはか)

宮内庁が定めた墓の名。第7代孝霊天皇の皇女の墓とする。

箸中山古墳(はしなかやまこふん)

所在地の桜井市大字箸中にちなむ呼び方。研究者が用いることがある。

箸陵(はしのみささぎ)

日本書紀の天武紀に見える呼び方。壬申の乱の戦場として登場する。

箸墓古墳は誰の墓か

箸墓古墳の被葬者は学術的には確定していません

宮内庁は、第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命の「大市墓」として墳丘の大部分を管理しています。宮内庁書陵部の調査報告によれば、現在の治定は幕末に行われましたが、その根拠を記した勘註は伝わっていません。地元で箸墓と伝承されてきたことや、『日本書紀』に箸陵の名が見えることなどが背景と考えられています。

倭迹迹日百襲姫命は、日本書紀に数々の予言を的中させる巫女的な人物として描かれ、大物主神との神婚の話で知られます。

学術上の仮説として卑弥呼説があります。奈良県は、その根拠として築造時期が3世紀中頃から後半で卑弥呼の没年と近いこと、『魏志倭人伝』の「径百余歩」と後円部の規模を比較できることを紹介しています。ただし、中国史料の歩数と墳丘のどの部分を対応させるか、年代をどこまで絞れるかには議論があります。

したがって、現在言える結論は「宮内庁の治定は倭迹迹日百襲姫命」「卑弥呼説は有力仮説の一つ」「被葬者を直接示す資料は確認されていない」の三点です。

宮内庁の治定:倭迹迹日百襲姫命

第7代孝霊天皇の皇女。墓の名は「倭迹迹日百襲姫命大市墓」。

研究者に少なくない説:卑弥呼

築造時期が3世紀中頃から後半であること、魏志倭人伝の「径百余歩」が後円部の規模に近いことを根拠とする。

奈良県の説明:決着していない

邪馬台国論争とも関連し、被葬者についての論争が続いている。

箸墓古墳の大きさと形

墳丘の長さは約280メートル(奈良県)または290メートル前後(文化庁)。3世紀の古墳としては群を抜いた大きさです。

後円部は径約160メートルから165メートルで4段に築かれ、頂に円形の壇を持ちます。前方部は3段ないし4段と推定されています。文化庁は前方部の長さを135メートル前後、前面の幅を約158メートルとしています。

墳丘の周囲には幅10メートルあまりの周濠がめぐり、そのさらに外側に、最大幅100メートルに及ぶと推定される「外濠状遺構」が広がっていたことがわかってきました。

墳丘の長さ:約280メートル(文化庁は290メートル前後とする)

後円部の直径:約160メートル(文化庁は約165メートルとする)

前方部の長さ:135メートル前後

前方部前面の幅:約158メートル

周濠の幅:約10メートル

外濠状遺構の推定幅:最大100メートル

箸墓古墳はいつ作られたか

奈良県は「古墳時代前期初頭の3世紀中頃〜後半の築造」とし、文化庁も「築造時期は3世紀中頃から後半と考えられている」としています。

この年代が重要なのは、卑弥呼の没年と重なるからです。魏志倭人伝によれば卑弥呼が亡くなったのは3世紀の半ばごろ。もし箸墓古墳の年代がそれより後だとすると、卑弥呼の墓ではありえません。逆に重なるなら、可能性が残ります。

奈良県は、この古墳の築造を「日本という国家の枠組みが形成される過程の大きな第一歩」と位置づけています。前方後円墳という形は、この古墳のある纒向の地から各地へ広まったと考えられています。

箸墓古墳の場所と行き方(観光情報)

JR桜井線の巻向駅周辺、纒向遺跡の一画にあります。周囲には纒向古墳群・柳本古墳群・大和古墳群が広がり、上ツ道という古代の道が墳丘に近接して通っていたことも確認されています。

古墳の南側には池があり、水面ごしに墳丘を見る景色がよく知られています。

箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)

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箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)の住所:奈良県桜井市大字箸中

交通:JR万葉まほろば線 巻向駅から徒歩約10分(桜井市案内)

駐車場:専用駐車場は設けられていないため、公共交通機関を利用

料金:外から見るのは無料

内部見学:入れない。墳丘の大部分は宮内庁が陵墓として管理している

墳丘の大部分は宮内庁が管理する陵墓のため、立ち入れません。

いっぽう周濠の推定部分の一部は、2017年2月に「箸墓古墳周濠」として国の史跡に指定されました。一つの古墳が、陵墓と国史跡に分かれて管理されている形です。

箸墓古墳の発見と調査の歩み

  1. 昼は人が造り、夜は神が造った
  2. 前方後円墳はここから広まった
  3. 埴輪の前の器が並んでいた

昼は人が造り、夜は神が造った

『日本書紀』は、箸墓を昼は人が造り、夜は神が造った墓として語り、大坂山の石を人々が手渡しで運んだと記します。これは築造当時の作業記録ではなく、8世紀に編纂された文献が伝える由来譚です。

それでも、巨大な墳丘の成立が後世の人々に人力だけでは説明しにくい事業として受け止められたことは読み取れます。考古学上の築造過程と、『日本書紀』の物語は資料の性格を分けて扱う必要があります。

日本書紀にはもうひとつ、この古墳の名が出てきます。壬申の乱のときです。上ツ道を守った大海人皇子の軍勢が「箸陵」の近くで近江の軍と戦い、勝利したと記されています。

前方後円墳はここから広まった

箸墓古墳の学術的な価値は、被葬者論だけでなく、定型化した巨大前方後円墳が現れる段階を示す点にあります。

奈良県は、箸墓古墳の後、およそ350年間にわたって前方後円墳が列島の広い範囲に築かれ、その形が纒向から各地へ広がったと考えられると説明しています。

各地の有力者が似た墳形を採用した背景には、政治的な結び付きや葬送儀礼の共有があったと考えられます。ただし、築造の許可制度まで直接確認できる文書はありません。箸墓古墳は、広域の墳墓秩序が成立する過程を考える基準となる古墳です。

埴輪の前の器が並んでいた

箸墓古墳の墳頂には、埴輪になる前の器が並んでいました。

奈良県は、後円部頂と前方部頂の周辺に特殊器台・特殊壺・二重口縁壺形埴輪などが配置されていた、としています。

特殊器台は、吉備(いまの岡山県)で葬送のまつりに使われていた大型の器台です。それが奈良盆地の最初の巨大古墳に持ち込まれ、やがて円筒埴輪へと姿を変えていきます。

埴輪の起源が吉備にあることを示す手がかりが、この古墳にあります。古墳の形も、並べる器も、各地の要素を寄せ集めて作られたものでした。

箸墓古墳から出土したもの

墳丘の大部分は陵墓として管理されており、本格的な発掘は行われていません。

知られている情報は、周濠部分の調査と、墳丘の表面で採集された遺物によるものです。

特殊器台

吉備の葬送に使われた大型の器台。円筒埴輪の元になったと考えられている。

特殊壺

特殊器台とともに墳頂に配置されていた。

二重口縁壺形埴輪

壺の形をした埴輪。墳頂の周辺に並べられていた。

葺石

墳丘の斜面を覆う石。箸墓古墳にも施されている。

箸墓古墳と関連する古墳

箸墓古墳についてよくある質問

箸墓古墳は誰の墓ですか。

決着していません。宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の大市墓として治定しています。いっぽう奈良県は、魏志倭人伝に登場する卑弥呼の墓と考える研究者も少なくないとしています。

箸墓古墳は卑弥呼の墓ですか。

確定していません。築造が3世紀中頃から後半で卑弥呼の没年と重なること、魏志倭人伝が卑弥呼の墓を「径百余歩」(径約150メートル)とし後円部の規模に近いことが根拠として挙げられますが、決め手はありません。

箸墓古墳の大きさはどれくらいですか。

墳丘の長さは奈良県が約280メートル、文化庁が290メートル前後としています。後円部の直径は約160メートルから165メートルです。

箸墓古墳はどこにありますか。

奈良県桜井市大字箸中です。JR桜井線の巻向駅の周辺、纒向遺跡の一画にあります。

箸墓という名前の由来は何ですか。

日本書紀に、倭迹迹日百襲姫命が箸が刺さって亡くなったという話があり、それが名の由来とされます。地元には、長者が箸を捨て続けて山になったという別の言い伝えもあります。

箸墓古墳と併せて覚えたい言葉・用語

纒向遺跡(まきむくいせき)

奈良県桜井市にある3世紀の大規模な集落跡。邪馬台国の候補地のひとつとされる。

特殊器台(とくしゅきだい)

吉備で葬送のまつりに使われた大型の器台。円筒埴輪の元になったとされる。

葺石(ふきいし)

古墳の斜面を覆う石。土が流れるのを防ぎ、外観を整える。

陵墓(りょうぼ)

宮内庁が皇室の墓として管理する場所。原則として発掘できない。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)

中国の歴史書『三国志』のうち、倭について記した部分。卑弥呼の記述がある。

箸墓古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 宮内庁書陵部「倭迹迹日百襲姫命 大市墓支障木処理工事に伴う調査」
  2. 文化庁 文化遺産オンライン「箸墓古墳周濠」
  3. 奈良県「箸墓古墳」
  4. 桜井市「箸墓古墳」
  5. 奈良県立図書情報館「箸墓古墳」