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東京都

稲荷塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

稲荷塚古墳  / イナリヅカコフン

八角墳 7世紀

円墳と思われていたが、再調査で八角墳とわかった多摩の古墳。

稲荷塚古墳とはどんな古墳か

東京都多摩市百草にある古墳です。東京都指定の史跡ですが、その詳しい内容を都の資料で確かめることはいまできません。東京都教育庁のページには、東京都文化財情報データベースは現在改修中のため閲覧できません、と書かれています。

この古墳が知られているのは、墳形の見方が途中で変わったからです。1950年代の調査以来ながく円墳とみなされてきましたが、1980年代から1990年代前半の再調査で八角墳と判断されました。八角墳は、7世紀中頃以降の天皇陵の形と考えられてきたものです。

横穴式石室は、前室と玄室の壁が三味線の胴のようにふくらむ胴張複室構造で、凝灰岩の切石を積んで築かれています。石室はいま保護のため埋め戻され、色違いのブロックで位置と形が地表に示されています。

稲荷塚古墳の読み方と別名

読みは「いなりづかこふん」です。稲荷塚という名の古墳は各地にあり、いずれも墳丘の上に稲荷の社が建てられたことに由来するとされます。

江戸時代には古墳の東側に資福院という寺があったものの、明治初年に墳丘の上へ恋路稲荷神社が建てられたと伝えられます。その工事で古墳の上部が大きく削られ、天井石もほとんど取り去られたといいます。

名が残るきっかけと、墳丘が傷んだきっかけが同じだったことになります。同じ多摩地域では、上円下方墳の武蔵府中熊野神社古墳のように、社の名が古墳の名になった例がほかにもあります。

稲荷塚古墳(いなりづかこふん)

墳丘の上に恋路稲荷神社が建てられたことにちなむ名とされる。多摩市百草にある。

恋路稲荷神社(こいじいなりじんじゃ)

明治初年に墳丘上に建てられた社。この工事で古墳の上部が削られたと伝えられる。

八角墳(はっかくふん)

平面が八角形の墳形。この古墳は再調査でこの形と判断され、東日本では初めての確認例となった。

稲荷塚古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

石室は早くに盗掘されており、副葬品も持ち去られたと伝えられます。手がかりになるはずの品が、ほとんど残っていません。

葬られた人を知る手がかりは、出たものではなく、墓の形そのものに残りました。八角墳という形は、天智天皇陵や天武・持統天皇陵など、7世紀中頃以降の大王の墓に用いられた形と考えられてきました。それが東日本のこの地で確かめられたことで、八角墳をどう見るかが問い直されています。

ただし、それがこの古墳の被葬者を大王と結びつける根拠になるわけではありません。同じころ東日本では、群馬県の伊勢塚古墳・三津屋古墳、山梨県の経塚古墳と、八角墳の確認が続きました。日本全国およそ15万基の古墳のうち、八角墳は15例ほどしかないといわれます。

断定できない:わかっていない

東京都の文化財情報データベースは改修中で閲覧できず、都の公式の記述を確かめられなかった。

稲荷塚古墳の大きさと形

稲荷塚古墳の大きさを記した公式のページを、確かめられませんでした。東京都指定の史跡ですが、その内容を載せる東京都文化財情報データベースが改修中で閲覧できないためです。

下調べによれば、全長は38メートルで周囲に幅2メートルの周溝があり、墳丘の全長は34メートルで2段構造とされます。高さは4メートルほどあったとみられますが、恋路稲荷神社を建てる際に2段目が削られ、いまは半分ほどになっているといいます。

横穴式石室は全長約7.7メートルで、羨道・前室・玄室の3室からなるとされます。玄室の奥壁には高さ1.6メートルの一枚石が使われているといいますが、いずれも公式の数字としては取り出せませんでした。

東京都文化財情報データベース:改修中のため閲覧できません

墳丘の規模:公式には確認できませんでした

石室の規模:公式には確認できませんでした

墳形:公式には確認できませんでした

稲荷塚古墳はいつ作られたか

築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。下調べでは、古墳時代後期の7世紀前半と推測されています。

7世紀は、前方後円墳が造られなくなったあとの時代です。畿内では石舞台古墳のような大きな石室の方墳が築かれ、やがて八角墳が現れます。同じころ、多摩の丘のふもとにも切石を組んだ石室の古墳が造られていたことになります。

周辺の和田古墳群も、6世紀中頃から7世紀中頃を中心とする古墳が多いとされます。西へ100メートルほどの臼井塚古墳は、築造の時期も石室の構造もこの古墳と同じで、規模だけが小さいといいます。

稲荷塚古墳の場所と行き方(観光情報)

大栗川の両岸には和田古墳群と呼ばれる古墳のまとまりがあり、稲荷塚古墳はその一つに数えられます。西へ100メートルほどの臼井塚古墳、庚申塚古墳、塚原古墳群などが同じ群に含まれるとされます。

都内の7世紀の古墳としては、八王子市の北大谷古墳に次ぐ大きさともいわれます。距離は離れていますが、石室の構造や築造時期に共通点が多いと指摘されています。

稲荷塚古墳

地図で開く

稲荷塚古墳の住所:公式には確認できませんでした

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:石室は保護のため埋め戻されており、中に入ることはできません。墳丘の上には恋路稲荷神社があるとされます。ただし立ち入りについての公式の記載は確認できませんでした

所在地・行き方・料金のいずれも、公式のページで確かめられませんでした。東京都の文化財情報データベースが改修中で閲覧できず、多摩市の案内にも行き着けなかったためです。

下調べでは、所在地は東京都多摩市百草とされます。石室はいま地中にあり、その位置と形が色違いのブロックで地表に示されているといいます。石室の復元模型や切り取った床の一部は、多摩センター駅近くの博物館で展示されていると伝えられます。

稲荷塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 円墳から八角墳へ、見方が変わった
  2. 三味線の胴のようにふくらむ石室
  3. 確かめられないということを書く

円墳から八角墳へ、見方が変わった

1952年(昭和27年)11月、多摩市立多摩中学校の教諭が中心となり、東京国立博物館の技官も加わって発掘調査が行われました。作業には中学校の生徒も参加したと伝えられます。

このとき石室の構造が明らかになり、胴張複室構造であることがわかりました。それを受けて、翌1953年に東京都の指定文化財となります。この時点では円墳とされていました。

見方が変わったのは30年以上あとです。1980年代から1990年代前半の再調査で、従来は東日本では確認されていなかった八角墳であることが判明しました。

同じ墳丘を測り直しただけで、古墳の位置づけが変わったことになります。掘って出たものだけでなく、形をどう捉えるかも書き換わることを示す例です。

三味線の胴のようにふくらむ石室

石室は、羨道・前室・玄室の3室からなる横穴式石室とされます。凝灰岩の切石を組み合わせて積み上げた構造で、玄室の奥壁には一枚の大きな石が使われているといいます。

特徴は壁の形です。前室と玄室の壁は、三味線の胴のようにゆるくカーブしているといいます。この造りを胴張複室構造と呼びます。石を平らに積むのではなく、ふくらみを持たせて組む技術です。

床にはベンガラと呼ばれる赤色の粉が撒かれ、その上にこぶし大の丸い石が敷き詰められていたと伝えられます。

こうした石室の造りから、朝鮮半島から渡ってきた人々の技術によるものと推定されています。7世紀の多摩に、その技術が届いていたことになります。

確かめられないということを書く

この古墳について、大きさも所在地も行き方も、公式のページで確かめることができませんでした。理由ははっきりしています。

東京都教育庁のページには、次のように書かれています。

現在、東京都文化財情報データベースは改修中のため、閲覧できません。

都の指定文化財の内容をまとめて確かめる窓口が、いま閉じているということです。指定されている文化財なのに、その公式の記述にたどり着けない状態が続いています。

ここに書いた数字や構造は、いずれも下調べにもとづくもので、公式に裏づけられたものではありません。データベースが再び開いたときに、確かめ直す必要があります。

稲荷塚古墳から出土したもの

この古墳から何が出たのかは、わかっていません。明治初年に石室が盗掘され、遺物は持ち去られたと伝えられるためです。下調べも、出土遺物を不明としています。

残ったのは、石室そのものと床の造りです。ベンガラを撒き、その上に円礫を敷くという手順まで読み取れています。品が失われても、造りの記録は残りました。

凝灰岩の切石

石室を組み上げた石材。玄室の奥壁には一枚石が、玄室と前室の間には門柱石が使われるとされる。

ベンガラ

石室の床に撒かれていた赤色の粉。酸化鉄で、古墳の埋葬施設によく用いられる。

円礫の敷石

ベンガラの上に散りばめられていた、こぶし大の丸い石。

副葬品

明治初年に盗掘され、遺物は持ち去られたと伝えられる。何が納められていたかはわからない。

稲荷塚古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

稲荷塚古墳についてよくある質問

稲荷塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。明治初年に石室が盗掘され、副葬品も持ち去られたと伝えられます。宮内庁の陵墓ではなく、東京都指定の史跡として扱われています。

稲荷塚古墳はどこにありますか。

所在地を記した公式のページは確かめられませんでした。東京都の文化財情報データベースが改修中のためです。下調べでは東京都多摩市百草とされます。

稲荷塚古墳の大きさはどれくらいですか。

公式の数字は確かめられませんでした。下調べでは全長38メートル、周溝の幅2メートル、石室の全長約7.7メートルとされます。

稲荷塚古墳はいつ作られましたか。

公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは古墳時代後期の7世紀前半と推測されています。

稲荷塚古墳の石室に入れますか。

入れません。石室は保護のため埋め戻されており、地表には色違いのブロックで位置と形が示されているといいます。

稲荷塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

八角墳(はっかくふん)

平面が八角形の古墳。7世紀の大王の墓に用いられた形とされ、全国でも15例ほどしか知られない。

横穴式石室(よこあなしきせきしつ)

横から出入りできる通路の付いた石室。あとから棺を追加して納めることができる。

胴張複室構造(どうばりふくしつこうぞう)

壁がゆるくふくらみ、前室と玄室に分かれる石室の造り。稲荷塚古墳の石室がこの形とされる。

ベンガラ(べんがら)

酸化鉄からできた赤色の顔料。石室の床や石棺の内側に塗られたり撒かれたりする。

稲荷塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 東京都教育庁