東京の都心に残る前方後円墳。坪井正五郎が明治に調べた古墳。
芝丸山古墳とはどんな古墳か
東京都港区の芝公園にある前方後円墳です。都心に残る数少ない大型古墳として知られ、東京都が史跡に指定しているとされます。
この古墳の名を世に出したのは、日本の人類学の草分けである坪井正五郎です。坪井は1898年に「芝丸山古墳に就て」を地学雑誌に発表し、翌年には副葬品についての報告を重ねました。どちらも科学技術振興機構の論文公開サービスで、いまも読むことができます。
江戸時代には後円部の頂が崩されて広場になっていたとみられ、埋葬施設は確かめられませんでした。出土したものが、この古墳のものなのか、まわりの小さな古墳のものなのかも決めきれていません。所在地や大きさを記した公式のページは、確かめられませんでした。
芝丸山古墳の読み方と別名
読みは「しばまるやまこふん」です。芝という地名に、丸山という形の見立てを重ねた名です。
「丸山」と呼ばれる古墳は各地にあります。前方後円墳でも、後円部だけが丸い山として目立つと、そう呼ばれてしまうためです。奈良県の五条野丸山古墳も、長く単なる円墳だと思われていました。
坪井正五郎が1898年に発表した論文の題も「芝丸山古墳に就て」で、このころには既に古墳として認められていたことがわかります。港区や東京都の公式ページで名称や住所を確かめることはできませんでした。
芝丸山古墳(しばまるやまこふん)
一般に使われる呼び方。芝という地名と、丸い山という形の見立てを合わせた名。
丸山(まるやま)
古くからの呼び名。芝公園の中の高まりが、そのまま丸山と呼ばれてきた。
芝丸山古墳群(しばまるやまこふんぐん)
この古墳とまわりの小さな古墳をまとめた呼び方。国立国会図書館の資料の目次にも見える。
芝丸山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、まったくわかっていません。
理由は単純です。埋葬施設が残っていないからです。江戸時代には後円部の頂が崩され、広場になっていたとみられています。1898年に坪井正五郎が発掘調査を行ったとき、埴輪や須恵器などの遺物は見つかりましたが、肝心の埋葬施設は確かめられませんでした。
さらに、見つかった遺物についても問題が残ります。まわりには小さな円墳がいくつもあり、出土したものがこの古墳のものか、そちらのものか、決めきれないのです。
宮内庁の陵墓にも陵墓参考地にも入っていません。被葬者を語る材料が、そもそも無いという点で、大仙陵古墳のように治定と学説が争う古墳とは、事情がまったく違います。
断定できない:わかっていない
坪井正五郎の報告が読めるが、被葬者を確かめた記述は見あたらない。
芝丸山古墳の大きさと形
この古墳の墳丘の長さや高さを記した公式のページは、確かめられませんでした。現地の案内板と、研究者の測った数字とで値が違うとも言われています。
公式に確かめられたのは、坪井正五郎の報告が学術誌に載っているという事実だけです。1898年の「芝丸山古墳に就て」は地学雑誌10巻10号の523ページから531ページ、1899年の「芝丸山古墳に於けろ副葬品存在の間接證」は同誌11巻8号の567ページから570ページに載っています。数字を確かめたい方は、この報告に当たるのがいちばん確かです。
最初の学術報告:坪井正五郎「芝丸山古墳に就て」地学雑誌10巻10号523-531頁(1898年)
副葬品についての報告:坪井正五郎「芝丸山古墳に於けろ副葬品存在の間接證」地学雑誌11巻8号567-570頁(1899年)
墳丘の長さ・幅・高さ:公式には確認できませんでした
芝丸山古墳はいつ作られたか
芝丸山古墳の場所と行き方(観光情報)
東京都内には、亀甲山古墳、野毛大塚古墳、武蔵府中熊野神社古墳など、いくつもの古墳が残っています。都心のまん中に残っているのは、この古墳です。
国立国会図書館の資料には、芝公園内の古墳の分布図や、検出された巨石の上に立つ坪井正五郎の写真が収められています。
芝丸山古墳
芝丸山古墳の住所:東京都港区芝公園4丁目8
交通:JR浜松町駅、都営三田線芝公園駅から徒歩
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:東京都指定史跡で、芝公園の一角にあります。宮内庁の陵墓ではありません。港区の案内では、後円部の頂が広場として整備され、石段を上って散策できる場所として紹介されています。
港区の公式冊子は、芝丸山古墳の石段の住所を芝公園4丁目8とし、JR浜松町駅と都営三田線芝公園駅を最寄り駅として案内しています。
公園の中にあるため、目印になるのは古墳そのものではなく、公園です。芝公園は標高約16メートルの台地の先端にあたり、その高まりの上に古墳が築かれています。坪井正五郎は、留学から帰る船の上で故郷の風景を思い浮かべ、この丸山の高さに不自然さを感じたと伝えられます。
芝丸山古墳の発見と調査の歩み
船の上から気づいた、高さの不自然さ
1892年、3年間のヨーロッパ留学を終えた坪井正五郎は、日本へ帰る船の上にいました。故郷の風景を思い浮かべているうち、芝公園にある丸山の高さが不自然だと感じたと伝えられます。
1898年、坪井は発掘調査を行い、埴輪や須恵器などの遺物を見つけます。その成果は同じ年の地学雑誌に「芝丸山古墳に就て」として発表され、翌年には副葬品についての追報が続きました。
しかし、後円部が削られていたため、埋葬施設は確かめられませんでした。見つかった遺物も、まわりの小さな円墳のものである可能性を否定できませんでした。日本の考古学がまだ始まったばかりの時代の、正直な報告です。
なぜ、これしかわからないのか
この古墳について確かに言えることは、驚くほど少なくなっています。理由は三つあります。
第一に、江戸時代に後円部の頂が崩されていること。広場として使われていたとみられ、いちばん大事な部分が失われました。第二に、明治の調査の時点で既にその状態だったこと。第三に、都心の一等地であるため、その後の大規模な発掘が難しいことです。
資料が少ないのは、この古墳が小さいからでも、価値が低いからでもありません。東京という都市が、この古墳の上で育ったからです。同じことは佐紀盾列古墳群でも起きました。平城京の造営で、いくつもの巨大古墳が削られています。
東京の古墳を、どう並べるか
東京都内には、時代の違う古墳が点々と残っています。大田区の亀甲山古墳、世田谷区の野毛大塚古墳、府中市の武蔵府中熊野神社古墳などです。
亀甲山古墳は多摩川を見おろす台地の上に、野毛大塚古墳は帆立貝の形をした古墳として知られます。武蔵府中熊野神社古墳は、上が円く下が四角い形の、7世紀の古墳です。
この芝丸山古墳は、その中でもっとも都心に近い場所にあります。多摩川流域に古墳が集まる中で、なぜここに大型の前方後円墳が築かれたのか。それ自体が問いです。千葉県の内裏塚古墳や、埼玉県の埼玉古墳群と合わせて見ると、東京湾を囲む勢力の広がりが見えてきます。
芝丸山古墳から出土したもの
出土品の名は伝わっていますが、それがこの古墳のものだと確かめられていません。
後円部が削られていたうえ、まわりに小さな円墳がいくつもあったためです。国立国会図書館の資料には、芝丸山古墳群の第1号墳から出た遺物が明治大学博物館に所蔵されていることが記されています。この古墳そのものの副葬品は、公式には確認できませんでした。
埴輪
1898年の坪井正五郎の調査で見つかった。この古墳のものかは決めきれていない。
須恵器
同じ調査で出土。年代を考える手がかりとされるが、出どころに疑いが残る。
芝丸山古墳と関連する古墳
芝丸山古墳についてよくある質問
芝丸山古墳は誰の墓ですか。
まったくわかっていません。江戸時代に後円部の頂が崩されており、埋葬施設が確かめられていないためです。宮内庁の陵墓にも陵墓参考地にも入っていません。
芝丸山古墳はどこにありますか。
東京都港区の芝公園にあります。ただし住所を記した公式のページは確かめられなかったため、番地までは書いていません。標高約16メートルの台地の先端にあたります。
芝丸山古墳の大きさはどれくらいですか。
公式には確認できませんでした。現地の案内板と研究者の測った数字とで値が違うとも言われています。数字を確かめたい方は、坪井正五郎の報告に当たるのが確かです。
芝丸山古墳はいつ作られましたか。
5世紀の中ごろ過ぎとみる説が有力で、4世紀後半とする説もあります。年代を決める材料である埴輪や須恵器の出どころに疑いが残るため、幅があります。
芝丸山古墳の読み方を教えてください。
「しばまるやまこふん」と読みます。芝という地名に、丸山という形の見立てを重ねた名です。坪井正五郎が1898年に発表した論文の題も「芝丸山古墳に就て」でした。
芝丸山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
前が四角く後ろが円い、鍵穴の形の古墳。日本にしかない形。
須恵器(すえき)
窯で高い温度で焼いた、灰色で硬い土器。型式の変化から年代を推し量る。
円墳(えんぷん)
平面が円い古墳。数のうえではもっとも多く、この古墳のまわりにもあった。
都指定史跡(としていしせき)
東京都が歴史上重要と認めて指定した土地。国の史跡とは別の枠組み。
芝丸山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。