上野公園の中に残る、東京都心でただ一基の前方後円墳。
摺鉢山古墳とはどんな古墳か
東京都台東区の上野公園の中にある前方後円墳です。台東区は「上野公園内に比較的よく保存されています」とし、現存の全長約70メートル、後円部の直径約40メートルで、西に前方部を向けた前方後円墳としています。
墳丘は武蔵野台地の突端、上野の台地の上に築かれています。台東区は、埴輪の破片や須恵器が出土したことがあり、この古墳は約1500年前に築かれたものと推測されるとしています。
台東区は、古墳時代にはこの古墳を中心として東京国立博物館の構内にかけて古墳群を形成していたが、現在ではこの古墳が唯一残っているものだ、としています。
墳丘の上には、かつて社殿や堂が建っていました。そのぶん土が削られており、いまの姿はもとのままではありません。名は、伏せたすり鉢に似た形からきています。
摺鉢山古墳の読み方と別名
読みは「すりばちやまこふん」です。「摺鉢」はすり鉢のことで、墳丘の形が伏せたすり鉢に似て見えることからきた名です。
同じような名の付き方をした古墳は各地にあり、茶臼山・車塚・丸山なども、形やものの見立てから付いた呼び名です。大阪府の池田茶臼山古墳や奈良県の桜井茶臼山古墳が、抹茶を挽く茶臼を伏せたような形から名を得たのと同じ理屈になります。
ただし、すり鉢に見えるのは、上に建物が建って土が削られたあとの姿です。台東区も、この古墳を前方後円墳としています。もとの形と、いま呼ばれている名とが少しずれています。
摺鉢山古墳(すりばちやまこふん)
台東区が用いる名。墳丘の形が、すり鉢を伏せたように見えることからきている。
摺鉢山(すりばちやま)
古墳を指す土地の呼び名。上野の台地の上にある小高い場所として、古くから知られてきた。
上野忍岡遺跡群(うえのしのぶがおかいせきぐん)
台東区が同じ遺跡の一覧に並べている名。この一帯は古くからの遺跡が重なっている。
摺鉢山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
台東区の説明は、規模と、埴輪の破片や須恵器が出土したこと、そして約1500年前に築かれたものと推測されること、この三つにとどまります。被葬者について書かれた記載はありません。
これまで発掘調査が行われていないため、埋葬施設の構造もわかっていません。墳丘の上にはかつて社殿や堂が建っており、そのときに土が削られています。
わかっているのは、位置と大きさが語ることだけです。武蔵野台地の突端という、川と海を見渡せる場所に、七十メートルの前方後円墳を築ける力をもった人物がいた。その周りには小さな円墳がいくつも従っていた。この地域をまとめていた首長の墓とみて、大きく外れることはないでしょう。
断定できない:わかっていない
台東区の説明は規模・出土品・築造時期の推測にとどまり、被葬者にはふれていない。
摺鉢山古墳の大きさと形
台東区は、この古墳の規模を現存の全長約70メートル、後円部の直径約40メートルとし、西に前方部を向けた前方後円墳としています。
注意したいのは「現存の」という言葉です。いまの七十メートルは、削られたあとの数字です。建てるときにも、移すときにも土は動きます。もとの大きさは、この数字より大きかったと考えられます。
七十メートルという長さは、東京の古墳の中では大きい部類に入ります。大田区の亀甲山古墳や野毛大塚古墳と並ぶ規模です。もっとも、畿内の巨大古墳が二百メートルを超えることを思えば、桁が違います。地域をまとめた首長の墓の大きさが、そのあたりに落ち着くということです。
現存の全長:約70メートル
後円部の直径:約40メートル
築かれた時期:約1500年前と推測される(前方部は西向き)
摺鉢山古墳はいつ作られたか
摺鉢山古墳の場所と行き方(観光情報)
台東区は、古墳時代にはこの古墳を中心として東京国立博物館の構内にかけて古墳群が広がっていたとしています。いまは、その群のうちこの一基だけが残っています。
東京都内でまとまった規模の古墳を見られる場所は多くありません。大田区の亀甲山古墳と野毛大塚古墳、府中市の武蔵府中熊野神社古墳などが知られる程度です。
摺鉢山古墳
摺鉢山古墳の住所:上野公園内(台東区の記載。番地までの住所は確認できませんでした)
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:上野公園という開かれた場所の中にありますが、墳丘に登れるかどうかを記した公式の案内は確認できませんでした
台東区は、この古墳について「上野公園内に比較的よく保存されています」と書いています。番地までの住所や、行き方、開いている時間を記した公式ページは確認できませんでした。
台東区の遺跡の一覧には、上野広小路遺跡、池之端七軒町遺跡、上野忍岡遺跡群などが並び、その中にこの古墳が置かれています。上野の台地は、古墳時代より前から人が住み続けてきた場所でした。
摺鉢山古墳の発見と調査の歩み
古墳群が消え、一基だけが残った
台東区は「古墳時代にはこの古墳を中心に、東京国立博物館構内にかけて古墳群を形成していましたが、現在ではこの古墳が唯一残っているものです」と書いています。
この短い一文の中に、東京の古墳がたどった経過がそのまま入っています。上野の台地の上には、いくつもの円墳が摺鉢山を囲むように並んでいました。それが博物館の建設や公園の整備のなかで、一つずつ消えていきました。
残った理由は、はっきりしていません。削られながらも土そのものは動かされなかった。境内の土地として扱われたことが、結果として墳丘を守ったとも考えられます。壊されかけて市民運動で残った大阪府のいたすけ古墳とは、また違う残り方でした。
墳丘の上に建っていたもの
この古墳の墳丘は、平らではありません。上に建物が建っていたためです。
文明十九年(1487年)にはすでに社があったと伝えられ、江戸時代には堂が建てられ、のちに移されたともいわれます。建てるたび、移すたびに土は削られ、均されました。
古墳の上に社や堂が建つのは、この古墳に限った話ではありません。奈良県の室宮山古墳が「宮山」の名を得たのも同じ経過によります。高い場所に平らな土地があれば、人はそこに建てます。
削られたぶん、古墳としては傷んでいます。けれども、そうやって使われ続けたからこそ、宅地にも畑にもされずに残ったという面もあります。
掘られていない古墳
摺鉢山古墳では、これまで発掘調査が行われていません。
そのため、わかっていることは限られます。台東区が示すのは、規模と向き、埴輪の破片や須恵器が出土したこと、そして約1500年前と推測されることまでです。埋葬施設がどうなっているのか、副葬品があるのかどうかは、まったくわかっていません。
掘らないというのは、消極的な選択ではありません。掘れば、その部分は二度と元に戻りません。いまの技術で読み取れないものが、将来の技術で読み取れるかもしれない。そう考えて残しておく判断は、各地で採られています。
摺鉢山古墳から出土したもの
台東区が出土品として挙げているのは、埴輪の破片と須恵器の二つだけです。どちらも、掘って出たものではなく、地表で見つかったものです。
発掘調査は行われていません。この古墳から出た品をまとめて展示している場所も確認できませんでした。それでも、埴輪の破片が一つ落ちていれば、そこに埴輪が並んでいたことはわかります。
埴輪の破片
墳丘の表面から採集された。台東区は、これを築造時期を推測する手がかりとしている。
須恵器
窯で高温で焼いた灰色の土器。台東区が出土したものとして名を挙げている。
葺石
墳丘外表では認められていないとされる。上野の台地には葺くための石が乏しかった。
埋葬施設
発掘調査が行われていないため、構造も副葬品もわかっていない。
摺鉢山古墳と関連する古墳
摺鉢山古墳についてよくある質問
摺鉢山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。発掘調査が行われておらず、台東区の説明も規模と出土品、築造時期の推測にとどまります。宮内庁の陵墓としての治定も受けていません。
摺鉢山古墳はどこにありますか。
東京都台東区の上野公園の中です。台東区は「上野公園内に比較的よく保存されています」と記しています。番地までの住所や行き方を記した公式ページは確認できませんでした。
摺鉢山古墳の大きさはどれくらいですか。
台東区は、現存の全長約70メートル、後円部の直径約40メートルで、西に前方部を向けた前方後円墳としています。「現存の」とあるとおり、削られたあとの数字です。
摺鉢山古墳はいつ作られましたか。
台東区は、埴輪の破片や須恵器が出土したこともあり、約1500年前に築かれたものと推測されるとしています。古墳時代の後半にあたります。
摺鉢山古墳の墳丘に登れますか。
上野公園という開かれた場所の中にありますが、墳丘に登れるかどうかを記した公式の案内は確認できませんでした。料金や開いている時間についても、公式には確かめられませんでした。
摺鉢山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
武蔵野台地(むさしのだいち)
東京の西側に広がる台地。その東の突端が上野の台地にあたり、古墳が築かれた。
須恵器(すえき)
窯で高い温度で焼いた灰色の土器。型式の移り変わりが細かく、年代の物差しになる。
円筒埴輪(えんとうはにわ)
筒の形をした埴輪。墳丘の平らな面にぐるりと並べられ、古墳の区切りを示した。
前方部(ぜんぽうぶ)
前方後円墳の四角い側。摺鉢山古墳では西を向いている。
摺鉢山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。