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東京都

柴又八幡神社古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

柴又八幡神社古墳  / シバマタハチマンジンジャコフン

前方後円墳 6世紀7世紀

「寅さん埴輪」が出た、東京の低地に唯一石室が残る古墳。

柴又八幡神社古墳とはどんな古墳か

東京都葛飾区柴又にあった古墳です。江戸川の右岸の微高地に築かれた前方後円墳とされ、いまは墳丘がほぼ失われた埋没古墳になっています。古墳域の大部分は柴又八幡神社の境内にあたるといいます。

この古墳については、公式ページを1本も確かめることができませんでした。以下は下調べにもとづく記述で、公式に裏づけられたものではありません。

下調べによれば、石室は社殿の下に復元して保存されており、1990年度以降の境内の発掘調査で周溝や埴輪が確認されたとされます。石室が現存する古墳としては東京都内の低地部で唯一の例であり、人物埴輪・円筒埴輪がよい状態でまとまって出た古墳としても都内で唯一の例と位置づけられているといいます。

出土した埴輪は2011年(平成23年)に東京都指定有形文化財となり、復元石室は1976年(昭和51年)に葛飾区指定史跡となったと伝えられます。

柴又八幡神社古墳の読み方と別名

読みは「しばまたはちまんじんじゃこふん」です。ただし、この読みを記した公式のページは確かめられませんでした。

古墳の名は、その上に建つ社の名から来ています。神社が先にあり、あとから下に古墳があるとわかった、という順序です。下調べによれば、寛永10年(1633年)銘の棟札があり、それ以前に神社が創建されたとされます。石室の石組が世に知られたのは1938年のことでした。

もう一つの呼び名が「寅さん埴輪」です。2001年に出土した男性人物埴輪の頭部が、柴又を舞台にした映画の主人公になぞらえてそう呼ばれています。

柴又八幡神社古墳(しばまたはちまんじんじゃこふん)

現在ふつうに使われる名。古墳域の大部分が柴又八幡神社の境内にあることによる。

柴又八幡神社内古墳(しばまたはちまんじんじゃないこふん)

1953年に初めて学会に紹介されたときの呼び名と伝えられる。

寅さん埴輪(とらさんはにわ)

2001年に出土した男性人物埴輪の頭部の通称。映画の主人公になぞらえた呼び名。

柴又八幡神社古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

下調べによれば、1965年(昭和40年)の神社社殿の改築にともなう調査で、石室から人骨片・朱塊・鍔・刀子・轡・鉄鏃片が出土したと報告されているといいます。人骨片はいま神社境内の島俣塚に埋納されているとされます。

ただし、そこから人物を特定する手がかりは出ていません。下調べは、この古墳を千葉県市川市の法皇塚古墳の下位首長墓に位置づけています。つまり、より大きな古墳を持つ首長の下にいた人物の墓ということになります。

手がかりになるのは埴輪です。円筒埴輪も形象埴輪も、旧下総国一帯に分布する「下総型埴輪」と称される特徴を示すといいます。いまの東京都に含まれる土地でありながら、埴輪は下総の系統でした。江戸川をはさんだ東側との結びつきの強さがうかがえます。

柴又八幡神社古墳の大きさと形

この古墳の規模を記した公式のページは、確かめられませんでした。以下は下調べにもとづく数字です。

墳丘はほぼ失われていますが、境内の発掘調査で周溝が確認されており、おおよその墳形が推定されています。周溝は社殿の北・東・西側で確認され、東から北にかけて弧状にめぐるが北西方向にはさらに延びることから、社殿付近を後円部、北西方向を前方部とする前方後円墳と推定されるといいます。

見積もりでは、墳丘長30メートル程度、後円部の直径約15メートル、くびれ部の幅約8メートルとされます。帆立貝形古墳であれば25メートル程度になるともいいます。前方部の墳端は境外の道路にあたるため、明らかでありません。

石室のもとの規模も明らかでなく、一説に長さ4メートル・幅1メートル程度と推測されるにとどまります。

墳丘の規模:公式には確認できませんでした

石室の規模:公式には確認できませんでした

所在地:公式には確認できませんでした

築造年代:公式には確認できませんでした

柴又八幡神社古墳はいつ作られたか

築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。下調べによれば、古墳時代後期から終末期の6世紀末から7世紀初頭頃と推定されています。

手がかりになったのは、社殿の西側で見つかった土器のまとまりです。くびれ部の埴輪列の内側で須恵器・土師器が集中して出土しており、祭祀の跡と推測されています。

その土器には、6世紀末から7世紀初頭頃の一群と、7世紀前半頃の一群があるといいます。ここから、古墳を築いたときの祭りとは別に、築いてからしばらく経ってからも祭りが行われた様子が示唆されるとされます。追葬、つまりあとから別の人を葬ったことの反映ではないか、とも考えられています。

同じ7世紀前半には、多摩市の稲荷塚古墳が築かれています。

柴又八幡神社古墳の場所と行き方(観光情報)

出土品を見るなら、葛飾区郷土と天文の博物館で展示されていると伝えられます。ただし、これも公式のページでは確かめられませんでした。

東京都内の古墳としては、大田区の亀甲山古墳野毛大塚古墳、府中市の武蔵府中熊野神社古墳などが知られます。それらが台地の上にあるのに対し、柴又八幡神社古墳は江戸川沿いの低地にあります。低地部で石室が残るのは、都内でこの古墳だけとされます。

柴又八幡神社古墳

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柴又八幡神社古墳の住所:公式には確認できませんでした

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:下調べでは、石室は社殿の下に復元保存されているものの公開は制限されているとされます。墳丘はほぼ失われており、立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした

この古墳については、住所・行き方・料金のいずれも公式のページで確かめられませんでした。葛飾区の案内にも東京都の案内にも行き着けなかったためです。

下調べによれば、所在地は東京都葛飾区柴又で、古墳域の大部分が柴又八幡神社の境内にあたるとされます。石室は社殿の下に復元して保存されているといいますが、公開は制限されているとされます。訪ねる前に、葛飾区や神社に問い合わせるのが確かです。

柴又八幡神社古墳の発見と調査の歩み

  1. 渥美清の命日に出た埴輪
  2. 房総の石で組まれた室
  3. 公式の資料に行き着けないということ

渥美清の命日に出た埴輪

この古墳を全国に知らせたのは、一つの埴輪です。

下調べによれば、2001年8月4日、円筒埴輪や形象埴輪とともに男性人物埴輪の頭部が出土しました。鍔がまわる帽子をかぶり、首飾りと耳環がつき、顔には白い塗彩が施されているといいます。

この日は、映画『男はつらいよ』で車寅次郎を演じた俳優、渥美清の命日にあたっていました。柴又はその映画の舞台です。埴輪はその容姿から「寅さん埴輪」と呼ばれるようになりました。

もう一つ、偶然が重なっています。養老5年(721年)の「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」には「刀良(とら)」「佐久良(さくら)」という人物名が見えるといいます。埴輪と戸籍と映画が、同じ土地の名の上で重なりました。

房総の石で組まれた室

埋葬施設は横穴式石室で、いまは社殿の下に石材が復元保存されているとされます。

注目されるのは石の産地です。下調べによれば、1965年(昭和40年)の調査では三浦半島基部の凝灰質砂岩、いわゆる伊豆石と推定されていました。ところが近年の調査では、房総半島の火山砕屑岩類とされ、見方が改まっています。

磯石を用いた石室の古墳は、北区の赤羽台3・4号墳や千葉県市川市の法皇塚古墳でも知られ、関連性が指摘されています。

埴輪が下総型で、石が房総産。この古墳を作った人々の向きは、西ではなく東を向いていたことになります。江戸川という川が、いまの県境ではなく当時の道であったことを示す例です。

公式の資料に行き着けないということ

この記事では、この古墳について公式のページを1本も確かめることができませんでした。

この古墳は、石室が葛飾区の指定史跡、出土埴輪が東京都の指定有形文化財とされています。指定されている文化財である以上、区や都に案内があるはずですが、今回は行き着けませんでした。

ここに書いた数字も、年代も、石の産地も、すべて下調べにもとづくものです。公式に裏づけられたものではありません。

同じ東京都の稲荷塚古墳では、東京都文化財情報データベースが改修中で閲覧できないことが確かめられました。都内の古墳について公式の記述にたどり着きにくい状態が、いくつか重なっています。訪ねる前に、葛飾区へ直接問い合わせるのが確実です。

柴又八幡神社古墳から出土したもの

下調べによれば、東京都指定有形文化財としての指定名称は「柴又八幡神社古墳出土埴輪 224点(附 土器14点、金属製品21点)」で、2011年(平成23年)6月9日の指定とされます。所有者は葛飾区と柴又八幡神社といいます。

ただし、これらを記した公式のページは確かめられませんでした。人骨片は神社境内の島俣塚に埋納されているとされます。

寅さん埴輪

鍔のまわる帽子をかぶった男性人物埴輪の頭部。首飾りと耳環がつき、顔に白色塗彩が施される。

下総型埴輪

旧下総国一帯に分布する特徴を持つ埴輪。円筒埴輪も形象埴輪もこの系統とされる。

馬形埴輪

人物埴輪とともに墳丘上で確認された形象埴輪。

石室出土の副葬品

1965年の調査で人骨片・朱塊・鍔・刀子・轡・鉄鏃片が出土したと報告されている。

柴又八幡神社古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

柴又八幡神社古墳についてよくある質問

柴又八幡神社古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。下調べでは、千葉県市川市の法皇塚古墳の下位首長墓に位置づけられるとされます。宮内庁の陵墓ではありません。

柴又八幡神社古墳はどこにありますか。

公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは東京都葛飾区柴又にあり、古墳域の大部分が柴又八幡神社の境内にあたるとされます。

柴又八幡神社古墳の大きさはどれくらいですか。

公式の数字は確かめられませんでした。下調べでは墳丘長30メートル程度、後円部の直径約15メートルと見積もられています。

柴又八幡神社古墳はいつ作られましたか。

公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは6世紀末から7世紀初頭頃と推定されています。

柴又八幡神社古墳の石室を見られますか。

下調べでは、石室は社殿の下に復元保存されているものの公開は制限されているとされます。公式の記載は確認できませんでした。

柴又八幡神社古墳と併せて覚えたい言葉・用語

埋没古墳(まいぼつこふん)

墳丘が失われ、地表から見えなくなった古墳。発掘によって存在が確かめられる。

下総型埴輪(しもうさがたはにわ)

旧下総国一帯に分布する特徴を持つ埴輪。柴又八幡神社古墳の埴輪もこの系統とされる。

追葬(ついそう)

一度埋葬したあとで、同じ石室に別の人を葬ること。横穴式石室で行われる。

周溝(しゅうこう)

墳丘のまわりに掘られた溝。墳丘が失われても、この跡から墳形を推定できる。