田園調布と野毛にまたがる多摩川左岸の古墳群。亀甲山古墳と野毛大塚古墳を含む。
荏原台古墳群とはどんな古墳か
東京都大田区と世田谷区にまたがる古墳群です。大田区は、多摩川台公園の古墳展示室について「大田区から世田谷区にまたがる荏原(台)古墳群内のうち、大田区域の田園調布古墳群で出土した大刀や勾玉、埴輪などのレプリカを展示しています」と説明しています。
この群は、田園調布を中心とする田園調布古墳群と、野毛を中心とする野毛古墳群の総称です。武蔵国荏原郡に属していたことから荏原台と呼ばれ、群の名もそこから来ています。
すでにこの図鑑で取り上げた亀甲山古墳と野毛大塚古墳は、どちらもこの群に含まれます。つまり荏原台古墳群とは、この2基を含む多摩川左岸の古墳の連なりのことです。
大田区の古墳展示室では、4世紀から7世紀にかけての古墳を再現した展示が見られます。6世紀後半に造られた横穴式石室を持つ前方後円墳の後円部を、切り取った状態でかたどったものです。
荏原台古墳群の読み方と別名
読みは「えばらだいこふんぐん」です。「えはら」ではなく「えばら」と濁ります。
名の由来は、この一帯が武蔵国荏原郡に属していたことにあります。多摩川がつくった河岸段丘の上にあり、その台地が荏原台と呼ばれました。古墳の名ではなく、土地の名から付いた群の名です。
大田区の表記は「荏原(台)古墳群」で、括弧が入ります。荏原古墳群と書かれることもあります。この図鑑では、大田区と世田谷区にまたがる一群を指す名として使います。
荏原台古墳群(えばらだいこふんぐん)
田園調布古墳群と野毛古墳群をあわせた総称。大田区は「荏原(台)古墳群」と表記している。
田園調布古墳群(でんえんちょうふこふんぐん)
大田区側の一群。亀甲山古墳・宝莱山古墳・多摩川台古墳群などが含まれる。
野毛古墳群(のげこふんぐん)
世田谷区側の一群。野毛大塚古墳・御岳山古墳・狐塚古墳などが含まれる。
荏原台古墳群は誰の墓か
葬られた人が誰かは、わかっていません。この群には50基あまりの古墳があるとされ、そのそれぞれに別の人物が葬られています。
大田区の公式ページで確かめられるのは、古墳展示室が4世紀から7世紀にかけて造られた古墳を再現した展示であることと、田園調布古墳群から大刀や勾玉、埴輪が出土していることです。被葬者についての記載は、公式ページでは確認できませんでした。
下調べの範囲では、この群を無邪志国造の本宗の墳墓と見る説が挙げられています。ただし公式には確かめられませんでした。
この群の古墳は、宮内庁の陵墓でも陵墓参考地でもありません。亀甲山古墳は国の史跡、宝莱山古墳と御岳山古墳は東京都の史跡として扱われています。大王の墓が畿内にあった時代に、多摩川のほとりで代を重ねた一族がいたということまでは言えます。
断定できない:わかっていない
区が公表しているのは展示室と出土品の情報で、被葬者についての記載は無い。
荏原台古墳群の大きさと形
群の総数と個々の古墳の数値について、公式の記載は確認できませんでした。大田区が公表しているのは古墳展示室の情報です。
下調べでは、この群は50基あまりの古墳からなり、多摩川下流左岸の世田谷区上野毛周辺から大田区田園調布にかけて広がるとされます。標高30メートルから40メートルの河岸段丘の上です。
個々の古墳では、亀甲山古墳が全長107メートルで群最大の前方後円墳、宝莱山古墳が全長97メートル、野毛大塚古墳が全長86メートルの帆立貝形古墳とされます。この図鑑では亀甲山古墳と野毛大塚古墳を別の項として立てています。そちらでは自治体が公表する数値を載せています。
多摩川台古墳群の8基は直径18メートル前後、高さ2メートル前後の小さな古墳が中心と伝えられます。
古墳展示室の所在地:〒145-0071 大田区田園調布一丁目63番1号
古墳展示室が扱う時期:4世紀から7世紀
群の総数と個々の墳丘規模:公式には確認できませんでした
荏原台古墳群はいつ作られたか
大田区は、古墳展示室について「ほぼ4世紀から7世紀にかけて造られた古墳という巨大なお墓を再現した展示」と説明しています。この群が造られた期間が、およそ400年に及ぶということです。
下調べでは、4世紀前半に田園調布の宝莱山古墳が、後半に亀甲山古墳が造られ、5世紀に入ると野毛地域に野毛大塚古墳が築かれたとされます。この時期、田園調布側では古墳が造られなくなります。5世紀末になると再び田園調布側に戻り、6世紀から7世紀にかけて多摩川台古墳群の8基などが造られたといいます。
造られる場所が、川筋を行ったり来たりしています。7世紀の中頃を過ぎると古墳は造られなくなり、代わって斜面に横穴墓が群れて掘られるようになったと伝えられます。
荏原台古墳群の場所と行き方(観光情報)
多摩川台公園には、群の中で最大の亀甲山古墳と、この地域で最も古い宝莱山古墳、そしてその間に並ぶ多摩川台古墳群の8基があります。1号墳から7号墳までは1列に連なり、両側に歩道が通っていると伝えられます。
多摩川をはさんだ対岸には、狛江古墳群があります。同じ川筋の、向かい合う古墳群です。
多摩川台公園古墳展示室
多摩川台公園古墳展示室の住所:〒145-0071 大田区田園調布一丁目63番1号
交通:東急多摩川線「多摩川駅」下車徒歩5分と大田区が案内しています
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:無料
内部見学:展示室は多摩川台公園の中にあります。公園内の古墳の墳丘に立ち入れるかどうかについての公式の記載は確認できませんでした
大田区が公表する所在地は大田区田園調布一丁目63番1号、開館時間は午前9時から午後4時30分まで(入室は午後4時まで)、入場は無料です。
展示室は、6世紀後半に造られた横穴式石室を持つ前方後円墳の後円部の一部を切り取った状態をかたどっています。公園に保存されている実物の古墳と見くらべながら見ることができます。
荏原台古墳群の発見と調査の歩み
川筋を行き来した古墳
この群のおもしろさは、古墳が造られる場所が時期によって移り変わることです。
下調べによれば、4世紀にはまず田園調布側で宝莱山古墳と亀甲山古墳が造られました。ところが5世紀に入ると、田園調布側では古墳が造られなくなり、代わって野毛側に野毛大塚古墳が築かれます。そして5世紀末、また田園調布側に戻って浅間神社古墳が造られました。
同じ川筋の中で、勢力の中心が移動しているように見えます。もっとも、なぜそうなったのかはわかっていません。一族の中で主導権が移ったのか、別の集団が入れ替わったのか、確かめる手立てがありません。大田区の展示室では、この群全体の分布地図が示されています。
古墳が公園になった
多摩川台公園には、亀甲山古墳・宝莱山古墳・多摩川台古墳群の8基が残っています。古墳がそのまま公園の骨組みになっている場所です。
大田区の古墳展示室は、この公園の管理事務所に併設されています。区によれば、室内は4世紀から7世紀にかけて造られた古墳を再現した展示で、6世紀後半の横穴式石室を持つ前方後円墳の後円部を切り取った状態をかたどっているといいます。開館時間は午前9時から午後4時30分まで、入場は無料です。
実物の古墳を歩いたあとに、その中身を見る。そういう順で回れる場所は多くありません。狛江古墳群の猪方小川塚古墳公園でも、覆屋のガラス越しに実物の石室が見られます。多摩川の両岸で、見せ方の工夫が続いています。
荏原台古墳群から出土したもの
大田区は、古墳展示室に「大田区域の田園調布古墳群で出土した大刀や勾玉、埴輪などのレプリカを展示しています」と記しています。展示されているのは複製で、実物ではありません。
この群でとくに知られる出土品は、世田谷区側の野毛大塚古墳から出たものです。そちらはこの図鑑で別の項として立てています。荏原台古墳群としてまとまった出土品の一覧は、公式には確認できませんでした。
大刀
大田区の古墳展示室に、田園調布古墳群から出土したもののレプリカが展示されている。
勾玉
同じく展示室にレプリカがある。曲がった形の玉で、首飾りなどに使われた。
埴輪
展示室にレプリカがある。観音塚古墳では1817年に人物埴輪が見つかったとも伝えられる。
荏原台古墳群と関連する古墳
荏原台古墳群についてよくある質問
荏原台古墳群は誰の墓ですか。
わかっていません。無邪志国造の一族と見る説がありますが、公式には確認できませんでした。この群の古墳は宮内庁の陵墓ではなく、亀甲山古墳は国の史跡として扱われています。
荏原台古墳群はどこにありますか。
東京都大田区の田園調布から世田谷区の野毛・上野毛にかけて広がります。多摩川台公園古墳展示室の所在地は、大田区が公表する「大田区田園調布一丁目63番1号」です。
荏原台古墳群にはいくつの古墳がありますか。
公式には確認できませんでした。下調べでは50基あまりからなるとされ、田園調布古墳群と野毛古墳群に分けられます。
荏原台古墳群はいつ作られましたか。
大田区は古墳展示室が扱う時期を「ほぼ4世紀から7世紀にかけて」としています。4世紀の宝莱山古墳に始まり、7世紀中頃までに古墳の築造は終わったと考えられています。
荏原台古墳群の古墳に入れますか。
多摩川台公園古墳展示室では、古墳の内部を再現した展示を無料で見られます。開館は午前9時から午後4時30分まで、入室は午後4時までです。墳丘への立ち入りについての公式の記載は確認できませんでした。
荏原台古墳群と併せて覚えたい言葉・用語
河岸段丘(かがんだんきゅう)
川が土地を削ってできた階段状の地形。その平らな面の縁は、古墳の造られやすい場所になる。
横穴墓(よこあなぼ)
斜面を横から掘り抜いて造る墓。古墳時代の終わりごろに各地で群れて掘られた。
帆立貝形古墳(ほたてがいがたこふん)
円い墳丘に短い前方部が付く形。野毛大塚古墳がこの形にあたる。
国造(くにのみやつこ)
ヤマト王権が地方を治めさせた首長の呼び名。古墳の被葬者を推す際によく持ち出される。
荏原台古墳群の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。