本文へ移動

兵庫県

西求女塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

西求女塚古墳  / ニシモトメヅカコフン

前方後方墳 3世紀

3世紀の大型前方後方墳。銅鏡12面が出て、地震で石室が崩れた。

西求女塚古墳とはどんな古墳か

兵庫県神戸市灘区都通にある前方後方墳です。文化庁は、この古墳を「六甲山系と大阪湾に挟まれた標高6から8mの扇状地上に立地する、古墳時代前期初頭の大型前方後方墳」とし、規模を全長98m、後方部長52m、前方部長46m、後方部幅50m、くびれ部幅25m、高さは最大9mとしています。

この古墳は二度、人の目に触れました。一度目は慶長元年(1596年)の慶長伏見大地震です。文化庁は、地震による地滑りで墳丘や竪穴式石室が被害を受け、石室は全体の三分の一が崩れていたとしています。

二度目は、神戸市教育委員会が昭和60年度から始めた発掘調査です。主室から三角縁神獣鏡7面を含む青銅鏡12面が見つかりました。2005年(平成17年)3月2日に国の史跡となっています。

西求女塚古墳の読み方と別名

読みは「にしもとめづかこふん」です。「もとめづか」は、女性を求めるという意の名で、この一帯に伝わる悲恋の言い伝えに由来します。

近くには処女塚古墳と東求女塚古墳があり、三基が海岸線に沿って一直線に、ほぼ等間隔で並びます。真ん中の処女塚に葬られた女性を、東西の二人の男が求めた。その二人の墓が東西の求女塚だという話です。文化庁も「『万葉集』などでは悲恋伝説の舞台として語り継がれてきた」と記しています。

もちろん、これは後の世に生まれた見立てです。三基が並ぶという事実に、人が物語を当てはめました。

西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)

文化庁が用いる名。ふりがなも「にしもとめづかこふん」と記されている。

兵庫県西求女塚古墳出土品(ひょうごけんにしもとめづかこふんしゅつどひん)

重要文化財の指定名称。所有者名は神戸市、保管施設は神戸市埋蔵文化財センター。

求女塚西公園(もとめづかにしこうえん)

古墳が公園として整備されたときの名。文化庁も公園として整備されていると記す。

西求女塚古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

ただし文化庁は、被葬者の性格について踏み込んで書いています。「現在、海岸線までの距離は400mであるが、古墳築造当時は100m程度であったと見られ、被葬者は海上交通に関わっていたものと推測される」と。

もう一つの手がかりが土器です。文化庁は「後方部の墳頂部を中心に出土した土器に、山陰地域特有の鼓形器台や複合口縁壺などが目立つ点も注目される」とし、山陰系土器の出土は、墳形が前方後方墳であることとともに被葬者の性格を考える際に重要な視点を提示した、としています。

前方後方墳は、周辺で独自の力をもった勢力の墓に多いとされます。大阪湾と瀬戸内海をつなぐ場所で、山陰とも行き来していた海の首長。そこまでが言えることです。

学術的な見方のひとつ。文化庁が「推測される」と記す:海上交通に関わっていた人物

築造当時は海岸線までおよそ100メートルだったとみられることを根拠に挙げている。

断定できない:わかっていない

解説文は構造と出土品を詳しく記すが、被葬者を特定する記載は無い。宮内庁の治定も無い。

西求女塚古墳の大きさと形

文化庁は、この古墳の規模を全長98m、後方部長52m、前方部長46m、後方部幅50m、くびれ部幅25m、高さは最大9mとし、主軸は東西方向としています。

前方部には二段以上の段築があり、葺石は基底部付近でわずかに検出されたとしています。前方後方墳としては大型の部類で、古墳時代前期初頭のものとしては全国でも指折りの大きさです。

埋葬施設については、後方部で主軸と直交する南北方向に竪穴式石室が一基。大きな一枚の板石によって仕切られ、遺骸の埋葬された北側の主室と、副葬品だけが納められた副室からなることが判明したとしています。石室の石材には、ベンガラの上に水銀朱が塗布されていたことも明らかになったといいます。

全長:98m

後方部長・後方部幅:52m・50m

前方部長・くびれ部幅:46m・25m

高さ:最大9m

築造当時の海岸線までの距離:100m程度(現在は400m)

西求女塚古墳はいつ作られたか

文化庁は「古墳の築造時期は、三角縁神獣鏡の組み合わせや土器の内容などから、古墳時代前期初頭に位置付けられる」としています。

古墳時代前期初頭というのは、おおよそ3世紀にあたります。奈良県の箸墓古墳ホケノ山古墳、千葉県の神門古墳群と、そう離れない時期です。古墳という形が生まれ、各地に広がりはじめたころにあたります。

文化庁は続けて、この時期の様子を描いています。「この時期、大陸と近畿地方を結ぶ重要な交通ルート上に当たる瀬戸内海沿岸から淀川流域にかけては、前方後円墳や前方後方墳が点々と築かれた。西求女塚古墳はその一つ」だと。

海の道に沿って、古墳が点々と現れた。その一つがこの古墳です。福岡県の石塚山古墳も、同じころ九州の東の玄関口に築かれています。

西求女塚古墳の場所と行き方(観光情報)

文化庁は、この古墳を六甲山系と大阪湾に挟まれた標高6から8メートルの扇状地上に立地するとしています。築造当時、海岸線までは100メートル程度だったとみられています。

近くには処女塚古墳と東求女塚古墳があり、三基が海岸線に沿って一直線に並びます。兵庫県では、明石市の五色塚古墳も海を望む位置に築かれています。

西求女塚古墳(求女塚西公園)

地図で開く

西求女塚古墳(求女塚西公園)の住所:神戸市灘区都通三丁目(文化庁が重要文化財の解説文で記す所在地)

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:文化庁は「現在では、市街地の中にある公園として整備されており、市民の憩いの場として利用されている」としています。ただし墳丘そのものに立ち入れるかどうかを記した公式の案内は確認できませんでした

文化庁は、重要文化財「兵庫県西求女塚古墳出土品」の解説文で、この古墳を神戸市灘区都通三丁目に所在すると記しています。史跡の欄では、所在地(市区町村)を神戸市としています。行き方、駐車場、料金を記した公式ページは確認できませんでした。

出土品の所有者名は神戸市、保管施設の名称は神戸市埋蔵文化財センターと記されています。

西求女塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 地震で崩れた石室
  2. 主室と副室に分かれた石室
  3. 十二面の鏡と、山陰の土器

地震で崩れた石室

この古墳は、一度大きく壊れています。

文化庁は「慶長元年(1596)に発生した慶長伏見大地震により、墳丘や埋葬施設である竪穴式石室が地滑りや崩落の被害を受けている」としています。石室は全体の三分の一が崩れ、旧状をとどめていなかったといいます。

四百年前の地震の跡が、そのまま古墳の中に残っていたことになります。調査そのものも、地震に見舞われました。文化庁は「途中、平成7年1月に発生した阪神淡路大震災等により中断した時期はあったが、調査は平成14年度に終了した」と記しています。四百年前の地震で壊れた古墳の調査が、新しい地震で中断する。この古墳は、二度の地震を記録に留めています。

主室と副室に分かれた石室

崩れていたにもかかわらず、この古墳の石室の造りははっきりわかりました。

文化庁は、後方部に主軸と直交する南北方向の竪穴式石室が一基あり、「南小口から75cmのところで大きな1枚の板石により仕切られ、遺骸の埋葬された北側の主室と副葬品だけが納められた副室からなっている」としています。

人を納める部屋と、品を納める部屋を分ける。これは、大阪府の百舌鳥大塚山古墳が八基の粘土槨のうち一部だけに人を葬っていたのと、考え方の上では同じです。

もう一つ、文化庁は「石室に使用された石材にはベンガラの上に水銀朱が塗布されていた」と記しています。二重に赤く塗られた石室に、遺骸が納められていました。

十二面の鏡と、山陰の土器

文化庁は、副葬品の内訳を細かく記しています。主室から三角縁神獣鏡7面を含む青銅鏡12面、鉄槍2点、短剣4点。副室から鉄鏃56点、短剣を含む鉄剣26点以上、板状鉄斧3点、袋状鉄斧7点以上、ヤリガンナ8点以上、紡錘車形石製品1点など。

三角縁神獣鏡は、京都府の椿井大塚山古墳や福岡県の石塚山古墳などの出土鏡と同じ鋳型のものを含むとされます。鏡の配られ方から、遠く離れた首長どうしのつながりが読み取られてきました。

さらに文化庁は、出土した土器に山陰地域特有の鼓形器台などが目立つ点も注目される、としています。畿内とつながり、山陰ともつながる。海の道の上に立つ古墳らしい内容です。

西求女塚古墳から出土したもの

文化庁は、重要文化財「兵庫県西求女塚古墳出土品」の内訳を、銅鏡一二面、鉄製品二三〇点、碧玉紡錘車形石製品一点、附として織物残欠二点、土師器残欠一七九点、竪穴式石室石材五四点としています。

所有者名は神戸市、保管施設の名称は神戸市埋蔵文化財センターです。文化庁は「副葬品は三角縁神獣鏡をはじめ豊富で、出現期古墳の副葬品組成を知る貴重な例である」と評しています。

青銅鏡12面

三角縁神獣鏡7面を含む。主室から出土し、重要文化財に指定されている。

鉄製品230点

鉄鏃・鉄剣・鉄刀・鉄斧・ヤリガンナ・鉄鑿・ヤスなど。副室に納められていた。

碧玉紡錘車形石製品

1点。糸をつむぐ道具をかたどった石の品で、実用ではないとみられる。

山陰系の土器

鼓形器台や複合口縁壺など。後方部の墳頂部を中心に出土している。

西求女塚古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

西求女塚古墳についてよくある質問

西求女塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。文化庁は「被葬者は海上交通に関わっていたものと推測される」としていますが、名を示すものは出ていません。宮内庁の治定も受けていません。

西求女塚古墳はどこにありますか。

文化庁は重要文化財の解説文で、神戸市灘区都通三丁目に所在すると記しています。現在は求女塚西公園として整備されています。行き方は公式に確認できませんでした。

西求女塚古墳の大きさはどれくらいですか。

文化庁は全長98m、後方部長52m、前方部長46m、後方部幅50m、くびれ部幅25m、高さは最大9mとしています。

西求女塚古墳はいつ作られましたか。

文化庁は、三角縁神獣鏡の組み合わせや土器の内容などから古墳時代前期初頭に位置付けられるとしています。おおよそ3世紀にあたります。

西求女塚古墳の出土品はどこで見られますか。

文化庁は、重要文化財の所有者名を神戸市、保管施設の名称を神戸市埋蔵文化財センターと記しています。展示の詳細は公式に確認できませんでした。

西求女塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

後ろが四角い形の古墳。周辺で独自の力をもった勢力の墓に多いとされる。

ベンガラ(べんがら)

酸化鉄からつくる赤い顔料。石室の石材や棺に塗られることがある。

水銀朱(すいぎんしゅ)

硫化水銀からつくる鮮やかな赤い顔料。ベンガラより貴重とされる。

鼓形器台(つづみがたきだい)

鼓の形をした土器の台。山陰地域に特有で、地域を見分ける手がかりになる。

西求女塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁
  2. 文化庁