土砂採取で削られ、調査ののちに消えた百舌鳥古墳群の大型前方後円墳。
百舌鳥大塚山古墳とはどんな古墳か
大阪府堺市西区にあった前方後円墳です。いまは墳丘が残っていません。戦後の土砂採取で大半が削られ、発掘調査を最後に姿を消しました。現在は宅地となり、街路の区画にわずかな名残をとどめるだけだといわれます。
ニサンザイ古墳の南に築かれた大型の前方後円墳で、前方部を西に向けていたとされます。墳丘は三段に築かれ、葺石と埴輪列がめぐり、北側のくびれ部には造出しがあったといわれます。
削られていく過程で、後円部と前方部に合わせて八基の粘土槨があることがわかりました。人を葬った跡が認められたのはそのうち一部で、残りは副葬品だけを納めた施設とみられています。大型前方後円墳の埋葬施設の全体像がわかった、数少ない例です。
この古墳については、公式ページを1本も確かめられませんでした。以下の記述は下調べにもとづくもので、数字や住所は公式に確認できていません。
百舌鳥大塚山古墳の読み方と別名
読みは「もずおおつかやまこふん」です。「大塚山」という名の古墳は各地にあり、大阪府内だけでも河内大塚山古墳、奈良県には川合大塚山古墳があります。どれも「大きな塚」という、見たままの呼び名です。
そのため、区別するには地名を冠する必要があります。百舌鳥大塚山古墳、堺大塚山古墳という呼び方は、そのために生まれました。
ややこしいのは、この古墳がすでに存在しないことです。墳丘が無く、案内板も無い場所について、名だけが資料に残っています。堺市の全国の古墳大きさランキングにも、この古墳は載っていません。消えた古墳は、数字の並ぶ表からも外れます。名を知っていなければ、たどり着けない古墳です。
百舌鳥大塚山古墳(もずおおつかやまこふん)
百舌鳥古墳群にあった大塚山古墳という意味。同名の古墳と区別するために群名を冠する。
大塚山古墳(おおつかやまこふん)
土地での呼び名。大きな塚という、そのままの意味の名にあたる。
堺大塚山古墳(さかいおおつかやまこふん)
市名を冠した呼び方。事典類ではこの形で立項されることがある。
百舌鳥大塚山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
この古墳は宮内庁の陵墓ではありませんでした。そのため掘ることができ、いま知られていることのほとんどは、削られていく過程での調査によって得られたものです。
八基の粘土槨のうち、人を葬った跡が認められたのは一号槨と七号槨のみで、そのほかは副葬品だけが納められていたとされます。ただし二号槨がもっとも深く、最初に埋められた可能性があり、東側にかぶせた鉄の枠の盾の下に遺体が納められていた可能性も指摘されています。
出土した品は、この古墳の被葬者がどういう人物だったかを、いくらか語ります。甲冑が七組、刀剣が二百以上、鉄鏃が千五百以上とされ、武器と武具に大きく偏っています。とりわけ襟の付いた短甲は全国的にも珍しく、青銅製の三尾金具が付く衝角付冑は国内で唯一とされます。武人としての性格が強い人物であったと考えられていますが、名はわかりません。
百舌鳥大塚山古墳の大きさと形
この古墳の規模を記した公式ページは、1本も確かめられませんでした。以下は下調べにもとづく数字で、公式に確認できたものではありません。
墳丘長はおよそ168メートル、後円部の直径がおよそ96メートル、高さがおよそ14メートル、前方部の幅がおよそ113メートル、高さがおよそ12メートルとされます。墳丘の周囲には幅およそ24メートルの周濠がめぐっていたといわれます。
この規模は、百舌鳥古墳群では五番目にあたるとされます。堺市の全国の古墳大きさランキングには載っていませんが、もし残っていれば、いたすけ古墳(約146メートル)や御廟山古墳(203メートル)と肩を並べる位置にあったことになります。
削られる前の墳丘は、三段に築かれ、葺石と埴輪列がめぐっていたとされます。北側のくびれ部には造出しがありました。
百舌鳥大塚山古墳はいつ作られたか
築造年代を記した公式ページを、1本も確かめられませんでした。
下調べによれば、築造は古墳時代中期の初め、4世紀末から5世紀初めごろと推定されています。百舌鳥古墳群の中では、早い段階の古墳という位置づけです。
百舌鳥古墳群では、この古墳のあとに大仙陵古墳や上石津ミサンザイ古墳といった巨大古墳が築かれ、いたすけ古墳や御廟山古墳が続き、ニサンザイ古墳で締めくくられます。つまり、この古墳は群の始まりのあたりに置かれることになります。
群がいちばん盛んに造られる直前の姿を伝える古墳が、いちばん早く失われた。百舌鳥古墳群を考えるうえで、この古墳の記録が重い意味をもつのはそのためです。
百舌鳥大塚山古墳の場所と行き方(観光情報)
百舌鳥古墳群には、大仙陵古墳・上石津ミサンザイ古墳・ニサンザイ古墳・御廟山古墳・いたすけ古墳などが残っています。この古墳は、その並びから抜け落ちた一基です。
出土した品は堺市博物館に収められているといわれます。墳丘が無い以上、この古墳に会おうとすれば、館に行くほかありません。
百舌鳥大塚山古墳
百舌鳥大塚山古墳の住所:公式には確認できませんでした
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:墳丘そのものが失われており、立ち入る墳丘が残っていません。現在は宅地となり、街路の区画に名残をとどめるだけだといわれます
この古墳については、住所も行き方も料金も、公式ページで確かめられませんでした。
下調べによれば、大阪府堺市西区上野芝町にあったとされます。ただし、これを裏づける公式ページを確かめられなかったため、住所として書くことはできません。
そもそも、訪ねるべき墳丘がありません。宅地の中の街路が、かつての墳丘の輪郭をなぞっているといわれます。地図の上で街路の曲がり方を追うことが、この古墳を訪ねるということになります。
百舌鳥大塚山古墳の発見と調査の歩み
削られながら、調べられた
この古墳が失われていく過程は、記録に残っています。
昭和25年から27年にかけて、土砂採取のために墳丘の大半が削られました。その最中の昭和25年、採土工事の途中で応急の調査が行われ、副葬品が確認されます。調査にあたったのは、森浩一ら学生の有志だったとされます。工事を止められないまま、掘り出される品を記録していったことになります。
そして昭和60年、前方部の北西の隅について発掘調査が行われ、その調査を最後に古墳は消えました。報告書は昭和64年にあたる年に堺市教育委員会から刊行されています。
同じ百舌鳥古墳群のいたすけ古墳は、ほぼ同じ時期に破壊の危機にあいながら、市民運動によって残りました。分かれ目は、紙一重でした。
八基の粘土槨
この古墳の記録がとくに重んじられるのは、埋葬施設の全体像がわかったからです。
後円部の中央に四基、前方部の中央からくびれ部にかけて四基、合わせて八基の粘土槨が確認されました。いずれも墳丘の主軸と平行に置かれていたとされます。粘土槨とは、木の棺を粘土で包んで埋めたもののことです。
人を葬った跡が認められたのは、そのうち二基だけでした。残る六基は、副葬品だけを納めた施設とみられています。
大型の前方後円墳は、宮内庁の陵墓になっているものが多く、中を掘ることができません。掘れる大型墳は限られており、しかも部分的な調査に終わることがほとんどです。八基すべての位置と中身がわかった例は、そう多くありません。失われた古墳が、いまも参照され続ける理由がここにあります。
国内で唯一の冑
出土品の内容も、この古墳を特別なものにしています。
八基の粘土槨からは、鏡が五面、玉類、櫛、刀剣が二百以上、鉄鏃が千五百以上、甲冑が七組、手斧が三十二とされる量で見つかりました。とりわけ、青銅製の三尾金具が付く衝角付冑は国内で唯一とされます。
襟の付いた短甲も全国的に珍しいものです。手斧については、国内での総出土数のおよそ六割にあたるとされ、この一基に集中しています。
武器と武具に偏った副葬品は、5世紀の古墳によく見られます。堺市のいたすけ古墳から出た冑形の埴輪や、埼玉県の稲荷山古墳の副葬品と同じ流れの中にあります。ただし、これらの数字はいずれも下調べにもとづくもので、公式ページで確かめられたものではありません。
百舌鳥大塚山古墳から出土したもの
出土品は、刀剣が二百以上、鉄鏃が千五百以上、甲冑が七組と、量でも内容でも群を抜いています。ただし、これらの数字はいずれも下調べにもとづくもので、公式ページで確かめられたものではありません。
品は堺市博物館に収められ、展示されているといわれます。墳丘が失われたいま、この古墳に残されたのは出土品と報告書だけです。
衝角付冑
青銅製の三尾金具が付くもの。国内で唯一の例とされる。前が尖った形の冑。
襟付短甲
襟の付いた鉄製の胴よろい。全国的にも珍しい形とされる。
手斧
木を削る道具。国内での総出土数のおよそ六割にあたる量が出たとされる。
鉄鏡を含む鏡
五面が出たとされる。うち鉄鏡の象嵌文様が近年あらためて調べられている。
百舌鳥大塚山古墳と関連する古墳
百舌鳥大塚山古墳についてよくある質問
百舌鳥大塚山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の陵墓としての治定も受けていませんでした。武器と武具に偏った副葬品から、武人としての性格が強い人物と考えられていますが、名はわかりません。
百舌鳥大塚山古墳はどこにありますか。
墳丘はすでに失われています。下調べでは大阪府堺市西区上野芝町にあったとされますが、これを裏づける公式ページは確かめられませんでした。
百舌鳥大塚山古墳の大きさはどれくらいでしたか。
規模を記した公式ページは確かめられませんでした。下調べでは墳丘長およそ168メートル、百舌鳥古墳群では五番目の規模だったとされます。
百舌鳥大塚山古墳はいつ作られましたか。
築造年代を記した公式ページは確かめられませんでした。下調べでは古墳時代中期の初め、4世紀末から5世紀初めごろと推定されています。
百舌鳥大塚山古墳はなぜ無くなったのですか。
戦後の土砂採取で墳丘の大半が削られ、その後の発掘調査を最後に姿を消しました。同じころ破壊の危機にあったいたすけ古墳は、市民運動によって残されています。
百舌鳥大塚山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
粘土槨(ねんどかく)
木の棺を粘土で包んで埋めた埋葬施設。石室より簡素で、古墳時代中期に多い。
衝角付冑(しょうかくつきかぶと)
前が尖った形の冑。5世紀の武人が用いた鉄製の冑で、埴輪にもかたどられる。
短甲(たんこう)
鉄板をとじ合わせた胴よろい。5世紀の古墳から数多く出土する。
造出し(つくりだし)
前方部と後円部のくびれのあたりに張り出した壇。まつりの場と考えられている。