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兵庫県

処女塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

処女塚古墳  / オトメヅカコフン

前方後方墳 3世紀

万葉集の悲恋の伝説が結びついた、神戸市東灘区の前方後方墳。

処女塚古墳とはどんな古墳か

兵庫県神戸市東灘区にある古墳です。文化庁は所在地を神戸市東灘区御影塚町とし、大正11年3月8日に国の史跡へ指定したとしています。指定は100年を超えて続いています。

文化庁の解説文は墳形を「前方後圓型ニシテ南面ス」と記しますが、現在は前方後方墳、つまり前も後ろも四角い形の古墳と考えられています。古い時期の古墳に多い形で、天理市の西山古墳や犬山市の東之宮古墳が同じ仲間です。

この古墳が広く知られてきたのは、大きさではなく言い伝えによってです。西と東にある求女塚の古墳とあわせて、二人の男に求められて命を絶った菟原処女の物語の舞台とされ、万葉集や大和物語に歌われました。

処女塚古墳の読み方と別名

読みは「おとめづかこふん」です。「しょじょづか」ではありません。文化庁のデータベースにも「おとめづかこふん」とふりがなが振られています。

名の由来は、菟原処女という女性の言い伝えです。二人の男に求められ、どちらも選べずに命を絶ったという物語で、万葉集や大和物語に歌われました。

西へおよそ2000メートルの位置に西求女塚古墳、東へおよそ1500メートルの位置に東求女塚古墳があります。「処女」をはさんで、二つの「求女」が並ぶ配置です。古墳の名が、物語の登場人物の配置になっています。もちろん、古墳が先にあって、物語が後から結びついたものです。

処女塚古墳(おとめづかこふん)

文化庁の国指定文化財等データベースが記すふりがなも「おとめづかこふん」で、これが正式な読み。

菟原処女(うないおとめ)

言い伝えに登場する女性の名。この古墳の名の由来とされ、万葉集にも歌われる。

求女塚(もとめづか)

西と東にある二つの古墳の名。処女塚をはさむ位置にあり、三基で一つの物語をなす。

処女塚古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、まったくわかっていません

文化庁の解説文は、墳丘の形と、後世に削られたり祠が建てられたりした様子を記すだけで、被葬者にはふれていません。宮内庁の陵墓にも陵墓参考地にも入っておらず、国の史跡として扱われています。

言い伝えでは、二人の男に求められて命を絶った菟原処女の墓とされます。しかし、これはあくまで物語です。万葉集に歌われた時点で、既にこの古墳は誰の墓かわからなくなっていたことになります。

出土しているのは主に山陰系の土器で、この一帯にあった郡家遺跡という集落の一部とされています。前方後方墳という形は、初期の古墳に多く、大和では前方後円墳と混じって造られました。この地の首長の墓という以上のことは言えません。

断定できない:わかっていない

解説文は墳丘の形と後世の改変を記すのみで、被葬者にはまったくふれていない。

土地に残る言い伝え:菟原処女

古墳の名の由来である言い伝え。文化庁の記載にはこの人物の名は出てこない。

宮内庁の治定は無い:治定はされていない

陵墓ではなく史跡として指定されている。指定年月日は1922年3月8日。

処女塚古墳の大きさと形

文化庁の解説文は、大正時代の指定のときの文章がそのまま残っており、独特の言い回しです。

前方後圓型ニシテ南面ス前後ノ直徑約三十三間

「三十三間」という、尺貫法の単位で書かれています。メートルに直した数字を公式のページで確かめることはできませんでした。

注意が要るのは、文化庁が墳形を「前方後圓型」としている点です。現在は前方後方墳と考えられています。大正時代には、前も後ろも四角い前方後方墳という形が、まだ十分に区別されていませんでした。解説文はさらに、後円の背の部分は中段から下を削って道にし、前方の右の角も中段から下を平らにして祠を建てている、と記しています。

文化庁の解説文が記す長さ:前後ノ直徑約三十三間

文化庁の解説文が記す墳形:前方後圓型ニシテ南面ス

所在地:神戸市東灘区御影塚町

国の史跡に指定された日:1922.03.08(大正11.03.08)

処女塚古墳はいつ作られたか

築造は、3世紀の後半と推定されています。古墳が造られはじめた、いちばん早い時期にあたります。

手がかりは出土した土器です。主に山陰系の土器が出ており、この一帯にあった郡家遺跡という集落の一部とされています。山陰の土器がここにあるということは、日本海側との行き来があったことを示します。

同じころ、奈良県では箸墓古墳西殿塚古墳が築かれています。前方後方墳という形は、この時期に前方後円墳と並んで造られたもので、天理市の西山古墳、犬山市の東之宮古墳、静岡県の高尾山古墳などが知られます。兵庫県では、少し後の時期に五色塚古墳が築かれます。

処女塚古墳の場所と行き方(観光情報)

西へおよそ2000メートルに西求女塚古墳、東へおよそ1500メートルに東求女塚古墳があります。三基を歩いてつなぐと、言い伝えの舞台をたどることになります。

兵庫県には、明石市の五色塚古墳もあります。あちらは葺石が復元されており、古墳が造られた当時の姿を確かめられる数少ない古墳です。

処女塚古墳

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処女塚古墳の住所:神戸市東灘区御影塚町

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡です。墳丘に立ち入れるかどうかについて、公式ページでの記載は確認できませんでした。文化庁の解説文によれば、墳丘の一部は道として削られ、前方部の角には祠が建てられています。

文化庁が記す所在地は神戸市東灘区御影塚町です。行き方を案内した公式ページは確認できませんでした。

文化庁の解説文は、後円の背の部分が中段から下を削って道にされていること、前方の右の角も中段から下を平らにして祠が建てられていることを記しています。つまり、大正の指定の時点で、既に墳丘はかなり改変されていました。後円部の上には、近世に建てられた碑が二基あるとも書かれています。古墳の脇には、湊川の戦いで新田義貞を逃すために討ち死にした小山田高家の石碑が建っています。

処女塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 古墳が、歌になった
  2. 「前方後圓型」と書かれた前方後方墳
  3. 山陰の土器が、ここにある

古墳が、歌になった

この古墳が知られているのは、大きさや出土品によってではありません。歌によってです。

二人の男に求められた菟原処女が、どちらも選べずに命を絶ち、二人の男も後を追ったという物語が、万葉集や大和物語に伝えられています。西と東の求女塚が二人の男の墓、真ん中の処女塚が女性の墓とされました。

古墳が三つ並んでいるという事実が先にあり、そこへ物語が結びついたと考えられています。つまり、この物語が作られたころには、既に誰の墓かわからなくなっていたのです。「処女塚」という名は、そのわからなさを埋めるために付けられた名だとも言えます。田出井山古墳の「楯井」や、いたすけ古墳の名のように、古墳の名は由来を失いながら残ります。

「前方後圓型」と書かれた前方後方墳

文化庁の解説文は、この古墳を「前方後圓型ニシテ南面ス」としています。しかし、現在は前方後方墳と考えられています。

前方後方墳は、前も後ろも四角い形の古墳です。上から見ると、四角と台形をつないだような姿になります。前方後円墳とは、後ろの部分が円いか四角いかが違います。

大正11年の指定のとき、この区別はまだ十分に定着していませんでした。解説文はそのまま残っており、いま読むと墳形が食い違って見えます。古い記録をそのまま残すことには、当時の理解を伝えるという意味があります。同じことは、宮内庁が野口王墓古墳の陵形を「円丘」、御廟野古墳を「上円下方」と記していることにも通じます。制度の上の記録と、研究の成果は、別々に動きます。

山陰の土器が、ここにある

この古墳から出土しているのは、主に山陰系の土器です。石屋川の流域にあった郡家遺跡という集落の一部とされています。

神戸は瀬戸内海に面した土地です。そこに日本海側の土器があるということは、山を越えた行き来があったことを示します。3世紀後半という早い時期に、そうしたつながりが既にあったことになります。

前方後方墳という形も、東海地方や北陸に多い形です。この古墳が前方後円墳ではなく前方後方墳であることも、大和とは別の方向とのつながりを考える手がかりになります。犬山市の東之宮古墳、静岡県の高尾山古墳、天理市の西山古墳など、同じ形の古墳を並べて見ると、初期の古墳の広がり方が見えてきます。

処女塚古墳から出土したもの

出土品は多くありません。大正11年の指定より前に、墳丘がかなり削られていたためです。

文化庁の解説文は、後円の背の部分が道として削られ、前方の右の角にも祠が建てられていると記しています。埋葬施設や副葬品について記した公式のページは確認できませんでした。知られているのは、主に山陰系の土器が出土しているということです。

山陰系の土器

主な出土品。日本海側との行き来があったことを示す手がかりになる。

処女塚古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

処女塚古墳についてよくある質問

処女塚古墳は誰の墓ですか。

まったくわかっていません。文化庁の解説文も被葬者にふれていません。言い伝えでは菟原処女の墓とされますが、これは物語であり、宮内庁の陵墓にも入っていません。

処女塚古墳はどこにありますか。

文化庁は所在地を神戸市東灘区御影塚町としています。西へおよそ2000メートルに西求女塚古墳、東へおよそ1500メートルに東求女塚古墳があります。

処女塚古墳の大きさはどれくらいですか。

文化庁の解説文は「前後ノ直徑約三十三間」と、尺貫法で記しています。メートルに直した数字を公式のページで確かめることはできませんでした。

処女塚古墳はいつ作られましたか。

3世紀の後半と推定されています。古墳が造られはじめた、いちばん早い時期にあたります。主に山陰系の土器が出土しており、それが年代の手がかりになっています。

処女塚古墳の読み方を教えてください。

「おとめづかこふん」と読みます。文化庁のデータベースのふりがなも「おとめづかこふん」です。菟原処女という女性の言い伝えに由来する名です。

処女塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

前も後ろも四角い形の古墳。前方後円墳と並んで、初期の古墳に多く見られる。

国の史跡(くにのしせき)

国が歴史上重要と認めて指定した土地。陵墓とは別の枠組みで、調査ができる。

(けん)

尺貫法の長さの単位。文化庁の古い解説文では、この単位で墳丘が記される。

山陰系土器(さんいんけいどき)

日本海側の山陰地方の特徴をもつ土器。地域間の行き来を示す手がかりになる。

処女塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁