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奈良県

菖蒲池古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

菖蒲池古墳  / ショウブイケコフン

方墳 7世紀

玄室に、類例のない優美な家形石棺が2基そろって並ぶ飛鳥の方墳。

菖蒲池古墳とはどんな古墳か

菖蒲池古墳は、奈良県橿原市菖蒲町にある方墳です。奈良県は、7世紀中頃に丘陵の南斜面に築かれた一辺約30メートルの方墳と説明しています。

この古墳を有名にしているのは、石室のなかに置かれた家形石棺です。玄室には、奈良県が「非常に優美な」と表現する石棺が2基、縦に並んで安置されています。

墳丘の盛り土が大幅に削られ、流れ落ちたため石室が露出し、玄室の中をのぞける状態になっていました。古くからその存在が知られていたのは、この開いたままの状態が続いたためです。昭和2年(1927年)には石室部分が国の史跡に指定されました。

文化庁は史跡の面積を5,691.97平方メートル、時代を7世紀中葉としています。墳丘の背面・側面には堀割がめぐり、古墳東側の外堤部分では石敷遺構も確認されています。

菖蒲池古墳の読み方と別名

読みは「しょうぶいけこふん」です。文化庁の国指定文化財等データベースも「しょうぶいけこふん」とふりがなを付けています。

名は、近くの菖蒲池からとられたものです。ややこしいのは町名の書かれ方で、奈良県は所在地を「橿原市菖蒲町地内」、文化庁は「橿原市五条野町」と記しています。どちらも同じ1基を指しており、町の境に近い場所にあるためと考えられます。

検索では「菖蒲池古墳 石棺」と組み合わせて調べられることの多い古墳です。

菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)

文化庁・奈良県・橿原市がそろって使う正式な表記。ふりがなも公式に示されている。

菖蒲池古墳(橿原市菖蒲町)(しょうぶいけこふん)

奈良県は所在地を橿原市菖蒲町地内、文化庁は橿原市五条野町と記す。同じ1基だが、書かれる町名が資料によって違う。

今来の双墓の小陵(いまきのならびばかのしょうりょう)

日本書紀に見える蘇我蝦夷・入鹿の墓の名。奈良県は、この小陵をこの古墳に充てる意見があると記す。

菖蒲池古墳は誰の墓か

菖蒲池古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の陵墓としての治定もありません。

奈良県は、この古墳を「被葬者について具体的な人名を挙げて議論されることも多い古墳」と書いています。議論が続いている理由は、立地です。蘇我氏の邸宅があった甘樫丘の目と鼻の先にあります。

近年、東方で小山田遺跡(小山田古墳が見つかったことで、議論はさらに動きました。奈良県は次のような意見が出ていると記しています。

蘇我蝦夷・入鹿親子が葬られた今来の双墓(大陵・小陵)の小陵を菖蒲池古墳に充てる意見や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったと捉える意見などが見られます。

一方で、小山田古墳を舒明天皇の初葬陵とみて、菖蒲池古墳は小陵ではないとする意見もあります。ほかに蘇我倉山田石川麻呂の名が挙げられることもあります。どの説も決め手を欠いており、被葬者は決まっていません。

学術的な見方のひとつ:蘇我蝦夷・入鹿

今来の双墓の小陵を充てる意見と、2人ともこの古墳に葬られたとする意見が紹介されている。

学術的な見方のひとつ:蘇我倉山田石川麻呂

蘇我氏の人物として、その名が挙げられることもあると記される。

断定できない:特定できていない

政権中枢に近い人物の墓と考えられるとしつつ、人名は絞りこまれていない。

菖蒲池古墳の大きさと形

奈良県は墳丘を一辺約30メートルの方墳としています。7世紀中頃、丘陵の南斜面に築かれました。

数字だけを見れば、当時としてとくに大きな古墳ではありません。目を引くのは中身のほうです。埋葬施設は南に開口する横穴式石室で、玄室には家形石棺が2基、縦に並んで置かれています。

墳丘の背面と側面には堀割がめぐります。古墳の東側の外堤にあたる部分では、古墳に伴うと考えられる石敷きの遺構も確認されています。墳丘は並の大きさなのに、まわりの造りだけが破格という、ちぐはぐな古墳です。

国の史跡として指定されている面積は5,691.97平方メートルです。

墳丘の一辺:一辺約30メートル

玄室に置かれた石棺の数:2基

史跡の面積:5,691.97平方メートル

時代:7世紀中葉

史跡の指定年月日:昭和2年(1927年)4月8日

菖蒲池古墳はいつ作られたか

文化庁は時代を7世紀中葉、奈良県は7世紀中頃としています。飛鳥に政治の中心があった時代です。

注目されるのは、造られたあとの話です。奈良県は、古墳の築造からそれほど時期を経ない藤原宮期頃(7世紀末頃)に、古墳の破壊を伴う大規模な土地改変が周辺一帯で行われたと記しています。

造られてから数十年で、まわりごと崩されはじめたことになります。飛鳥から藤原京へと都が移る時期に、古い墓が邪魔になったということです。

同じ橿原市の植山古墳も、これとよく似た終末期の古墳です。そちらは菖蒲池古墳より少し早い時期にあたります。

菖蒲池古墳の場所と行き方(観光情報)

石室が露出しているとはいえ、埋もれている部分もあります。外から見えるのは、露出した石室と石棺です。

足もとは斜面です。南斜面に築かれているため、雨のあとはすべります。

菖蒲池古墳

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菖蒲池古墳の住所:奈良県橿原市菖蒲町地内

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:奈良県は、墳丘封土の削平・流失により石室が露出し、玄室内を覗き見ることができる状態となっていたと記しています

奈良県は、この古墳について「古くからその存在が知られ親しまれており、現在も多くの人々が現地を訪れています」と記しています。

ただし最寄り駅からの道順・駐車場・料金は、公式のページでは確かめられませんでした。奈良県のページには「各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください」との断り書きがあります。

近くには丸山古墳、石川池、そして同じ第3組で取り上げる植山古墳があります。

菖蒲池古墳の発見と調査の歩み

  1. 2基そろって置かれた、類例のない石棺
  2. 甘樫丘の目と鼻の先という場所
  3. 小山田古墳の発見で議論が再燃した

2基そろって置かれた、類例のない石棺

玄室には、家形石棺が2基、縦に並んで安置されています。奈良県はこれを「非常に優美な」と書いています。

家形石棺とは、屋根の形をした蓋をかぶせた石の棺のことです。6世紀から7世紀の有力者の墓によく使われました。ふつうは1つの石室に1基ですが、この古墳では2基が縦一列に並んでいます。

2人が同じ石室に葬られたことを意味しており、被葬者を親子と考える見方の根拠にもなっています。奈良県が「非常に優美な」とわざわざ書き添えているのは、石の削り出しが群を抜いて丁寧だからです。

甘樫丘の目と鼻の先という場所

奈良県は、被葬者に蘇我氏の名が挙がる背景を、こう説明しています。

蘇我氏の邸宅が存在していた甘樫丘の目と鼻の先の位置に所在することが大きな要因となっています。

古墳は、飛鳥へ入る道沿いの丘に築かれています。入口を押さえる場所です。奈良県は、その立地や古墳に見られるさまざまな要素から、政権中枢に近い人物の墓であると考えられる、とも書いています。

場所そのものが、被葬者の性格を語っている。菖蒲池古墳が長く議論の的であり続けているのは、この立地のためです。

小山田古墳の発見で議論が再燃した

奈良県は、被葬者の議論について「特に近年は菖蒲池古墳の東方で小山田遺跡(小山田古墳)が発見されたことにより、議論が再燃しています」と記しています。

小山田古墳は巨大な方墳です。近くに大きな方墳が並んで見つかったことで、日本書紀の伝える今来の双墓、すなわち蘇我蝦夷と入鹿の2つの墓に当てはめる意見が出てきました。

一方、小山田古墳を舒明天皇の初葬陵と見る意見もあります。新しい発見が、答えではなく新しい問いを増やしたという例です。

菖蒲池古墳から出土したもの

石室の中から運び出された副葬品の記録は、公式のページでは見あたりませんでした。

石室が早くから開いていたからです。奈良県は、墳丘封土の大幅な削平・流失により石室が露出し、玄室内を覗き見ることができる状態となっていたと記しています。中が見えるということは、持ち出せるということでもありました。

それでも、石棺そのものが残ったことは大きな幸運でした。この古墳のいちばんの出土品は、動かせなかった石棺2基です。

家形石棺(手前の1基)

玄室の手前側に置かれた石棺。奈良県は2基を「非常に優美な」と表現している。

家形石棺(奥の1基)

玄室の奥に置かれた石棺。手前のものと縦一列に並んでいる。

石敷遺構

古墳東側の外堤部分で確認された。古墳に伴うものと考えられている。

菖蒲池古墳と関連する古墳

菖蒲池古墳についてよくある質問

菖蒲池古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。奈良県は、蘇我蝦夷・入鹿親子の今来の双墓の小陵に充てる意見や、蘇我倉山田石川麻呂の名が挙げられることを紹介したうえで、政権中枢に近い人物の墓と考えられるとしています。宮内庁の治定はありません。

菖蒲池古墳はどこにありますか。

奈良県は所在地を橿原市菖蒲町地内、文化庁は橿原市五条野町と記しています。同じ1基です。最寄り駅からの道順は、公式のページでは確かめられませんでした。

菖蒲池古墳の大きさはどれくらいですか。

奈良県によれば一辺約30メートルの方墳です。国の史跡として指定されている面積は5,691.97平方メートルあります。

菖蒲池古墳はいつ作られたのですか。

文化庁は7世紀中葉、奈良県は7世紀中頃としています。飛鳥に政治の中心があった時代の古墳です。

菖蒲池古墳の石棺は見られますか。

奈良県は、盛り土が削平・流失して石室が露出し、玄室内を覗き見ることができる状態となっていたと記しています。訪ねる前に橿原市へ確認してください。

菖蒲池古墳と併せて覚えたい言葉・用語

家形石棺(いえがたせっかん)

屋根の形をした蓋をかぶせた石の棺。6世紀から7世紀の有力者の墓に多い。

横穴式石室(よこあなしきせきしつ)

横から出入りできる通路と部屋からなる埋葬施設。あとから人を葬り足すことができる。

玄室(げんしつ)

横穴式石室のうち、棺を置く奥の部屋のこと。

堀割(ほりわり)

墳丘のまわりを削って造った溝。斜面に築いた古墳で、背面や側面を区切るために使われる。

外堤(がいてい)

古墳のまわりの溝や濠の、さらに外側に築いた土手のこと。

菖蒲池古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 奈良県
  2. 文化庁