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大阪府

金山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

金山古墳  / カナヤマコフン

円墳 6世紀7世紀

円を二つつないだ双円墳。周濠を残す全国唯一の例とされる。

金山古墳とはどんな古墳か

金山古墳はひとことで言えば丸い墳丘を二つつないだ古墳です。大阪府南河内郡河南町にあり、葛城山の西のふもと、芹生谷の奥に築かれています。

河南町はこう書いています。

金山古墳は大小二つの円丘を合わせた双円墳という全国的にも珍しい形で、6世紀末から7世紀初頭、ちょうど前方後円墳がつくられなくなるころの古墳です

文化庁は、この古墳を「築造当初の形状を整然と残した我が国ではきわめて類例の少ない双円墳であり、周濠を残す唯一の例である」としています。前方後円墳が終わるころに、まったく別の形が選ばれました。

金山古墳の読み方と別名

読みは「かなやまこふん」です。所在地は大阪府南河内郡河南町の芹生谷(せりゅうたに)にあたります。

この古墳の小字名は「墓添」といいます。文化庁は「小字名を『墓添』と称し、古くから墓として守られてきたため、保存状態は極めて良好である」としています。名前が、そのまま守りの理由になっていました。

金山古墳(かなやまこふん)

河南町と文化庁が用いる名。文化庁の登録では「ふりがな かなやまこふん」と示されている。

史跡金山古墳公園(しせきかなやまこふんこうえん)

古墳を史跡公園として整備したもの。河南町が管理している。

墓添(はかぞえ)

小字の名。文化庁は、古くから墓として守られてきたため保存状態が極めて良好だとする。

金山古墳は誰の墓か

金山古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。国の史跡として河南町が扱っています。

わかっているのは、北丘の石室に家形石棺が2基あることです。1基は玄室に、1基は羨道に置かれています。

文化庁は、この二つの石棺の関係についてこう記しています。羨道の石棺は玄室のものにくらべわずかに小さく、棺蓋や縄掛突起の形状に新しい様相が認められる。おそらく追葬したものと思われる、と。

先に一人、あとからもう一人。その二人が誰で、どういう関係だったのかを示す資料は出ていません。

石室と石棺はすでに盗掘を受けています。より大きな南丘にも石室があると考えられていますが、調査されていないため中身はわかっていません。

公式の説明:わかっていない

石室と石棺は盗掘を受けており、人物を比定する記載はない。

学術的な見方のひとつ:二人(追葬の可能性)

羨道の石棺は棺蓋や縄掛突起の形状が新しく、追葬したものと思われるとする。

金山古墳の大きさと形

河南町は、この古墳の規模を次のようにまとめています。墳丘長85.8メートル、南丘の直径55.4メートル、北丘の直径38.6メートル、南丘の高さ9.4メートル、北丘の高さ6.8メートル。北丘は2段、南丘は3段に築かれています。

文化庁の解説は、これとかなり違う数字を示しています。南側の円丘を東西径四四・八メートル、北側を東西径三〇・九メートルとし、両丘を合わせた墳丘の主軸長を七七・九メートルとしています。

85.8メートルと七七・九メートル。8メートルほどの差があります。文化庁の解説は昭和二十一年の実測にもとづくもので、河南町の数字は平成の整備にともなう調査を反映したものとみられます。

墳丘長:85.8メートル

南丘の直径:55.4メートル

北丘の直径:38.6メートル

南丘の高さ:9.4メートル

北丘の高さ:6.8メートル

北丘の横穴式石室の長さ:約10メートル

金山古墳はいつ作られたか

河南町は「6世紀末から7世紀初頭、ちょうど前方後円墳がつくられなくなるころの古墳です」としています。

文化庁は、確認された北丘の石棺の形式や副葬品からすると、六世紀後半頃に築造され、七世紀初頭頃に追葬が行われたものと考えられる、としています。築いた時期と、二人目を納めた時期に開きがあります。

この時期は、古墳の形が大きく変わっていくころにあたります。奈良県明日香村の石舞台古墳、八角形の墳丘をもつ牽牛子塚古墳が続きます。金山古墳の双円という形は、その流れのどこにも当てはまりません。前方後円墳をやめたあと、何を築くかがまだ定まっていなかった時期の、ひとつの答えでした。

金山古墳の場所と行き方(観光情報)

この古墳の見どころは、石室前の墓道(ぼどう)です。河南町は「石室前にはくびれ部西側へとつづく墓道(通路)があり、石室入口をふさいだあと、この墓道は埋められていました。この部分だけ埋葬直後の姿に復元しています」としています。

埋め戻された直後の姿を再現した場所は、そう多くありません。

南丘にも石室へ続く墓道が見つかっていますが、調査されていないため、大きさや中の様子は不明のままです。

金山古墳(史跡金山古墳公園)

地図で開く

金山古墳(史跡金山古墳公園)の住所:南河内郡河南町

交通:近鉄長野線「富田林」駅からコミュニティバス白木線「芹生谷」下車、徒歩1分(富田林駅から約21分)

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:史跡金山古墳公園として整備され、石室前の墓道が埋葬直後の姿に復元されている

河南町は行き方をこう案内しています。近鉄長野線の「富田林」駅からコミュニティバス白木線に乗り、「芹生谷」で下車。富田林駅から約21分、バス停から徒歩1分です。

古墳は「史跡金山古墳公園」として整備されています。河南町は、憩いの場として、また歴史の体験学習ができる史跡公園として利用を待っている、としています。

駐車場と料金については、公式の記載を確かめられませんでした。コミュニティバスの時刻表と運賃表は河南町のページから確かめられます。

文化庁は所在地を南河内郡河南町としています。

金山古墳の発見と調査の歩み

  1. 円を二つつないだ、全国でも数少ない形
  2. 玄室と羨道に、一基ずつの家形石棺
  3. 「墓添」という地名が守った古墳

円を二つつないだ、全国でも数少ない形

古墳の形にはいくつかの種類があります。前方後円墳、円墳、方墳、前方後方墳、そして終末期の八角墳。双円墳は、そのどれとも違います。

河南町は「大小二つの円丘を合わせた双円墳という全国的にも珍しい形」としています。文化庁はさらに踏み込み、この古墳を「築造当初の形状を整然と残した我が国ではきわめて類例の少ない双円墳であり、周濠を残す唯一の例である」としています。

全国で唯一。その言葉が、文化庁の解説に書かれています。

玄室と羨道に、一基ずつの家形石棺

北丘の横穴式石室は南に開いています。河南町は長さ約10メートルとし、中に凝灰岩をくりぬいてつくった家形石棺が2個置かれている、としています。

文化庁の解説はさらに細かく記します。石棺はいずれも凝灰岩を刳抜いて作られ、蓋には左右の長辺に各二個、前後の短辺に各一個の縄掛突起がある、と。

羨道の棺は、棺蓋や縄掛突起の形が新しい。だから追葬とみられています。

「墓添」という地名が守った古墳

文化庁の解説は、この古墳の保存状態についてこう書いています。

小字名を「墓添」と称し、古くから墓として守られてきたため、保存状態は極めて良好である

墓添(はかぞえ)。墓のそば、という意味の地名です。土地の名がその場所の由来を伝え、その伝えが古墳を守りました。

多くの古墳は、開墾されて畑になり、削られて宅地になりました。藤井寺市の古室山古墳は文化庁が「墳丘は殆んど開墾の厄にあっている」と記す状態です。堺市の黒姫山古墳は中世に城の砦へ転用されました。

金山古墳は、どちらの目にも遭っていません。昭和二十一年に大阪府教育委員会が北丘の実測調査を行い、横穴式石室と二基の刳抜式家形石棺を確認しました。平成3年2月15日、国の史跡に指定されています。

金山古墳から出土したもの

河南町は「石室や石棺の中はすでに盗掘されており、わずかにガラス玉、耳輪、馬具、鉄刀、土器の破片が出土しただけです」としています。

文化庁も同じく、石室が発見されたときにはすでに盗掘を受け、二基の石棺も棺身に盗掘孔が穿たれていた、としています。残ったのは、持ち去るには値しないと判断された品ばかりでした。南丘は未調査のため、副葬品があるかどうかもわかっていません。

ガラス玉

石室内から出土した。盗掘のあとにわずかに残っていた品の一つ。

耳輪

耳につける輪の飾り。ガラス玉とともに出土している。

馬具

馬に付ける道具の類。石室から出土している。

鉄刀

鉄の刀。文化庁は出土遺物として鉄刀・鉄鏃を挙げている。

土器の破片

土器類の破片が出土している。原位置を保たない状態での出土とされる。

金山古墳と関連する古墳

金山古墳についてよくある質問

金山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁の治定もありません。北丘の石室に家形石棺が2基あり、文化庁は羨道の石棺を追葬とみていますが、二人が誰かを示す資料は出ていません。

金山古墳の大きさはどれくらいですか。

河南町は墳丘長85.8メートル、南丘の直径55.4メートル、北丘の直径38.6メートル、南丘の高さ9.4メートル、北丘の高さ6.8メートルとしています。文化庁は主軸長を七七・九メートルとしており、数字が違います。

金山古墳はどこにありますか。

大阪府南河内郡河南町です。近鉄長野線の富田林駅からコミュニティバス白木線に乗り、芹生谷で下車して徒歩1分です。富田林駅からバスで約21分かかります。

金山古墳はいつ作られましたか。

河南町は6世紀末から7世紀初頭、ちょうど前方後円墳がつくられなくなるころとしています。文化庁は六世紀後半頃の築造で、七世紀初頭頃に追葬が行われたとしています。

双円墳とは何ですか。

円い墳丘を二つつないだ形の古墳です。全国でもきわめて数が少なく、文化庁は金山古墳を、周濠を残す唯一の例としています。

金山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

双円墳(そうえんふん)

円い墳丘を二つつないだ形の古墳。全国でも類例がきわめて少ない。

横穴式石室(よこあなしきせきしつ)

横から入れる通路(羨道)と部屋(玄室)からなる埋葬施設。追葬ができる。

家形石棺(いえがたせっかん)

屋根の形をした蓋をもつ石の棺。蓋には縄をかけるための突起が付く。

墓道(ぼどう)

石室の入口へ続く通路。葬ったあとに埋め戻されることが多い。

金山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 河南町
  2. 文化庁