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京都府

蛇塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

蛇塚古墳  / ヘビヅカコフン

前方後円墳 7世紀

盛り土を失い、巨石の石室だけが住宅街に残る嵯峨野最大の後期古墳。

蛇塚古墳とはどんな古墳か

京都市右京区太秦面影町にある前方後円墳です。文化庁は、この古墳を嵯峨野で最大の規模をもつ後期古墳であり、巨石を用いた横穴式石室を設けていることで著名だとしています。

いちばんの特徴は、いま見えるものです。大正9年ごろには墳丘の一部が残っていましたが、宅地化により盛り土が失われ、現在は石室だけが露出しています。

文化庁は、失われた墳丘を諸資料から復原すると、前方部を西南に向けた全長約75メートルの前方後円墳になるとし、いまも宅地の区画にその形跡を残しているとしています。住宅の区画の形が、古墳の輪郭をなぞっているという珍しい場所です。

石室の全長は17.8メートル。文化庁は、この石室が奈良県の石舞台古墳などと比較されるものだと書いています。1977年(昭和52年)5月4日に国の史跡に指定されました。

蛇塚古墳の読み方と別名

読みは「へびづかこふん」です。文化庁の国指定文化財等データベースも、ふりがなを「へびづかこふん」としています。

蛇という字が古墳の名に入る例は多くありません。名の由来については、公式ページに記載を確かめられませんでした。

所在地の「太秦」は「うずまさ」と読みます。京都市右京区太秦面影町。太秦は、渡来系の氏族である秦氏にゆかりの深い土地として知られ、文化庁の解説文も、この古墳が山城の地に繁栄したとされる秦氏らを考えるうえで重要だとしています。

「面影町」という町名もまた、失われた墳丘の面影を思わせます。

蛇塚古墳(へびづかこふん)

文化庁の国指定文化財等データベースがふりがなとして示す読み。国の史跡としての正式な名。

天塚古墳(あまづかこふん)

嵯峨野の後期古墳群の中心をなす三つの前方後円墳のひとつ。文化庁の解説文に名が挙がる。

清水山古墳(しみずやまこふん)

同じく嵯峨野の三つの前方後円墳のひとつ。文化庁の解説文に蛇塚・天塚と並べて記される。

蛇塚古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

文化庁の解説文には、被葬者を特定する記述がありません。書かれているのは、この古墳が嵯峨野で最大の後期古墳であること、巨石を用いた石室を持つこと、そして山城の地に繁栄したとされる秦氏らを考えるうえでも重要な古墳だということです。

秦氏は、大陸から渡ってきた技術を持つ氏族で、この一帯を開いたと伝えられます。文化庁が名を挙げているのは、嵯峨野の後期古墳群が秦氏の活動と重なるためです。ただし、この古墳の主が秦氏の誰であるかまでは書かれていません。

手がかりが少ないのには理由があります。宅地化で盛り土が失われ、副葬品が残る状態ではなくなりました。昭和11年(1936年)に京都帝国大学考古学研究室が石室の実測調査を行っていますが、副葬品についての記載を確かめられませんでした。

断定できない:わかっていない

解説文に被葬者を特定する記述はない。副葬品についての記載も確かめられなかった。

学術的な見方のひとつ:秦氏に連なる人物か

山城の地に繁栄したとされる秦氏らを考えるうえで重要な古墳、と記されている。

蛇塚古墳の大きさと形

文化庁は、失われた墳丘を諸資料から復原すると、前方部を西南に向けた全長約75メートルの前方後円墳になるとしています。

石室の数字はより具体的です。羨道を含めた石室の全長は17.8メートル、玄室は奥行6.8メートル、幅3.8メートル、高さは5メートルを越えるとされています。側壁も奥壁も2段から3段に巨石を積んでおり、天井石は一石を除いて失われています。

奈良県明日香村の石舞台古墳は、石室全長19.08メートル、玄室の長さ7.5メートル・幅3.48メートル・高さ4.70メートルです。蛇塚古墳の玄室は、幅と高さで石舞台古墳を上回ります。

墳丘の全長(復原):約75メートル

石室の全長(羨道を含む):17.8メートル

玄室の奥行:6.8メートル

玄室の幅:3.8メートル

玄室の高さ:5メートルを越える

史跡に指定された日:1977年5月4日

蛇塚古墳はいつ作られたか

文化庁は、この古墳の石室について「奈良県の石舞台古墳等と比較されるものであり、7世紀代に属するものとみられる」としています。

嵯峨野という土地の特色も、あわせて記されています。この地域には前期の古墳が今のところ認められず、6世紀代以降の古墳が集中している、と。

つまり嵯峨野では、古墳時代の前半に大きな墓が造られず、後半になって急に古墳群が現れます。文化庁は、この一群の中心となるのが天塚・清水山古墳・蛇塚古墳の三つの前方後円墳だとしています。

おくれて現れ、しかも巨大な石室を持つ。この土地に新しい力が入ってきたことを示す並びです。

蛇塚古墳の場所と行き方(観光情報)

文化庁の解説文によれば、嵯峨野の後期古墳群の中心をなすのは天塚・清水山古墳・蛇塚古墳の三つの前方後円墳です。

山城盆地は、かつて中央部に巨椋池が横たわり、桂川などの多くの河川が流れ込んで淀川となって流れ出していた土地でした。文化庁は、各河川の要所に古式の古墳を含む古墳群が形成され、開拓の進展状況を示しているとしています。

蛇塚古墳

地図で開く

蛇塚古墳の住所:京都市右京区太秦面影町

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:公式に確認できませんでした

所在地は、文化庁の国指定文化財等データベースが記す京都市右京区太秦面影町です。所在都道府県は京都府とされています。

行き方・駐車場・料金・石室に入れるかどうかについては、いずれも公式の記載を確かめられませんでした。古墳は住宅地の中にあり、周囲は民家に囲まれています。訪ねるときは、住民の生活の場であることに気をつけてください。

蛇塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 盛り土を失った古墳が、街の形に残る
  2. 石舞台古墳と比べられる石室
  3. 嵯峨野に、前期の古墳が無い

盛り土を失った古墳が、街の形に残る

蛇塚古墳は、ふつうの意味での古墳の姿をしていません。盛り土がなく、巨石を組んだ石室だけが住宅街の一角に立っています。

文化庁はこう書いています。大正9年ごろには墳丘の一部を残していたが、宅地化により封土が失われた、と。封土とは、石室を覆っていた盛り土のことです。

それでも古墳は消えていません。文化庁は、復原すると全長約75メートルの前方後円墳になり、今も宅地の区画にその形跡を残しているとしています。

土地の境界線が、千数百年前の墳丘の輪郭をなぞっている。地図で見ると、直線ばかりの住宅地の中に、丸みを帯びた区画が浮かび上がります。古墳が消えても、土地の割り方は簡単には変わりませんでした。

石舞台古墳と比べられる石室

文化庁は、蛇塚古墳の石室について「奈良県の石舞台古墳等と比較されるものであり」と書いています。

数字を並べてみます。蛇塚古墳は石室全長17.8メートル、玄室は奥行6.8メートル、幅3.8メートル、高さ5メートル超。石舞台古墳は石室全長19.08メートル、玄室は長さ7.5メートル、幅3.48メートル、高さ4.70メートルです。

全長と奥行では石舞台古墳が上回り、玄室の幅と高さでは蛇塚古墳が上回ります。

石舞台古墳は蘇我馬子の墓である可能性が高いと考えられている、飛鳥の中枢の古墳です。その石室に匹敵する規模のものが、都から離れた嵯峨野に築かれていた。このことが、蛇塚古墳を語るときにいつも持ち出されます。どちらも盛り土を失い、石室がむき出しになっている点まで似ています。

嵯峨野に、前期の古墳が無い

文化庁の解説文には、この地域についての観察が記されています。嵯峨野地域の特色は、前期の古墳が今のところ認められず、6世紀代以降の古墳が集中する点にある、と。

これは重要な指摘です。奈良盆地では箸墓古墳のように3世紀に大きな古墳が現れ、大阪平野でも4世紀から巨大古墳が並びます。ところが嵯峨野では、それが無い。

そして6世紀以降、突然のように古墳群が現れます。中心となるのは天塚、清水山古墳、蛇塚古墳の三つの前方後円墳。古い墓の無い土地に、新しい勢力が入ってきたことを示す並びです。

文化庁が秦氏の名を挙げているのも、この文脈でのことです。渡ってきた人々が土地を開き、力をつけ、やがて巨石の石室を築いた。その順番が、古墳の分布に残っています。

蛇塚古墳から出土したもの

蛇塚古墳の出土品について記した公式ページを、確かめられませんでした。文化庁の解説文にも、副葬品についての記載はありません。

宅地化によって盛り土が失われた古墳です。石室の中にあったものが、どこへ行ったのかもわかりません。昭和11年(1936年)に京都帝国大学考古学研究室が石室の実測調査を行っていますが、そこで何が見つかったのかについても、公式の記載を確かめられませんでした。

いま残っているのは、巨石を組んだ石室そのものです。

蛇塚古墳と関連する古墳

蛇塚古墳についてよくある質問

蛇塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。文化庁の解説文に被葬者を特定する記述はありません。山城の地に繁栄したとされる秦氏らを考えるうえで重要な古墳、と記されています。

蛇塚古墳はどこにありますか。

京都市右京区太秦面影町にあります。住宅地の中にあり、周囲は民家に囲まれています。行き方は公式に確認できませんでした。

蛇塚古墳の大きさはどれくらいですか。

文化庁は、復原すると全長約75メートルの前方後円墳になるとしています。石室の全長は17.8メートル、玄室は奥行6.8メートル、幅3.8メートル、高さは5メートルを越えます。

蛇塚古墳はいつ作られましたか。

文化庁は、石室が7世紀代に属するものとみられるとしています。嵯峨野では6世紀代以降の古墳が集中しており、その中でも新しい側にあたります。

なぜ石室がむき出しになっているのですか。

宅地化によって盛り土が失われたためです。文化庁は、大正9年ごろには墳丘の一部を残していたが、宅地化により封土が失われたとしています。

蛇塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

玄室(げんしつ)

横穴式石室の奥にある、棺を納める部屋。蛇塚古墳では奥行6.8メートルを測る。

羨道(せんどう)

玄室へ通じる細い通路。羨道と玄室を合わせて石室の全長という。

封土(ほうど)

石室を覆っていた盛り土。蛇塚古墳では宅地化によって失われた。

秦氏(はたうじ)

大陸から渡ってきたと伝えられる氏族。太秦一帯を開いたとされる。

蛇塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁