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奈良県

小山田古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

小山田古墳  / コヤマダコフン

方墳 7世紀

2016年に古墳と確定した飛鳥最大級の方墳。舒明天皇説と蘇我蝦夷説がある。

小山田古墳とはどんな古墳か

奈良県高市郡明日香村にある方墳とされます。長く「小山田遺跡」と呼ばれていた場所で、2016年度の発掘で横穴式石室の跡が見つかり、古墳と確定して名が改められた、という新しい古墳です。

つまり、地上に姿を見せていなかった古墳です。現在の古墳域には養護学校が建っており、墳丘は残っていません。地面の下に掘割と板石積みが埋もれていたのが、調査のたびに少しずつ姿を現しました。

下調べの範囲では、一辺は東西で72メートルから80メートル超、南北で推定70メートルとされ、飛鳥時代の方墳としては最大規模になるといいます。石室の羨道の幅は石舞台古墳と同じ程度で、長さも石舞台古墳級と推測されています。

この古墳については、公式ページを1本も確かめられませんでした。以下に書く数値・所在地・年代は、いずれも公式には確認できていません。

小山田古墳の読み方と別名

読みは「こやまだこふん」です。「おやまだ」ではありません。

この古墳の名は、つい最近まで「遺跡」でした。1972年度の第1次調査以来、長く小山田遺跡と呼ばれ、2016年度の第8次調査で横穴式石室の跡が見つかったことで古墳と確定し、名称が小山田古墳に変更されたと伝えられます。

古墳の名が「遺跡」から「古墳」へ変わるのは珍しいことです。多くの古墳は、地上に墳丘が残っているところから名が付きます。この古墳は、掘って初めて古墳とわかりました。

小山田古墳(こやまだこふん)

2016年度の調査で古墳と確定したのち、この名に改められたと伝えられる。

小山田遺跡(こやまだいせき)

古墳と確定する前の遺跡名。1972年度の第1次調査以来この名で呼ばれていた。

滑谷岡(なめはざまのおか)

『日本書紀』が伝える舒明天皇の初葬地。この古墳をあてる説がある。

小山田古墳は誰の墓か

葬られた人が誰かは、わかっていません。ただし、この古墳には二つの有力な候補が挙げられており、どちらも飛鳥時代の中心にいた人物です。

一つは、第34代舒明天皇が最初に葬られた「滑谷岡」とする説です。『日本書紀』によれば、舒明天皇は641年に亡くなり、翌年に滑谷岡に葬られ、643年に押坂陵へ改葬されたとされます。この説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点と、墳丘斜面の階段状の石積みが押坂陵とされる段ノ塚古墳に似る点が指摘されます。

もう一つは、蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵」とする説です。『日本書紀』は、蘇我蝦夷が642年に今来に双墓を造り、自分の墓を大陵、子の入鹿の墓を小陵と称したと伝えます。この説では、当地が甘樫丘に近いこと、西隣の菖蒲池古墳を入鹿の小陵と見なせることが挙げられます。

いずれも公式ページでは確認できませんでした。宮内庁の陵墓でも陵墓参考地でもありません。

小山田古墳の大きさと形

この古墳の数値を示す公式ページは、1本も確かめられませんでした。以下は下調べによるもので、公式には確認できていません。

墳形は方形で、一辺は東西で72メートル(北辺)から80メートル超(南辺)、南北で推定70メートルとされます。飛鳥時代の方墳としては最大規模になるといいます。

埋葬施設は横穴式石室と見られ、南に開く羨道の跡が見つかっています。羨道の幅は2.6メートルで、石舞台古墳の2.1メートルから2.6メートルと同じ程度、桜井市の谷首古墳の1.7メートルを上回るとされます。羨道の長さは8.7メートル以上で、石舞台古墳の11.7メートル級と推測されています。

ただし玄室の部分は見つかっておらず、石室の全体規模は明らかでないとされます。

小山田古墳はいつ作られたか

下調べによれば、出土した土器から古墳時代終末期・飛鳥時代中頃の7世紀中頃、とくに640年代の築造と推定されています。舒明天皇が亡くなった641年、蘇我蝦夷が双墓を造った642年と、時期がぴったり重なります。被葬者の候補が二人に絞られるのは、この年代のためです。

下層では6世紀後半の集落跡が確認されており、築造の際にその集落を潰したと見られています。また築造から間もない7世紀後半には、すでに掘割の埋没が認められるといいます。

造られてすぐに埋もれ始めた古墳ということになります。この年代を示す公式の記載は、確認できませんでした。

小山田古墳の場所と行き方(観光情報)

明日香村には、石舞台古墳・キトラ古墳高松塚古墳中尾山古墳牽牛子塚古墳など、この図鑑で扱った古墳が集まっています。7世紀の古墳が、これだけ狭い範囲に残る場所はほかにありません。

小山田古墳の西隣には菖蒲池古墳があり、こちらは家形石棺が2基残ることで知られます。二つを蘇我蝦夷と入鹿の墓とする説は、この位置関係を根拠のひとつにしています。

小山田古墳

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小山田古墳の住所:公式には確認できませんでした

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:現在の古墳域には学校が建っており、墳丘は残っていません。宮内庁の陵墓ではありませんが、見学できる遺構があるかどうかは公式には確認できませんでした

この古墳については、住所も行き方も、公式ページで確かめられませんでした。下調べでは奈良県高市郡明日香村川原とされますが、この図鑑では公式に確認できたものだけを住所の欄に載せる決まりにしているため、空けてあります。

現在の古墳域には奈良県立明日香養護学校が立地するとされ、墳丘としての姿はありません。発掘のたびに掘り、埋め戻されてきた古墳です。

小山田古墳の発見と調査の歩み

  1. 遺跡が古墳になるまで
  2. 舒明天皇か、蘇我蝦夷か
  3. 飛鳥の方墳という形

遺跡が古墳になるまで

この古墳は、10次にわたる発掘の積み重ねで姿を現しました。

下調べによれば、1972年度の第1次調査から始まり、1989年度・1995年度と続きます。2014年度の第5・6次調査で掘割と板石積みが見つかり、はじめて古墳の可能性が浮かびました。2015年度の第7次調査で大規模な造成跡が確認され、2016年度の第8次調査で横穴式石室の跡が見つかって古墳と確定します。2017年度に石室の羨道を確認、2018年度に東西の南辺が80メートル超と判明しました。

44年かかって、遺跡が古墳になりました。掘る場所が少しずつ移り、そのたびに見えるものが変わっていった結果です。調査はいずれも奈良県立橿原考古学研究所によるものと伝えられます。

舒明天皇か、蘇我蝦夷か

被葬者の候補が二人に絞られているのは、年代と規模と場所が、あまりにもよく合うからです。

7世紀中頃、とくに640年代。飛鳥時代の方墳としては最大規模。甘樫丘に近い場所。この三つを満たす人物は、当時ほとんどいません。舒明天皇が亡くなったのが641年、蘇我蝦夷が双墓を造ったのが642年です。

舒明天皇説の根拠は、墳丘斜面の階段状石積みが、押坂陵とされる桜井市の段ノ塚古墳に似ることです。蘇我蝦夷説の根拠は、蝦夷が天皇と並ぶ権勢を誇った人物であること、そして西隣の菖蒲池古墳を入鹿の小陵と見なせることです。

どちらとも決まっていません。この図鑑では、両方の説を並べて置いておきます。

飛鳥の方墳という形

7世紀に入ると、前方後円墳は造られなくなります。代わって現れるのが方墳と、その先の八角墳です。

石舞台古墳は一辺約55メートルの方墳で、蘇我馬子の墓とする説があります。小山田古墳はそれを上回る規模の方墳です。馬子・蝦夷・入鹿と続く一族の墓が、方墳という形で並んでいるという見方ができます。

そのあと、天皇の墓は八角墳になります。この図鑑で扱った中尾山古墳や、牽牛子塚古墳がその例です。方墳から八角墳へという流れの中に、小山田古墳は置かれています。もし舒明天皇の初葬地であれば、方墳に葬られた最後の天皇のひとりということになります。

小山田古墳から出土したもの

副葬品についての記録は、確かめられませんでした。玄室の部分が見つかっていないため、棺が置かれていた場所にたどり着いていないと考えられます。

知られているのは、遺構と土器です。掘割、板石積み、造成跡、そして石室の羨道。古墳と確定させたのは、副葬品ではなく遺構でした。この古墳については公式ページを1本も確かめられなかったため、出土品の一覧も公式には確認できていません。

土器

築造年代を7世紀中頃、とくに640年代と絞る根拠になったとされる。

横穴式石室の羨道

南に開く通路の跡。幅2.6メートルで、石舞台古墳と同じ程度の規模とされる。

板石積み

2014年度の調査で掘割とともに見つかり、古墳の可能性が浮かぶきっかけになった。

階段状石積み

墳丘斜面の造り。舒明天皇の押坂陵とされる段ノ塚古墳に似ると指摘されている。

小山田古墳と関連する古墳

小山田古墳についてよくある質問

小山田古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。第34代舒明天皇が最初に葬られた滑谷岡とする説と、蘇我蝦夷が生前に築いた大陵とする説があります。いずれも公式ページでは確認できませんでした。宮内庁の陵墓でもありません。

小山田古墳はどこにありますか。

公式には確認できませんでした。下調べでは奈良県高市郡明日香村川原とされ、現在の古墳域には養護学校が立地するといいます。墳丘としての姿は残っていません。

小山田古墳の大きさはどれくらいですか。

公式には確認できませんでした。下調べでは一辺が東西で72メートルから80メートル超、南北で推定70メートルとされ、飛鳥時代の方墳としては最大規模になるといいます。

小山田古墳はいつ作られましたか。

公式には確認できませんでした。下調べでは出土した土器から7世紀中頃、とくに640年代とされます。舒明天皇の没年や蘇我蝦夷が双墓を造った年と重なります。

なぜ小山田古墳は最近まで知られていなかったのですか。

地上に墳丘が残っていない埋没古墳だからです。長く小山田遺跡と呼ばれ、2014年度の調査で掘割と板石積みが見つかって古墳の可能性が浮かび、2016年度に石室跡が確認されて古墳と確定したと伝えられます。

小山田古墳と併せて覚えたい言葉・用語

埋没古墳(まいぼつこふん)

地上に墳丘が残らず、地中に遺構だけが埋もれている古墳。掘って初めて見つかる。

羨道(せんどう)

横穴式石室で、外から玄室へ通じる通路の部分。幅と長さが石室の規模の目安になる。

玄室(げんしつ)

横穴式石室で棺を置く奥の部屋。小山田古墳ではまだ見つかっていない。

掘割(ほりわり)

丘陵を切って古墳の区画を造るために掘った溝。墳丘の範囲を知る手がかりになる。