対角長24メートル。高松塚古墳とよく似た石槨をもつ多角形の古墳。
マルコ山古墳とはどんな古墳か
マルコ山古墳は、奈良県高市郡明日香村真弓にある終末期の古墳です。明日香村は、真弓丘と称される丘陵に築かれた7世紀末後半から末の古墳で、国の史跡に指定されている、と記しています。
形は長いあいだ円墳と考えられてきましたが、いまは多角形墳として説明されています。明日香村によれば、墳丘の対角長は24メートル、高さは4.5メートルほど。その周りには直径24メートルの外周となる石敷きがめぐり、そこには排水の施設まで組みこまれていました。
中の石槨は凝灰岩の切石を組み合わせた横口式で、内側は全面に漆喰が塗られています。明日香村は、規模と構造が高松塚古墳とよく似ており、しばしば比べられると記しています。ただし高松塚古墳やキトラ古墳とは違い、壁に絵はありません。
史跡としての面積は3,029平方メートル。指定されたのは昭和57年1月16日です。
マルコ山古墳の読み方と別名
読みは「まるこやまこふん」です。名の由来ははっきりしません。
マルコという音が何を指すのかについて、公式の説明は見あたりませんでした。漢字を当てて書かれることもありますが、明日香村が使う表記は片仮名の「マルコ山古墳」です。
古墳の名は、多くが土地の小字や、塚の見た目から付いています。由来がわからないまま片仮名の名だけが残ったという点では、キトラ古墳と同じです。
マルコ山古墳(まるこやまこふん)
明日香村が指定文化財の紹介で使う正式な表記。片仮名と漢字が交ざる、めずらしい古墳名。
マルコ山(まるこやま)
丘そのものの呼び名。古墳を含む一帯を指すときにも使われる。
真弓マルコ山古墳(まゆみまるこやまこふん)
所在地の大字である真弓を冠した呼び方。同じ丘に終末期の古墳が並ぶため、区別に使われる。
マルコ山古墳は誰の墓か
マルコ山古墳の被葬者はわかっていません。
明日香村は、被葬者について次のように記すにとどめています。
被葬者は天武天皇の皇子説などがある。
「説などがある」という書き方は、決まっていないという意味です。この古墳には宮内庁の陵墓としての治定もありません。つまり、誰の墓と定められてもいない古墳です。
手がかりは中身の質にあります。凝灰岩の切石を組んだ横口式の石槨、全面に塗られた漆喰、乾漆の棺、金銅製の飾り金具。どれも当時の最上位の人にしか使えないもので、皇族の墓と考えられる理由はここにあります。
ただし、どの皇子かまでは絞りこめていません。石槨は鎌倉時代の末から室町時代の初めにかけて盗掘されており、名を示すものは残されていませんでした。
明日香村が挙げる説:天武天皇の皇子
指定文化財の紹介で「被葬者は天武天皇の皇子説などがある」と記す。断定はしていない。
断定できない:特定できていない
村の説明は説の紹介にとどまり、被葬者を1人に絞ってはいない。
マルコ山古墳の大きさと形
明日香村によれば、墳丘の対角長は24メートル、高さは4.5メートルほどです。「対角長」という測り方をするのは、この古墳が円でも四角でもない多角形墳だからです。角と角を結んだ長さで大きさを示します。
墳丘のまわりには、直径24メートルの外周となる石敷きが施され、そこには排水の施設が組みこまれていました。雨水を逃がして墳丘を守る工夫です。
石槨は凝灰岩の切石を組み合わせた横口式で、内部は全面に漆喰が塗られています。史跡として指定されている面積は3,029平方メートル。同じ明日香村の石舞台古墳のような巨石の迫力はありませんが、切石と漆喰でつくった箱のような精密さが、この古墳の見どころです。
墳丘の対角長:24メートル
墳丘の高さ:4.5メートルほど
外周の石敷きの直径:24メートル
史跡の面積:3,029平方メートル
史跡の指定年月日:昭和57年1月16日
マルコ山古墳はいつ作られたか
マルコ山古墳の場所と行き方(観光情報)
明日香村の指定文化財の紹介は、この古墳を「地ノ窪集落の東に位置する」と記しています。
真弓丘のあたりは、牽牛子塚古墳をはじめとする終末期の古墳が集まる一帯です。それぞれの間は歩ける距離ですが、道は細く、案内は多くありません。訪ねるときは明日香村の地図を用意しておくと安心です。
マルコ山古墳
マルコ山古墳の住所:奈良県高市郡明日香村真弓
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:石槨の内部を見学できるという案内は、公式のページでは確認できませんでした
明日香村は所在地を「明日香村真弓」とだけ記しています。最寄り駅からの道順や駐車場については、公式のページで確かめられませんでした。
古墳は地ノ窪集落の東にあります。墳丘は草に覆われた丘として残っていますが、石槨の内部を見学できるという案内は見あたりませんでした。
同じ真弓丘には牽牛子塚古墳があり、そちらは整備されて墳丘の外形が復元されています。あわせて歩く人が多い一帯です。
マルコ山古墳の発見と調査の歩み
高松塚古墳と比べられてきた古墳
明日香村は、この古墳について、規模と構造が高松塚古墳と似ており、比較されると記しています。
高松塚古墳の石室は、凝灰岩の切石を組み合わせた横口式石槨でした。マルコ山古墳も同じく凝灰岩の切石を組み、内側に漆喰を塗っています。違うのは、高松塚古墳とキトラ古墳には壁画があり、マルコ山古墳の壁には絵が描かれていないことです。
同じ技術で、同じころに、すぐ近くに造られながら、絵のある墓とない墓に分かれている。この差が何を意味するのかは、まだ答えが出ていません。
鎌倉から室町にかけての盗掘
この古墳には、墳丘の西南の方向から大きな盗掘孔が掘りこまれています。
明日香村は、そこに残されていた品から、鎌倉時代の末から室町時代の初めにかけての盗掘であることが判明していると記しています。盗掘の時期まで分かるのは、盗掘した側が道具や器を落としていったためです。
600年以上前に開けられた穴が、いまも墳丘に残っている。古墳の被葬者がわからなくなった理由の多くは、こうした中世の盗掘にあります。
多角形の墳丘という選択
明日香村はこの古墳を多角形墳と説明しています。円でも四角でもない、角のある墳丘です。
7世紀の終わりごろ、飛鳥のまわりでは墳丘の形が大きく変わりました。前方後円墳は造られなくなり、方墳・円墳のほかに、八角形の墳丘が現れます。斉明天皇の墓と考えられている牽牛子塚古墳や、草壁皇子の墓とする説がある束明神古墳がそれにあたります。
形は身分の差を表していたと考えられています。マルコ山古墳が多角形であることは、被葬者が皇族であったとする見方を支える手がかりのひとつになっています。
マルコ山古墳から出土したもの
出土品は多くありません。中世に盗掘されているからです。
明日香村が挙げているのは、乾漆棺の破片と、棺を飾っていた金銅製の六花形文様の金具です。どちらも棺そのものに付いていたもので、副葬品の本体は失われたと考えられます。
それでも、この2つだけで被葬者の格はうかがえます。乾漆の棺は、当時ごく限られた人にしか使われていません。
乾漆棺の破片
漆を塗り固めて作った棺のかけら。当時の最上級の棺で、皇族の墓と考える手がかりになっている。
金銅製の六花形文様の金具
棺を飾っていた金具。六弁の花をかたどっており、金銅で仕上げられている。
盗掘者の遺留品
盗掘孔の中に残されていたもの。鎌倉末から室町初めという盗掘の時期は、これから判明した。
マルコ山古墳と関連する古墳
マルコ山古墳についてよくある質問
マルコ山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。明日香村は「被葬者は天武天皇の皇子説などがある」と記すにとどめており、宮内庁の陵墓としての治定もありません。乾漆の棺や金銅の飾り金具が出ていることから皇族の墓と考えられていますが、誰かは決まっていません。
マルコ山古墳はどこにありますか。
奈良県高市郡明日香村真弓です。明日香村は「地ノ窪集落の東に位置する」と説明しています。最寄り駅からの道順は、公式のページでは確かめられませんでした。
マルコ山古墳の大きさはどれくらいですか。
明日香村によれば、墳丘の対角長が24メートル、高さが4.5メートルほどです。周囲には直径24メートルの石敷きがめぐり、史跡として指定されている面積は3,029平方メートルです。
マルコ山古墳はいつ作られたのですか。
明日香村は7世紀末後半から末の終末期古墳としています。高松塚古墳やキトラ古墳とほぼ同じころで、前方後円墳が造られなくなったあとの時代にあたります。
マルコ山古墳の中に入れますか。
石槨の内部を見学できるという案内は、公式のページでは確認できませんでした。墳丘は丘として残っており、外から見ることはできます。壁画はありません。
マルコ山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
横口式石槨(よこぐちしきせっかく)
棺を納める箱を石で組み、南側に小さな入口をあけた埋葬施設。7世紀の終末期古墳に多い。
版築(はんちく)
土を薄く敷いては突き固める作業をくり返し、丈夫な盛り土や壁をつくる技法。
乾漆棺(かんしつかん)
布と漆を重ねて作った棺。手間がかかり、限られた身分の人にしか使われなかった。
終末期古墳(しゅうまつきこふん)
前方後円墳が造られなくなったあと、おもに7世紀に営まれた古墳。小さく、石の細工に凝るものが多い。
多角形墳(たかっけいふん)
墳丘を多角形につくった古墳。八角墳もその一種で、飛鳥時代の終わりごろに現れる。
マルコ山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。