草壁皇子の墓とする見方が有力な、凝灰岩のブロックを組んだ古墳。
束明神古墳とはどんな古墳か
束明神古墳は、奈良県高市郡高取町佐田にある終末期の古墳です。奈良県は、7世紀末に築造された古墳時代終末期の古墳と説明しています。
造り方が変わっています。丘陵の尾根を大きく造成して1辺60メートルの平坦面をつくり、その中央に1辺36メートルの墳丘を版築で築いています。山をまるごと削って土台にしたということです。
墳丘の中には、1辺60センチメートルの凝灰岩のブロックを、唐尺の黄金分割で組み合わせた石槨が構築されていました。切石を積み上げてつくる、当時としても特別な埋葬施設です。
奈良県は、被葬者を天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇太子、草壁皇子であると有力視されている、と記しています。国の史跡には指定されていません。
束明神古墳の読み方と別名
読みは「つかみょうじんこふん」です。奈良県のページは見出しを「佐田束明神古墳」としており、所在地の大字である佐田を冠した形も使われます。
「束明神」は、この場所に伝わる社の名です。古墳そのものにこの名が付いたのは、墳丘が長く塚として扱われてきたためです。古墳としての中身が明らかになったのは、発掘調査が行われてからのことでした。
検索では「束明神古墳 草壁皇子」と組み合わせて調べられます。
束明神古墳(つかみょうじんこふん)
もっとも広く使われる表記。奈良県の歴史文化資源データベースにも収められている。
佐田束明神古墳(さだつかみょうじんこふん)
奈良県のページの見出しはこの形。所在地の大字である佐田を冠している。
草壁皇子の墓(くさかべのみこのはか)
被葬者を草壁皇子とする見方が有力なため、こう説明されることがある。ただし確定はしていない。
束明神古墳は誰の墓か
束明神古墳の被葬者は、確定していません。ただし、名前がはっきり挙がっている数少ない古墳のひとつです。
奈良県は次のように書いています。
これらのことから、束明神古墳の被葬者は、天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇太子の草壁皇子であると有力視されています。
根拠は3つです。ひとつは規模で、丘陵を大きく造成して1辺60メートルの平坦面をつくるという工事は、限られた立場の人にしかできません。ふたつめは石槨で、1辺60センチメートルの凝灰岩のブロックを組んだ造りは特別です。みっつめは歯で、奈良県は歯牙の鑑定から被葬者を青年の男子と推定しています。
草壁皇子は28歳の若さで急逝したと奈良県は記しています。年齢の推定と、伝えられる草壁皇子の死とが、無理なく重なります。
それでも「有力視」であって、決着ではありません。
学術的な見方のひとつ:草壁皇子(岡宮天皇)
石槨の規模と、歯牙の鑑定による青年の男子という推定から有力視されている、と記す。
出土した歯から言えること:青年の男子(人名は不明)
歯牙の鑑定で分かるのはここまで。名前を示すものは出ていない。
束明神古墳の大きさと形
奈良県が示す数字は、墳丘そのものより土木工事の規模が目を引きます。
まず丘陵の尾根を大きく造成して、1辺60メートルの平坦面をつくります。そのうえで、中央に1辺36メートルの墳丘を版築で築きました。版築とは、土を薄く敷いては突き固める作業をくり返す工法です。
墳丘の中に構築された石槨は、1辺60センチメートルの凝灰岩のブロックを組み合わせたものでした。奈良県は、これを唐尺の黄金分割で組み合わせたと説明しています。唐尺とは、当時の中国から入ってきた物差しのことです。
墳丘の形は八角形であったとする見方が知られていますが、奈良県の説明は墳丘を1辺36メートルと記すにとどまっています。山を削って台をつくり、その上に土を突き固めて塚を築き、中に石の箱を積む。三重の手間がかかっています。
造成した平坦面の一辺:1辺60メートル
墳丘の一辺:1辺36メートル
石槨に使われた凝灰岩ブロックの一辺:1辺60センチメートル
築造の時期:7世紀末
出土した歯から推定される被葬者:青年の男子
束明神古墳はいつ作られたか
束明神古墳の場所と行き方(観光情報)
高取町には、奈良県が同じページで紹介する国史跡の与楽古墳群もあります。
また、この古墳の石槨は復元されて別の場所で展示されていると伝えられますが、展示場所と公開の条件は、公式のページでは確かめられませんでした。
束明神古墳
束明神古墳の住所:奈良県高市郡高取町大宇佐田字ヲヒラ742
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:石槨の内部を見学できるという案内は、公式のページでは確認できませんでした
奈良県は所在地を「奈良県高市郡高取町大宇佐田字ヲヒラ742」と番地まで示しています。ただし行き方・駐車場・料金は、公式のページでは確かめられませんでした。
奈良県のページには「各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください」との断り書きがあります。訪ねる前に高取町へ確認してください。国の史跡ではないため、整備された見学路があるとは限りません。
束明神古墳の発見と調査の歩み
歯が語った、若い被葬者
この古墳から出たもののうち、いちばん多くを語ったのは歯でした。
奈良県は、出土品として棺金具と鉄釘、須恵器・土師器、漆片、歯牙などを挙げたうえで、歯牙の鑑定から被葬者は青年の男子と推定されていると記しています。
副葬品は失われ、名を記したものは何も残っていませんでした。それでも歯が残っていれば、年齢のおおよそと性別が読めます。誰かは分からなくても、若い男性であったことだけは分かる。この一点が、草壁皇子を有力視する議論を支えています。
漆の残片からは、棺が漆塗りであったことも分かりました。
陵に指定されそうになって、壊された墳丘
この古墳には、少し変わった伝承が残っています。奈良県は「当資源と関連する伝承」として、次のように記しています。
明治政府による岡宮天皇(草壁皇子)御陵指定時に地元村民の立ち退きを恐れ、一部が破壊された。
陵に定められると、その一帯は国の管理下に入ります。田畑も家も失いかねない。だから村人は、墳丘を自分たちの手で壊したというのです。
古墳が守られてきた理由も、壊されてきた理由も、そこに人が住んでいたからでした。結果として、この古墳は国の史跡にも指定されないまま今に残っています。
束明神古墳から出土したもの
副葬品そのものは残っていませんでした。墳丘は明治の御陵指定のときに一部が壊されており、豪華な品は伝わっていません。
奈良県が挙げているのは、棺金具・鉄釘・須恵器・土師器・漆片・歯牙です。どれも華やかなものではありませんが、棺の作りと被葬者の年齢という、いちばん知りたいことを教えてくれました。
豪華な品が残らなくても、古墳は語ります。
棺金具
棺に取り付けられていた金具。漆塗りの木棺が使われていたことを示す。
鉄釘
木棺を組み立てるのに使われた釘。石槨のなかから見つかっている。
須恵器・土師器
古墳から出土した土器。築造の時期を知る手がかりになる。
漆片
漆の残片。奈良県は、これらから木棺は漆塗り棺と考えられると記す。
歯牙
被葬者の歯。鑑定によって青年の男子と推定された。
束明神古墳と関連する古墳
束明神古墳についてよくある質問
束明神古墳は誰の墓ですか。
確定していません。奈良県は、天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇太子・草壁皇子であると有力視されていると記しています。出土した歯の鑑定では青年の男子と推定されており、名前まで示すものは出ていません。
束明神古墳はどこにありますか。
奈良県高市郡高取町大宇佐田字ヲヒラ742です。行き方は公式のページでは確かめられませんでした。
束明神古墳の大きさはどれくらいですか。
奈良県によれば、丘陵の尾根を造成して1辺60メートルの平坦面をつくり、その中央に1辺36メートルの墳丘を築いています。石槨には1辺60センチメートルの凝灰岩のブロックが使われました。
束明神古墳はいつ作られたのですか。
奈良県は7世紀末の築造としています。古墳時代終末期にあたり、マルコ山古墳や牽牛子塚古墳とほぼ同じころです。
束明神古墳は国の史跡ですか。
いいえ。奈良県のページの指定内容の欄は空で、国の史跡には指定されていません。宮内庁の陵墓としての治定も確認できませんでした。
束明神古墳と併せて覚えたい言葉・用語
版築(はんちく)
土を薄く敷いては突き固める作業をくり返し、丈夫な盛り土をつくる技法。
横口式石槨(よこぐちしきせっかく)
石を組んだ箱に小さな入口をあけた埋葬施設。7世紀の終末期古墳に多い。
唐尺(とうじゃく)
当時の中国から伝わった物差し。石の寸法を割り付けるのに使われた。
八角墳(はっかくふん)
墳丘を八角形につくった古墳。7世紀の天皇や皇族の墓に見られる。
終末期古墳(しゅうまつきこふん)
前方後円墳が造られなくなったあと、おもに7世紀に営まれた古墳。
束明神古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。