東西約45メートル。崇峻天皇の墓ではないかと語られてきた大方墳。
赤坂天王山古墳とはどんな古墳か
赤坂天王山古墳は、奈良県桜井市倉橋にある方墳です。国の史跡としての指定名称は「天王山古墳」で、1954年(昭和29年)12月25日に指定されました。
文化庁は、この古墳を「赤阪と称せられる丘陵上にあり、東西約45メートル、南北約42メートル、高さ約9.4メートルを有する方形墳」と記しています。墳丘は三段に築成され、ほぼ中央に南を向いた横穴式石室があります。
石室のなかには家形石棺が備えられています。凝灰岩でつくられ、蓋の部分は家の屋根の形。その前後左右に縄掛突起があり、身の部分は彫り抜いた箱の形をしています。
文化庁は、方形墳としてほぼ完好の封土を有し、殊に石室及び石棺を備え、この種の古墳として学術上の価値は高い、と評価しています。
赤坂天王山古墳の読み方と別名
読みは「あかさかてんのうざんこふん」です。国の史跡としての指定名称は「天王山古墳」で、赤坂が付きません。文化庁のふりがなも「てんのうざんこふん」です。
2つの呼び方が並んでいるのは、文化財としての名前と、現地での呼び方が違うためです。文化庁の解説文は、この丘陵を「赤阪と称せられる」と書いています。
「天王山」という名は各地にあるため、検索するときは「赤坂天王山古墳」と入れたほうが確実です。
赤坂天王山古墳(あかさかてんのうざんこふん)
現地でふつうに使われる呼び方。文化庁は丘陵を「赤阪と称せられる」と記している。
天王山古墳(てんのうざんこふん)
国の史跡としての指定名称。文化庁のふりがなも「てんのうざんこふん」で、赤坂が付かない。
赤坂天王山1号墳(あかさかてんのうざんいちごうふん)
同じ尾根に古墳が並ぶため、番号を付けて呼び分けることがある。
赤坂天王山古墳は誰の墓か
赤坂天王山古墳の被葬者はわかっていません。
この古墳をめぐっては、第32代崇峻天皇の墓ではないか、という見方が長く語られてきました。ただし、宮内庁が崇峻天皇の陵として管理しているのは、この古墳ではありません。
宮内庁は、崇峻天皇の陵を「倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)」とし、所在地を奈良県桜井市大字倉橋、陵形を円丘としています。
一方、文化庁が史跡「天王山古墳」として記録しているのは、東西約45メートル・南北約42メートルの方形墳です。同じ倉橋という土地にありながら、宮内庁の治定した陵は円丘、こちらは方墳。形が違います。
文化庁の解説文には、被葬者を示す記述はありません。宮内庁の治定も、発掘によって裏づけられたものではありません。どちらが崇峻天皇の墓なのかは、決着していません。
宮内庁の治定(ただし別の場所):崇峻天皇
崇峻天皇の陵は倉梯岡陵とされ、所在地は奈良県桜井市大字倉橋、陵形は円丘。この古墳ではない。
断定できない:特定できていない
史跡「天王山古墳」の解説文に、被葬者を示す記述はない。
赤坂天王山古墳の大きさと形
文化庁の詳細解説は、墳丘を次のように記しています。東西約45メートル、南北約42メートル、高さ約9.4メートル。三段に築成された方形墳です。
墳丘のほぼ中央に、南を向いた横穴式石室があります。石室は羨道と玄室からなり、玄室の中央部からやや奥壁に寄った位置に石棺が据えられています。
石棺は凝灰岩製で、蓋の部分は家の屋根の形。その前後左右に縄掛突起が付き、身の部分は彫り抜いた箱の形をしています。
文化庁は「方形墳としてほぼ完好の封土を有し」と書いています。削られずに、当時の盛り土がほぼそのまま残っているということです。この時期の方墳としては、めずらしい残り方です。
墳丘の東西:東西約45メートル
墳丘の南北:南北約42メートル
墳丘の高さ:約9.4メートル
墳丘の段数:三段に築成
史跡の指定年月日:1954年(昭和29年)12月25日
赤坂天王山古墳はいつ作られたか
赤坂天王山古墳の場所と行き方(観光情報)
倉橋という土地には、宮内庁が管理する崇峻天皇の倉梯岡陵と、国の史跡である天王山古墳が、どちらも存在します。名前が似ているので、訪ねるときは取り違えないよう注意してください。
宮内庁の陵は拝所から参拝でき、こちらは丘陵の上の史跡です。同じ桜井市には、既存の記事で扱った箸墓古墳もあります。
天王山古墳(赤坂天王山古墳)
天王山古墳(赤坂天王山古墳)の住所:桜井市倉橋
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:石室の公開について、公式のページでは確認できませんでした
文化庁が示す所在地は「桜井市倉橋」までです。番地・行き方・駐車場・料金は、公式のページでは確かめられませんでした。
参考になるのは、同じ倉橋にある宮内庁の陵です。宮内庁は崇峻天皇の倉梯岡陵について、所在地を奈良県桜井市大字倉橋、交通アクセスを「(バス停)倉橋から徒歩約3分」、参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分〜17時」と案内しています。
ただしこれは別の場所の案内です。赤坂天王山古墳そのものの行き方ではありません。
赤坂天王山古墳の発見と調査の歩み
宮内庁の陵と、国の史跡が、同じ土地に並ぶ
倉橋という土地には、崇峻天皇にかかわるものが2つあります。
ひとつは宮内庁が管理する倉梯岡陵です。宮内庁は所在地を奈良県桜井市大字倉橋、陵形を円丘としています。もうひとつが、国の史跡天王山古墳、すなわちこの赤坂天王山古墳です。文化庁は東西約45メートル・南北約42メートルの方形墳としています。
円丘と方墳。同じ天皇の墓の候補が2つあり、形が違う。宮内庁が定めた陵と、考古学が注目する古墳が食い違っている典型例が、この倉橋にあります。
ほぼ完好の封土という評価
文化庁の指定理由は短く、そして強い言葉で書かれています。
方形墳としてほぼ完好の封土を有し、殊に石室及び石棺を備え、この種の古墳として学術上の価値は高い。
「完好の封土」とは、盛り土がほとんど崩れずに残っている、という意味です。古墳は多くが削られ、耕され、家が建ちます。三段の築成が残り、石室も石棺もそろっている方墳は多くありません。
中身より、残り方そのものが評価された古墳です。指定は1954年(昭和29年)12月25日でした。
家形石棺の縄掛突起
石室のなかの石棺は、凝灰岩でつくられています。文化庁は、蓋部が家の屋根の形をしており、その前後左右に縄掛突起を持つと記しています。身の部分は、石をくり抜いた箱の形です。
縄掛突起とは、蓋や身の側面に出っ張らせた突起のことです。ここに縄をかけて、重い石を引いたり吊ったりしました。運ぶための取っ手が、そのまま形として残ったものです。
同じ造りの石棺は、京都府の物集女車塚古墳にもあります。向日市は、蓋や底の石にある出っ張りを縄掛突起と呼び、重い石に縄をかけて運んだと考えられている、と説明しています。
赤坂天王山古墳から出土したもの
文化庁の解説文には、石室から取り出された品の記載がありません。
記録されているのは、石室そのものと、そこに据えられた石棺だけです。副葬品が何もなかったのか、それとも記録が残らなかったのかも、公式のページからは読み取れません。「出土品は確認できませんでした」と書くほかない古墳です。
それでも、石棺が動かされずに残っていることは大きな価値です。
刳抜式の家形石棺
凝灰岩を彫り抜いてつくった石の棺。玄室の中央部からやや奥壁に寄った位置に据えられている。
石棺の蓋
家の屋根の形をしており、その前後左右に縄掛突起がある。
石棺の身
石をくり抜いた箱の形。蓋と組み合わせて使われた。
赤坂天王山古墳と関連する古墳
赤坂天王山古墳についてよくある質問
赤坂天王山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。崇峻天皇の墓ではないかという見方が長く語られてきましたが、宮内庁は崇峻天皇の陵を倉梯岡陵とし、その陵形を円丘としています。この古墳は東西約45メートルの方墳で、形が違います。
赤坂天王山古墳はどこにありますか。
奈良県桜井市倉橋です。文化庁は所在地を「桜井市倉橋」と記しています。番地や行き方は、公式のページでは確かめられませんでした。
赤坂天王山古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁によれば、東西約45メートル、南北約42メートル、高さ約9.4メートルの方形墳です。墳丘は三段に築成されています。
赤坂天王山古墳はいつ作られたのですか。
公式の記録に年代は書かれていません。文化庁のデータベースは時代の欄も年代の欄も空のままで、築造の時期は絞りこまれていません。
赤坂天王山古墳と天王山古墳は同じですか。
同じ1基です。「天王山古墳」は国の史跡としての指定名称で、文化庁のふりがなも「てんのうざんこふん」です。現地では「赤坂天王山古墳」と呼ばれます。
赤坂天王山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
方墳(ほうふん)
墳丘を四角く築いた古墳。7世紀ごろの有力者の墓に多い。
縄掛突起(なわかけとっき)
石棺の蓋や身の側面に出した突起。縄をかけて重い石を運ぶために使われた。
刳抜式石棺(くりぬきしきせっかん)
1つの石をくり抜いて作った棺。板石を組み立てる組合式と区別する。
治定(じじょう)
宮内庁がどの陵墓を誰の墓と定めること。学術的な確定とは別のもの。
封土(ほうど)
古墳の盛り土のこと。文化庁はこの古墳の封土を「ほぼ完好」と評価している。
赤坂天王山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。