仲哀天皇陵として治定されるが、雄略天皇の墓とする説が強い巨大古墳。
岡ミサンザイ古墳とはどんな古墳か
大阪府藤井寺市にある前方後円墳で、古市古墳群の西端に位置します。宮内庁は第14代仲哀天皇の惠我長野西陵として管理し、所在地を大阪府藤井寺市藤井寺4丁目としています。
藤井寺市は「羽曳野丘陵の北東部外縁に築造された墳丘長242メートルの前方後円墳」とし、前方部を南南西に向け、三段築成で、くびれ部の東側だけに造出しを備え、主軸線上で幅50メートルを測る幅広の濠と堤をめぐらせていると書いています。
平成8年の宮内庁の発掘調査で、墳丘は中世に城郭として利用され、大規模な改変を受けていたことがわかりました。古墳名の「岡」は地名、「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」がなまったものとされます。堺市の全国の一覧では第16位、約242メートルです。
岡ミサンザイ古墳の読み方と別名
読みは「おかみさんざいこふん」です。「ミサンザイ」を片仮名で書くのがふつうです。
ミサンザイは、陵を意味する「ミササギ」がなまった言葉だとされます。つまり「岡にある陵」という、ごく素朴な呼び名です。堺市のニサンザイ古墳や上石津ミサンザイ古墳も同じ語から来ています。
意味が「陵」なのですから、この名自体は誰の墓かを語りません。宮内庁の陵名は惠我長野西陵。恵我も長野も、この一帯の古い地名です。
岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)
考古学の側からの呼び方。「岡」は地名、「ミサンザイ」は陵を意味するミササギの転訛とされる。
惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)
宮内庁が定める陵名。恵我長野西陵とも書く。仲哀天皇の陵として管理されている。
仲哀天皇陵古墳(ちゅうあいてんのうりょうこふん)
治定にもとづく呼び方。堺市の一覧にも「仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)」と併記される。
岡ミサンザイ古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
宮内庁は第14代仲哀天皇の陵として管理しています。ただしこの治定は古くからのものではありません。陵の所在は中世に見失われ、幕末の文久3年にこの古墳が仲哀天皇陵と定められ、そのまま今日に踏襲されています。
藤井寺市は築造年代を、埴輪の特徴から5世紀後葉から末頃としています。仲哀天皇の想定される年代とは合いません。そこで近年は、第21代雄略天皇や、同じ人物とされる倭王武の陵とみる説が有力になっています。
雄略天皇は、稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた「ワカタケル大王」と結びつけられる大王です。ただし史書に見える地名の考証には課題が残っています。
宮内庁の治定:第14代仲哀天皇
惠我長野西陵として管理される。治定は幕末の文久3年に定められ、そのまま踏襲されている。
断定できない:わかっていない
藤井寺市は「内部施設や副葬品については不明」と書き、被葬者にはふれていない。
学術的な見方のひとつ:第21代雄略天皇
宮内庁は雄略天皇の陵を羽曳野市島泉の丹比高鷲原陵としており、この古墳ではない。
岡ミサンザイ古墳の大きさと形
藤井寺市のページには、この古墳の大きさとして二つの数字が並んでいます。表の欄には墳丘長245メートル、本文には墳丘長242メートルと書かれています。堺市の全国の一覧は約242メートルで第16位です。
同じ市の同じページの中で、3メートルの差があります。古墳の大きさは、測り直されるたびに書き換わります。いたすけ古墳でも、堺市の約146メートルと文化庁の約140メートルが並んでいます。
藤井寺市は、濠の幅を主軸線上で50メートルとし、その外に堤がめぐると書いています。
墳丘長(本文):242メートル
墳丘長(表の欄):245メートル
濠の幅:主軸線上で50メートル
全国での順位:第16位(約242メートル)
岡ミサンザイ古墳はいつ作られたか
岡ミサンザイ古墳の場所と行き方(観光情報)
岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇 惠我長野西陵)
岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇 惠我長野西陵)の住所:大阪府藤井寺市藤井寺4丁目
交通:近鉄 藤井寺駅から徒歩約14分(宮内庁)
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝できます。宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています。
藤井寺市は、この古墳が「藤井寺市の南西部、藤井寺4丁目の住宅地の中にあります」と書いています。巨大な古墳が、家並みのすぐ隣にあります。
北へ約100メートルには、陪塚とされる鉢塚古墳があり、その濠の跡には幼稚園が建っています。東へ約50メートルには割塚古墳があります。どちらも国の史跡ですが、住宅地の中にひっそりとたたずんでいる、と藤井寺市は書いています。
岡ミサンザイ古墳の発見と調査の歩み
古墳が城になった日
平成8年、宮内庁書陵部が墳丘の裾と外堤の護岸工事に先立って発掘調査を行いました。そこでわかったのは、この古墳が中世に城として使われていたということです。
近年の城郭考古学では、測量図をもとに、後円部が本丸、前方部が櫓台とされ、前方部の先端に横堀が切られ、数本の竪堀が入れられて、古墳全域が城郭化された様子が指摘されています。
大坂夏の陣では、この一帯で道明寺・誉田の戦いが起きました。古市古墳群の西端にあるこの古墳に豊臣方が拠点を置き、東から来る徳川方に対して古墳の列を防衛線に見立てたとする説があります。
陪塚が減っていく
藤井寺市は、この古墳のまわりにある古墳を丁寧に説明しています。北へ約100メートルに鉢塚古墳、東へ約50メートルに割塚古墳。消えたものとして、落塚古墳と岡古墳があります。
藤井寺市によれば、鉢塚古墳と落塚古墳は岡ミサンザイ古墳と同じ時期に造られており、陪塚として理解できます。いっぽう割塚古墳と岡古墳は1世紀も前のもので、陪塚ではありません。
同じように隣にあっても、同時に造られたものとそうでないものがある。これは古墳を読むときの大切な区別です。前の時代の市野山古墳に比べ、この段階では陪塚の数が激減します。墓のまわりに従者の墓を並べる習わしが、終わりに向かっていました。
岡ミサンザイ古墳から出土したもの
藤井寺市は「内部施設や副葬品については不明」と書いています。墳丘は宮内庁が管理しており、掘ることができないためです。
わかっているのは、外堤で行われた調査の成果だけです。それでも、大型前方後円墳をどう造ったかを知る手がかりが得られています。葺石は認められていません。
円筒埴輪
外堤の上で列になって確認されている。藤井寺市が発掘調査の成果として記す。
盾形埴輪
墳丘と外堤から出土。窖窯で焼かれた製品で、両者に共通の特徴がある。
形象埴輪
東側の大溝の調査で、家形・盾形・靫形・蓋形・人物埴輪が出土している。
大溝
周堤に直交する溝。濠を掘ったときの湧水を段丘の外へ流す施設とみられる。
岡ミサンザイ古墳と関連する古墳
岡ミサンザイ古墳についてよくある質問
岡ミサンザイ古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は第14代仲哀天皇の惠我長野西陵として管理しています。ただし築造は5世紀後葉から末頃とされ、年代が合わないため、第21代雄略天皇や倭王武の陵とする説が有力です。
岡ミサンザイ古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を大阪府藤井寺市藤井寺4丁目としています。近鉄藤井寺駅から徒歩約14分。藤井寺市は「藤井寺4丁目の住宅地の中にあります」と書いています。
岡ミサンザイ古墳の大きさはどれくらいですか。
藤井寺市は本文で242メートル、表の欄で245メートルとしています。堺市の全国の一覧では約242メートルで第16位です。濠の幅は主軸線上で50メートルです。
岡ミサンザイ古墳はいつ作られましたか。
藤井寺市は、埴輪の特徴から5世紀後葉から末頃としています。市野山古墳よりも新しく、ボケ山古墳よりも古い様相がうかがえるとされます。
岡ミサンザイ古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、原則として年間をとおして参拝可能、時間は8時30分から17時とされています。
岡ミサンザイ古墳と併せて覚えたい言葉・用語
ミサンザイ(みさんざい)
陵を意味する「ミササギ」がなまった言葉。古墳の名として各地に残る。
造出し(つくりだし)
墳丘のくびれ部に張り出した平らな壇。祭りを行った場所と考えられている。
陪塚(ばいちょう)
大きな古墳のそばに寄り添うように築かれた小さな古墳。同じ時期に造られたものを指す。
窖窯(あながま)
斜面に穴を掘って造った窯。高い温度で焼けるため、硬い埴輪が作れる。
岡ミサンザイ古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。