二重の濠をもちながら、葺石も埴輪も見つかっていない吉備の巨大古墳。
両宮山古墳とはどんな古墳か
岡山県赤磐市穂崎・和田にある巨大な前方後円墳です。堺市の古墳大きさランキング(日本全国版)は全長約200メートルとして挙げ、所在地を岡山県赤磐市としています。文化庁の解説文は、周濠と堤をもつ前方後円墳とし、追加指定の説明では全長192メートルとしています。
備前地方では最大、岡山県では造山古墳・作山古墳に次ぐ規模です。内側の濠はいまも水をたたえ、両宮池という農業用のため池として使われています。
これだけの大きさをもちながら、墳丘の表面から葺石も埴輪も見つかっていない点が、この古墳の大きな謎とされています。国の史跡には1927年4月8日に指定され、2006年1月26日に外濠の部分が追加指定されました。
両宮山古墳の読み方と別名
読みは「りょうぐうざんこふん」です。文化庁のデータベースも、ふりがなを「りょうぐうざんこふん」としています。「りょうみややま」ではありません。
名の由来は、前方部の上に造営された両宮神社です。古墳の上に建った社の名が、そのまま古墳の名になりました。静岡県の浅間古墳と同じです。
この古墳を主墳とする古墳群は、両宮山古墳群、または西高月古墳群と呼ばれます。この古墳には宮内庁の治定にもとづく別名はありません。国の史跡として扱われているためです。
両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)
文化庁のデータベースが用いるふりがなは「りょうぐうざんこふん」。前方部にある両宮神社にちなむ。
両宮山古墳群(りょうぐうざんこふんぐん)
この古墳を主墳とする古墳群の名。西高月古墳群とも呼ばれ、前方後円墳4基などからなる。
和田茶臼山古墳(わだちゃうすやまこふん)
後円部の北にある陪塚。文化庁は1978年に史跡範囲へ追加指定した。
両宮山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。埋葬施設が未調査であるため、被葬者を直接示すものは何も見つかっていません。
この古墳は宮内庁の陵墓にも陵墓参考地にも入っておらず、国の史跡として扱われています。文化庁の解説文も、墳丘の規模と造出について記すだけで、被葬者には触れていません。
手がかりは、古墳の造りにあります。二重の周濠は畿内の大王墓に目立つ特徴で、吉備地方では例が少ないため、被葬者の格式の高さが示唆されます。築造の企画としては、大仙陵古墳との類似が指摘され、比較するとおよそ五分の二の相似形になるとされます。
いっぽうで、日本書紀の雄略天皇紀に見える吉備氏の乱と、この古墳のあと吉備で古墳の規模が縮小することとを結びつける見方もあります。反乱そのもの、あるいはその後の吉備勢力の没落によって被葬者の葬送儀式が行われず、葺石や埴輪を置く最終段階の工事も行われなかったのではないか、という説です。
断定できない:わかっていない
解説文は墳丘の規模と造出を記すが、被葬者については触れていない。
陵墓ではなく、国の史跡として扱われている:宮内庁の治定は無い
2026年の『史跡両宮山古墳墳丘裾保存整備工事報告書』を赤磐市教育委員会が発行している。
両宮山古墳の大きさと形
堺市の古墳大きさランキング(日本全国版)は、この古墳を全長約200メートルとして挙げています。いっぽう文化庁の追加指定の説明は、周濠をもつ全長192メートルの大規模な前方後円墳としています。同じ古墳に、200メートルと192メートルという二つの数字があります。
文化庁の古い解説文は、尺という単位で規模を記しています。封土の高さは前方部が約六十尺、後円部が約五十七尺、全長は約六百六十尺。一尺はおよそ0.303メートルです。
墳丘の左右のくびれ部には円形の造出があります。周囲には二重の周濠がめぐり、外濠は周辺の田畑に埋もれていますが、内濠はいまも水をたたえています。後円部の北には、径20メートル・二段築成の円墳である陪塚の茶臼山古墳があります。
墳丘の長さ(堺市の一覧):約200メートル
全長(文化庁の追加指定の説明):192メートル
封土の高さ(文化庁の解説文):前方部約六十尺・後円部約五十七尺
陪塚(茶臼山古墳)の径:20メートル
両宮山古墳はいつ作られたか
築造は5世紀後半、古墳時代中期と推定されています。吉備の三大古墳としては、造山古墳、作山古墳に次ぐ三番目の築造にあたります。
ただし、前の二基とは性格が違います。造山古墳と作山古墳には葺石と埴輪がありますが、この古墳にはどちらも見つかっていません。いっぽうで、二重の周濠という畿内の大王墓に見られる造りを採り入れており、「畿内型」の様相が強いとされます。
この古墳のあと、吉備の首長の墓は規模を縮めていきます。森山古墳が後を継ぐ墓と推測され、続いて朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳と小さくなっていきました。岡山県の古墳では、金蔵山古墳が4世紀後半から5世紀初頭、造山古墳が5世紀前半とされ、この古墳はその後になります。
両宮山古墳の場所と行き方(観光情報)
周辺には、備前国分寺跡、備前国分尼寺跡、大廻小廻山城跡といった史跡があります。
両宮山古墳の付近には、後世に古代山陽道が引かれています。同じことは造山古墳や作山古墳でも起きています。
両宮山古墳
両宮山古墳の住所:赤磐市穂崎・和田
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁の陵墓ではなく国の史跡ですので、陵墓のような立ち入り禁止の扱いは受けていません。ただし墳丘に登れるかどうかについては、公式のページで確認できませんでした。内濠は両宮池という農業用のため池として使われています
文化庁のデータベースは、所在都道府県を岡山県、所在地(市区町村)を赤磐市穂崎・和田としています。二つの大字にまたがっているためです。
古墳は本宮高倉山の南東の麓、扇状地の斜面に築かれています。墳丘の主軸を斜面と平行にとり、前方部を斜面の低いほう、南東に向けています。内濠は両宮池としていまも使われていますので、水をたたえた濠ごしに墳丘を見ることができます。
両宮山古墳の発見と調査の歩み
葺石も埴輪もない、という異例
全長200メートル級の前方後円墳で、墳丘の表面から葺石も埴輪も見つかっていない。これはきわめて異例のことです。
周辺の古墳を見ると、この異例さがよくわかります。両宮山古墳の前面にある森山古墳と正免東古墳には、葺石と埴輪があります。一帯の朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳でも、埴輪はいずれも検出されています。陪塚とみられる和田茶臼山古墳だけが、両宮山古墳と同じく葺石も埴輪も出ていません。
大きな古墳ほど、葺石と埴輪に手をかけるのがふつうです。それがないということは、途中で工事が止まった可能性を示します。日本書紀の雄略天皇紀に見える吉備氏の乱と結びつけ、被葬者の葬送儀式が行われず、最終段階の工事も行われなかったとする説が出されているのは、そのためです。
大仙陵古墳の、五分の二
この古墳の築造の企画については、大仙陵古墳や御廟野古墳との類似が指摘されています。大仙陵古墳と比べると、およそ五分の二の相似形になるとされます。
相似形になるということは、設計図が共有されていたことを意味します。墳丘の長さ、後円部の直径、前方部の幅といった比率がそろうのは、偶然では起こりません。
くわえて、二重の周濠という造りがあります。これは畿内の大王墓に目立つ特徴で、吉備地方では例が少ないものです。同じ設計で、縮小して造る。この関係から、両宮山古墳の被葬者の格式の高さと、畿内とのつながりの深さが読み取られています。周濠を含めた古墳の総長は349メートルにおよびます。
池になった濠
この古墳の内濠は、いまも水をたたえています。両宮池という農業用のため池として使われているためです。
古墳の濠が池として使われる例は各地にあります。水をためられる窪地が、そのまま実用になったからです。結果として、濠は埋められずに残りました。
いっぽう外濠のほうは、周辺の田畑に埋もれています。その存在が確かめられたのは、2002年度から2004年度にかけての調査です。外濠の発見によって、この古墳が二重の周濠をもつことがわかり、2006年1月26日に外濠の部分が史跡の範囲に追加指定されました。古墳の全体像がわかるまでに、指定から79年かかったことになります。
両宮山古墳から出土したもの
この古墳の埋葬施設は未調査で、副葬品は何も知られていません。それだけでなく、墳丘の表面から葺石も埴輪も検出されていないという点で、この古墳は他に例を見ません。
出土品がないぶん、わかっていることは古墳の造りに限られます。二重の周濠、高い造出、そして大仙陵古墳と相似形になる築造の企画。ものではなく、形が手がかりになっている古墳です。
造出
墳丘の左右のくびれ部に設けられた高い張り出し。文化庁の解説文にも記されている。
二重周濠
墳丘の周囲を二重にめぐる濠。内濠は両宮池として現存し、外濠は2000年代の調査で見つかった。
中堤
内濠と外濠のあいだの堤。2006年度から2007年度に保存修理工事が行われた。
両宮山古墳と関連する古墳
両宮山古墳についてよくある質問
両宮山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。埋葬施設が未調査で、被葬者を示すものは見つかっていません。二重の周濠から格式の高さがうかがえる、というところまでです。宮内庁の陵墓でもありません。
両宮山古墳はどこにありますか。
文化庁は所在地を赤磐市穂崎・和田としています。本宮高倉山の南東の麓、扇状地の斜面に築かれています。
両宮山古墳の大きさはどれくらいですか。
堺市の古墳大きさランキングは全長約200メートルとしています。文化庁の追加指定の説明は192メートルとしており、二つの数字があります。
両宮山古墳はいつ作られましたか。
5世紀後半、古墳時代中期と推定されています。吉備の三大古墳では、造山古墳、作山古墳に次ぐ三番目の築造です。
両宮山古墳に葺石や埴輪はありますか。
見つかっていません。全長200メートル級の前方後円墳としては異例で、工事が途中で止まった可能性を示すとして注目されています。
両宮山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
造出(つくりだし)
前方後円墳のくびれ部の横に張り出した壇のような部分。祭りを行った場所と考えられている。
二重周濠(にじゅうしゅうごう)
墳丘のまわりに二重にめぐらされた濠。畿内の大王墓に目立つ造りで、格式の高さを示すとされる。
相似形(そうじけい)
形は同じで大きさだけが違うこと。古墳では設計図が共有されていた証拠と考えられている。
中堤(なかつつみ)
内濠と外濠のあいだにある堤。二重周濠をもつ古墳に見られる。
両宮山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。