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静岡県

浅間古墳(富士市)とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

浅間古墳  / センゲンコフン

前方後方墳 4世紀

東海地方で最大規模とされる前方後方墳。海から見上げる姿に造られた。

浅間古墳とはどんな古墳か

静岡県富士市増川にある前方後方墳です。富士市は全長を約91メートルとし、東海地方で最大規模の前方後方墳、古墳時代前期後半(4世紀中頃)に築かれた東駿河地域の首長墓としています。国の史跡には昭和32年7月に指定されました。

いっぽう文化庁の解説文は、この古墳を「前方後円型」と書き、主軸の長さを約97メートルとしています。公式の資料のあいだで、形の見方も長さの数字も食い違っています。

愛鷹山麓から延びる丘陵の先端にあり、後方部を西に向けて立地します。北の山側と南の海側で高さが大きく違い、海側から見たときに大きく見えるように造られています。墳頂には浅間神社の社殿があり、これが古墳の名の由来です。

浅間古墳の読み方と別名

読みは「せんげんこふん」です。「あさま」ではなく「せんげん」と読みます。文化庁のデータベースも、ふりがなを「せんげんこふん」としています。

名の由来は、墳頂にある浅間神社の社殿です。文化庁の解説文にも「後円部に浅間神社の社殿が存し、やや旧規を損している」と記されています。古墳の上に社殿が建ったことで、その名が古墳の名になったという関係です。

このほか、考古学の上では増川I第一号古墳という整理上の名があります。地元では「浅間さん」の愛称で親しまれています。

浅間古墳(せんげんこふん)

文化庁のデータベースが用いるふりがなは「せんげんこふん」。富士市も同じ表記を用いる。

浅間神社古墳(せんげんじんじゃこふん)

墳頂に浅間神社の社殿があることによる呼び方。須津浅間神社、増川浅間神社とも呼ばれる。

増川I第一号古墳(ますかわいちだいいちごうこふん)

須津古墳群の増川I群に属する古墳としての整理番号にもとづく名。

浅間古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。富士市は、東駿河地域の首長墓としていますが、人物名は挙げていません。

これまでにいくつもの説が出されてきました。もっとも知られているのは、この一帯を治めた珠流河国造とする説です。歴史学者の原秀三郎は、珠流河国で最も古い古墳であることから、被葬者を初代の国造にあたる片堅石命とする説を提唱しています。

別の説として、歴史学者の仁藤敦史は、被葬者を富士郡の大領であった富士氏とする見方を示しています。ただし原秀三郎は、この一族の8世紀までの活躍が希薄であることを理由に否定しています。さらに、被葬者を中国の文化に深いかかわりのある人物とする説も出されています。

いずれも確かめられてはいません。この古墳では発掘調査が行われておらず、被葬者を直接示すものが見つかっていないためです。

学術的な見方のひとつ(人物名は特定されていません):東駿河地域の首長

古墳時代前期後半に築かれた東駿河地域の首長墓とみられる、と記す。人物名は挙げていない。

陵墓ではなく、国の史跡として扱われている:宮内庁の治定は無い

指定年月日を1957年7月1日、所在地を富士市増川とする。

浅間古墳の大きさと形

富士市は、この古墳の全長を約91メートルとし、東海地方で最大規模の前方後方墳としています。いっぽう文化庁の解説文は、主軸の長さを約97メートルとしています。同じ古墳に、91メートルと97メートルという二つの数字があります。

食い違っているのは長さだけではありません。文化庁の解説文は「前方後円型」と書き、富士市は前方後方墳としています。

令和2年度と3年度の空中レーザー測量で、後方部が二段、前方部が一段に築かれた前方後方墳であることが明らかになりました。また令和元年の地中レーダー探査では、後方部の中央に竪穴式石室あるいは粘土槨が埋設されている可能性を示す結果が得られています。

墳丘の全長(富士市):約91メートル

主軸の長さ(文化庁の解説文):約97メートル

石室と推定される部分の平面規模:長辺約7.4メートル・短辺約2.2メートル

浅間古墳はいつ作られたか

富士市は、この古墳を古墳時代前期後半(4世紀中頃)に築かれた東駿河地域の首長墓としています。

ただし、年代を決める手がかりは多くありません。発掘調査が行われておらず、築造時期を示す副葬品が見つかっていないためです。南が高く北が低いという立地や、葺石があることから年代が推し量られています。

4世紀中頃は、静岡県では高尾山古墳がすでに築かれ、三池平古墳がこれから築かれるころです。前方後方墳は前方後円墳に先行して築かれたという見方があり、この古墳が珠流河国で最も古い古墳とされる根拠のひとつになっています。

浅間古墳の場所と行き方(観光情報)

浅間古墳が属する須津古墳群は、209基以上の古墳から構成されます。中里K群・須津J群・増川I群に分かれ、浅間古墳は増川I群で最も古い一基です。

富士市は、須津千人塚古墳を一般公開しているとも案内しています。あわせて訪ねると、この地域の古墳の移り変わりがたどれます。

浅間古墳

地図で開く

浅間古墳の住所:富士市増川

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁の陵墓ではなく国の史跡ですので、陵墓のような立ち入り禁止の扱いは受けていません。墳頂には浅間神社の社殿があり、そのことは文化庁の解説文にも記されています。ただし墳丘に登れるかどうかは、公式のページで確認できませんでした

文化庁のデータベースは、所在都道府県を静岡県、所在地(市区町村)を富士市増川としています。富士市も、この古墳を富士市増川に所在するとしています。

古墳は愛鷹山麓から延びる丘陵の先端にあります。下の平野部から望むと、墳丘の側面を見上げることになります。行き方や駐車場は公式のページで確かめられませんでしたので、富士市の案内でご確認ください。

浅間古墳の発見と調査の歩み

  1. 海から見上げるために造られた
  2. 前方後円墳と書かれ続けた前方後方墳
  3. 掘らずに、中を見る

海から見上げるために造られた

この古墳は、北の山側と南の海側で高さが大きく違います。富士市は、空中レーザー測量の結果としてそのことが明確になったとしています。南側から見ると高く見上げるほどですが、見えない北側から見るとさほど高くありません。地形を巧みに利用して視覚効果を高め、見えないところには労力をかけずに、最大限大きく見えるようにしてあるということです。

富士市は、この点から、浅間古墳が墓としての性格に加えて、人々からどのように見えるかを強く意識して造られた記念碑的な性格をもつことが明らかになった、としています。築造当時は、墳頂から背後に富士山を仰ぎ、眼下に浮島沼を見下ろし、その向こうに駿河湾を一望できたと考えられています。

前方後円墳と書かれ続けた前方後方墳

文化庁の解説文は、この古墳を「前方部をほぼ東南に面する前方後円型」と書いています。富士市は前方後方墳としています。

この食い違いには経緯があります。1930年に編纂された『静岡県史』は、この古墳を前方後円墳と分類しました。当時は前方後方墳についての知識が浅く、掲載された実測図も不正確な略図だったためです。1955年の踏査でも、同じく前方後円墳とされました。

同じあやまりは、奈良県の新山古墳でも起きています。その後、令和2年度と3年度の空中レーザー測量によって、後方部二段・前方部一段築成の前方後方墳であることが明らかになりました。文化庁の解説文は、史跡指定の当時のものがそのまま残っています。

掘らずに、中を見る

この古墳では、これまで発掘調査が行われていません。そのため、埋葬施設の有無や構造は長くわからないままでした。

転機になったのは、令和元年に実施された地中レーダー探査です。地面を掘らずに電波で地下のようすを探る方法で、その結果、後方部の中央に竪穴式石室あるいは粘土槨が埋設されている可能性を示す結果が得られました。

富士市は、それが地表から2.0メートルから2.5メートルほどの深さにあり、平面規模は長辺約7.4メートル、短辺約2.2メートルと推定できるとしています。掘らずに、中に何があるかを推し量れるようになったということです。同じ方法は、掘ることのできない男狭穂塚古墳でも使われています。

浅間古墳から出土したもの

この古墳では発掘調査が行われていないため、出土品はほとんどわかっていません。須恵器が出土したとされますが、埴輪の有無についてはさまざまな意見に分かれ、いまも決着していません。

年代を決める副葬品が見つかっていないことが、築造時期を「4世紀中頃」とも「4世紀後半から5世紀初頭」とも書かせています。富士市は現在、国指定史跡浅間古墳の発掘調査を始めることを案内しています。

葺石

墳丘の全体に敷き詰められた直径20センチから50センチほどの河原石。社殿の基壇にも使われている。

周溝・空濠

墳丘の周囲の溝の痕跡。北東側の丘陵と墳丘の間に、幅16メートル・長さ50メートルの空濠の一部が残る。

須恵器

出土したとされる土器。ただし発掘調査が行われていないため、詳細は明らかでない。

埴輪

存在したという意見、していないという意見、不明とする意見に分かれる。確かめられていない。

浅間古墳と関連する古墳

浅間古墳についてよくある質問

浅間古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。富士市は東駿河地域の首長墓としていますが、人物名は挙げていません。珠流河国造とする説や富士氏とする説がありますが、確かめられてはいません。

浅間古墳はどこにありますか。

文化庁は所在地を富士市増川としています。愛鷹山麓から延びる丘陵の先端、標高53メートルの等高線と並行する位置に築かれています。

浅間古墳の大きさはどれくらいですか。

富士市は全長約91メートルとし、東海地方で最大規模の前方後方墳としています。文化庁の解説文は主軸の長さを約97メートルとしています。

浅間古墳はいつ作られましたか。

富士市は古墳時代前期後半、4世紀中頃としています。発掘調査が行われておらず年代を示す副葬品がないため、4世紀後半から5世紀初頭とする見方もあります。

浅間古墳は前方後円墳ですか、前方後方墳ですか。

富士市は前方後方墳としています。文化庁の解説文は「前方後円型」と書いていますが、これは史跡指定当時の記載で、その後の空中レーザー測量で前方後方墳と確かめられました。

浅間古墳と併せて覚えたい言葉・用語

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

後方部が四角い形の古墳。前方後円墳に先行して築かれたとする見方がある。

地中レーダー探査(ちちゅうれーだーたんさ)

地面を掘らずに電波で地下のようすを探る方法。掘れない古墳の調査に使われる。

国造(くにのみやつこ)

古代に地域を治めた首長の職。その勢力範囲は、前期の古墳の被葬者を考える手がかりとされる。

空濠(からぼり)

水を入れない濠。浅間古墳では、丘陵と墳丘を区切る北東側にその一部が残る。

浅間古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 富士市
  2. 文化庁