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岡山県

金蔵山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

金蔵山古墳  / キンゾウザンコフン

前方後円墳 4世紀5世紀

造山古墳が現れる前、西日本で最大だったとされる操山の前方後円墳。

金蔵山古墳とはどんな古墳か

岡山県岡山市中区にある大型の前方後円墳です。岡山市街の東にそびえる操山山塊の、ほぼ中央の山頂に築かれています。

奈良文化財研究所の全国文化財総覧には、岡山市教育委員会が2008年に出した『金蔵山古墳 -後円部墳端の調査-』が登録されており、円筒埴輪・形象埴輪・葺石・方形区画といった言葉が並びます。

後円部の墳頂には竪穴式石室が二基あり、中央石室には副葬品を納めるための副室が付きます。副室は調査の時点でこわされておらず、埴輪の盒に入った多くの副葬品が見つかりました。造山古墳が築かれるまでは、中国・四国・九州地方でいちばん大きい古墳だったとされます。文化庁は令和8年6月19日、文化審議会が史跡名勝天然記念物の新指定4件を答申したと発表しました。

金蔵山古墳の読み方と別名

この古墳の読みは、資料によって分かれています。この図鑑では「きんぞうざんこふん」を基本にしていますが、「かなくらやまこふん」と読む資料もあります。山の名を、音で読むか訓で読むかの違いです。

同じような読みの揺れは、福岡県の石人山古墳でも起きています。あちらは「せきじんさん」と「せきじんやま」で分かれます。

この古墳には、宮内庁の治定にもとづく別名はありません。陵墓でも陵墓参考地でもないためです。この古墳を含む古墳群は操山古墳群と呼ばれます。

金蔵山古墳(きんぞうざんこふん)

この図鑑で用いる読み。山の名を音で読んだ形で、地元でも広く使われている。

金蔵山古墳(かなくらやまこふん)

同じ古墳の別の読み。山の名を訓で読んだ形で、資料によってはこちらが用いられる。

操山古墳群(みさおやまこふんぐん)

この古墳を含む古墳群の名。岡山市街の東にある独立した山塊に広がる。

金蔵山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。宮内庁の陵墓にも陵墓参考地にも入っておらず、被葬者を示す文字資料も見つかっていません。

それでも、副葬品からわかることは多くあります。後円部の墳頂には竪穴式石室が二基あり、中央石室と南石室と呼ばれます。どちらも盗掘に遭っていますが、中央石室に付属する副室は完全な状態で残っていました。その中に埴輪の盒が4個置かれ、盒の内外から多くの副葬品が出土しています。南石室からは、変形二神四獣鏡をはじめとする多くの副葬品が出ています。

造山古墳が築かれるまでは中国・四国・九州地方で最大でした。吉備の勢力が巨大古墳を築く前の、その一歩手前の段階を示す首長の墓と考えられています。

断定できない:わかっていない

2008年の調査報告。外表施設・埴輪列・葺石などを扱い、被葬者については触れていない。

陵墓ではなく、史跡としての指定が答申された段階にある:宮内庁の治定は無い

令和8年6月19日の文化審議会答申の発表。ただし答申の一覧は別紙の資料にあり、本文では古墳名を確認できなかった。

金蔵山古墳の大きさと形

この古墳の墳丘の実測値については、公式のページで確かめられた記載がありませんでした。ここでは推測で数字を書かず、確かめられた項目だけを一覧に載せています。

わかっているのは、造りの特徴です。墳形は前方後円形で、前方部を北に向けています。墳丘は後円部で三段、前方部で二段に築かれ、外表では円筒埴輪列のほか形象埴輪と葺石が認められます。西のくびれ部には造出、東のくびれ部には島状遺構が付きます。

岡山市教育委員会が2008年に出した報告書の名は『金蔵山古墳 -後円部墳端の調査-』です。古墳の裾がどこまで広がるのかを確かめる調査で、後円部の墳端が押さえられました。2014年度以降も範囲確認調査が続けられ、2019年と2024年に報告が出ています。

調査報告書:『金蔵山古墳 -後円部墳端の調査-』(岡山市教育委員会、2008年)

確認された外表施設:円筒埴輪・形象埴輪・葺石・方形区画・埴輪列

文化審議会の答申日:令和8年6月19日

墳丘の実測値:公式には確認できませんでした

金蔵山古墳はいつ作られたか

築造は4世紀後半から5世紀初頭、古墳時代の前期から中期にかけてと推定されています。

この時期の吉備は、まだ造山古墳のような巨大古墳を築いていません。金蔵山古墳は、造山古墳が現れるまで、中国・四国・九州地方でいちばん大きい古墳でした。そのあと造山古墳、作山古墳両宮山古墳が築かれ、吉備の首長の墓は次第に規模を縮めていきます。

こうもり塚古墳王墓山古墳とあわせて見ると、吉備という地域が四世紀から六世紀にかけてどう変わっていったかがたどれます。

金蔵山古墳の場所と行き方(観光情報)

出土品は、倉敷市中央の倉敷考古館に展示されています。1953年(昭和28年)の調査は倉敷考古館によって行われ、その報告が1959年に出されました。

古墳そのものは山の上ですが、出土品は市街地の館で見られるということになります。滋賀県の雪野山古墳と同じ形です。訪ねる前に、館の案内で開館日をご確認ください。

金蔵山古墳

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金蔵山古墳の住所:公式には確認できませんでした

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁の陵墓ではありませんので、陵墓のような立ち入り禁止の扱いは受けていません。操山山塊の山頂にありますが、墳丘に登れるかどうかについては、公式のページで確認できませんでした

この古墳については、住所を記した公式のページを確かめることができませんでした。奈良文化財研究所の全国文化財総覧に登録された報告書のページには、発行機関の住所は載っていますが、遺跡の所在地は読み取れませんでした。そのため、この図鑑では住所の欄を空けてあります。

古墳は岡山市街の東にある操山山塊の、標高100メートルの山頂にあります。平地の古墳を訪ねる感覚ではなく、山を登ることになります。

金蔵山古墳の発見と調査の歩み

  1. 盗掘をまぬがれた小部屋
  2. 祭りの場を、埴輪でつくる
  3. 答申の別紙に、名前がある

盗掘をまぬがれた小部屋

この古墳でいちばん注目されるのは、中央石室に付属する副室です。

中央石室の主室は、後円部の中央にある墓壙に築かれ、石英粗面岩の板石を小口積みにして長さ6.1メートルを測ります。壁面にはベンガラが塗られ、粘土床に割竹形木棺が据えられていました。この主室は盗掘に遭っています。

ところが、主室の東側に連なる副室は違いました。南北1.6メートル・東西0.75メートル・深さ0.80メートルという小さな部屋で、調査の時点で完存しており、中には埴輪の盒が4個置かれ、盒の内外から多くの副葬品が出土しました。副葬品を納めるためだけの部屋が、そのまま残っていたということです。同じように盗掘をまぬがれた例としては、滋賀県の雪野山古墳の竪穴式石室が知られます。

祭りの場を、埴輪でつくる

この古墳の埴輪には、はっきりした特徴があります。石室の周囲に埴輪の方形区画が設けられていることです。

区画の埴輪には、円筒埴輪のほか、形象埴輪として盾形・靫形・短甲形・草摺形・蓋形・高坏形・家形・鶏形・水鳥形があります。武具、器、建物、鳥。種類の多さが際立ちます。

さらに造出からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪とともに、家形・柵形・囲形といった、祭祀の空間を表現した埴輪が出土しています。柵で囲まれた中に建物があるという情景を、埴輪で組み立てていたということです。同じような使い方は、大阪府の今城塚古墳でも確かめられています。

答申の別紙に、名前がある

文化庁は令和8年6月19日、文化審議会が史跡名勝天然記念物の新指定4件・追加指定等23件を文部科学大臣に答申した、と発表しました。官報告示を経て、史跡名勝天然記念物は3,401件になる予定としています。

金蔵山古墳がこの新指定4件に含まれるとされます。ただし、答申された案件の詳細は別紙の資料にまとめられており、文化庁の発表ページの本文では、古墳の名を確かめることができませんでした。

この図鑑では、確かめられた範囲だけを書いています。古墳の名が本文に出てこない以上、「文化庁が金蔵山古墳を史跡に指定すると発表した」とは書きません。正式な指定は、官報告示を経てのことになります。

金蔵山古墳から出土したもの

1953年(昭和28年)の調査で石室が調べられ、副葬品が出土しました。それ以前、1884年(明治17年)にも古墳の一部が掘られ、滑石製の剣や刀子、鎌の破片、土師器の籠目皿などが出土したといいます。

岡山市教育委員会の報告書には、円筒埴輪・形象埴輪・葺石・方形区画・埴輪列といった語が並びます。前方部でも形象埴輪が出土しているため、前方部にも埋葬施設がある可能性が指摘されています。出土品は倉敷考古館に展示されています。

変形二神四獣鏡

南石室から出土した鏡。盗掘に遭いながら、多くの副葬品とともに残っていた。

埴輪盒

中央石室の副室に置かれていた4個の器。この中と周囲から多くの副葬品が出土した。

形象埴輪

盾形・靫形・短甲形・草摺形・蓋形・高坏形・家形・鶏形・水鳥形。埴輪方形区画に並べられていた。

家形・柵形・囲形埴輪

西のくびれ部の造出から出土。祭祀の空間を表現したものと考えられている。

金蔵山古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

金蔵山古墳についてよくある質問

金蔵山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁の陵墓でもなく、被葬者を示す文字資料も見つかっていません。造山古墳が築かれる前の、吉備の首長の墓と考えられています。

金蔵山古墳はどこにありますか。

岡山県岡山市中区、操山山塊の標高100メートルの山頂にあります。ただし住所を記した公式のページを確かめることができませんでした。

金蔵山古墳の大きさはどれくらいですか。

墳丘の実測値は公式のページでは確認できませんでした。造山古墳が築かれるまでは、中国・四国・九州地方でいちばん大きい古墳だったとされます。

金蔵山古墳はいつ作られましたか。

4世紀後半から5世紀初頭、古墳時代の前期から中期にかけてと推定されています。造山古墳や作山古墳より前の時期にあたります。

金蔵山古墳は国の史跡ですか。

文化庁は令和8年6月19日、文化審議会が史跡名勝天然記念物の新指定4件を答申したと発表しました。ただし答申の一覧は別紙の資料にあり、発表ページの本文では古墳名を確認できませんでした。正式な指定は官報告示を経てのことになります。

金蔵山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

墳頂から縦に掘った穴に石を積んで作る埋葬施設。一度ふさぐと開けられない。

副室(ふくしつ)

主室に連なる、副葬品を納めるための小さな部屋。金蔵山古墳では完存していた。

埴輪方形区画(はにわほうけいくかく)

石室の周囲を埴輪で四角く囲んだもの。聖なる区域を示すためと考えられている。

島状遺構(とうじょういこう)

くびれ部の外側に、島のように独立して設けられた壇。造出と対になる位置に置かれる。

金蔵山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 岡山市教育委員会
  2. 文化庁