多摩川流域で最大の前方後円墳。大正時代からの国の史跡。
亀甲山古墳とはどんな古墳か
亀甲山古墳は、東京都大田区田園調布の多摩川台公園のなかにある前方後円墳です。大田区は次のように書いています。
この古墳は、南武蔵を代表する多摩川流域最大の前方後円墳で、全長107メートルあまりあります
築造は4世紀後半と推定されています。多摩川の下流左岸、武蔵野台地の南西の縁にあたる台地の上に築かれました。すぐそばを流れる多摩川と、対岸の川崎の台地を見おろす場所です。
名の「亀甲山」は、横から見た墳形がカメに見立てられたことに由来するといわれます。
国の史跡に指定されたのは1928年(昭和3年)2月7日で、これは日本の古墳のなかでも早い時期の指定にあたります。指定当時の説明は文語で書かれており、大きさは尺で記されています。
亀甲山古墳の読み方と別名
読みは「かめのこやまこふん」です。文化庁の国指定文化財等データベースも、ふりがなを「かめのこやまこふん」としています。
ただし「きっこうやまこふん」と読まれることもあります。亀甲を「かめのこ」と読むか「きっこう」と読むかの違いで、どちらも同じ古墳を指します。
「亀甲山」という名そのものは、横から見た墳丘の形がカメに似ていることによると伝えられます。前方後円墳を横から見ると、後円部が甲羅、前方部が首と頭のように見えます。土地の人がそう呼び習わしてきた名が、そのまま古墳の名になりました。
古墳は多摩川台公園のなかにあり、公園の名で「多摩川台の古墳」と呼ばれることもあります。
亀甲山古墳(かめのこやまこふん)
文化庁のふりがなは「かめのこやまこふん」。大田区もこの名で案内している。
亀甲山古墳(きっこうやまこふん)
「きっこうやま」と読まれることもある。同じ古墳を指す。
荏原台古墳群(えばらだいこふんぐん)
この古墳が属する古墳群の名。多摩川左岸の台地に広がる。
亀甲山古墳は誰の墓か
亀甲山古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。
この古墳では、これまでに測量調査は行われていますが、発掘調査は行われていません。埋葬施設がどこにあり、どういう構造なのかもわかっていません。副葬品が一点も出ていないため、被葬者を推し量る手がかりが乏しいのです。
わかるのは大きさと場所です。大田区は、この古墳を南武蔵を代表する多摩川流域最大の前方後円墳としています。流域でいちばん大きい墓であるということは、その時期にこの川筋をまとめた人物の墓である、ということを意味します。
同じ台地の上には、少し後の時期に野毛大塚古墳が築かれます。亀甲山古墳の被葬者は、その前の世代にあたります。掘っていないから、わからない。それが正直な答えです。
公式の説明:わかっていない
被葬者個人を比定する記載はない。南武蔵を代表する多摩川流域最大の前方後円墳とする。
断定できない:わかっていない
1928年の指定当時の解説は墳丘の姿と保存状態を記すのみで、被葬者にはふれていない。
亀甲山古墳の大きさと形
大田区は、全長を107メートルあまりとしています。多摩川流域では最大の前方後円墳です。
おもしろいのは、文化庁の国指定文化財等データベースに残る指定当時の説明です。1928年(昭和3年)の指定で、文語で書かれ、単位は尺です。
多摩川ニ沿エル丘陵ニ築カレタル前方後円型ノ古墳ニシテ畧ホ北ニ面ス封土ノ高サ前方部約二十尺後円部約三十三尺全長約三百尺
同じ古墳を、昭和のはじめは尺で、いまはメートルで測っています。
続けて、後円部の封土の一部は削り取られているものの比較的よく保存されており、この地方における壮大な古墳の一つであると記されています。後円部の南端は、のちに浄水場の建設で削られましたが、墳丘の大半は残っています。
全長:107メートルあまり
全長(1928年の指定当時の記載):約三百尺
前方部の封土の高さ:約二十尺
後円部の封土の高さ:約三十三尺
築造の時期:4世紀後半
亀甲山古墳はいつ作られたか
大田区は、近年の多摩川流域の古墳研究から、築造を4世紀後半と推定しています。
4世紀後半は、東国の各地に大型の前方後円墳が現れる時期です。三浦半島では長柄桜山古墳群の2基が、伊勢では能褒野王塚古墳が、同じころに築かれました。関東から東海にかけて、畿内の形をした墓が同時多発的に現れる時期にあたります。
その後、多摩川流域では5世紀に野毛大塚古墳が造られ、埼玉では5世紀後半から埼玉古墳群が始まります。首長墓の場所と規模は、世代ごとに移っていきました。
亀甲山古墳と、同じ台地にある宝萊山古墳は、前方部を向かい合わせるように立っています。二つの墓が向き合う配置には、代を継いだ首長どうしの関係が読み取れるという見方があります。
亀甲山古墳の場所と行き方(観光情報)
多摩川駅からの道は、台地の縁にそって続きます。公園のなかには亀甲山古墳のほか、宝萊山古墳と多摩川台古墳群があり、いくつもの墳丘を続けて見ることができます。
同じ多摩川左岸の台地には野毛大塚古墳もあります。ただし野毛大塚古墳については、最寄り駅からの行き方を記した公式のページを確かめられませんでした。
亀甲山古墳(多摩川台公園内)
亀甲山古墳(多摩川台公園内)の住所:東京都大田区田園調布一丁目63番1号(多摩川台公園内)
交通:東急多摩川線 多摩川駅下車 徒歩約10分
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:公式に確認できませんでした
大田区は、所在地を大田区田園調布一丁目63番1号(多摩川台公園内)、交通アクセスを東急多摩川線多摩川駅下車徒歩約10分としています。
問い合わせ先は大田区立郷土博物館(電話 03-3777-1070)です。ただし大田区は、この番号で受けられるのは文化財や史跡の概要についての問い合わせのみであると断っています。
古墳は多摩川台公園のなかにあり、公園そのものは自由に歩けます。墳丘に入れるかどうか、駐車場や料金については、公式のページでは確かめられませんでした。訪ねる前に大田区の最新の案内を確かめることをおすすめします。
亀甲山古墳の発見と調査の歩み
昭和3年に、国が守ると決めた
亀甲山古墳が国の史跡に指定されたのは、1928年(昭和3年)2月7日です。
史跡名勝天然記念物保存法にもとづく指定で、古墳としてはかなり早い部類に入ります。同じ関東では、舟塚山古墳が1921年(大正10年)に指定されています。東京の市街が広がっていく時代に、この墳丘は残す側に選ばれました。
指定当時の解説は、いま読むと独特です。多摩川に沿える丘陵に築かれた前方後円型の古墳にして、ほぼ北に面す、という書き出しで始まり、封土の高さと全長を尺で記し、この地方における壮大な古墳の一つである、と結びます。削られていることまで書いたうえで、それでも守る価値があると判断しています。
掘られていない、という価値
亀甲山古墳では、発掘調査が行われていません。大田区教育委員会による測量調査はありますが、土を掘って中を見ることはしていません。そのため、埋葬施設の位置も構造もわかっていません。葺石や埴輪も墳丘の表面では認められず、副葬品は一点も知られていません。
わからないことが多いのは、掘っていないからです。
見方を変えれば、この古墳は手つかずのまま残っているということでもあります。同じ関東でも、稲荷山古墳は昭和の発掘で鉄剣が出て歴史が書き換わりました。野毛大塚古墳は明治30年に掘られ、副葬品が博物館に納まりました。亀甲山古墳は、まだ何も語っていません。掘らずに残すという選択には、そういう意味もあります。
台地の縁に並ぶ、いくつもの墓
亀甲山古墳は単独で立っているわけではありません。多摩川左岸の台地の上には、荏原台古墳群が広がっています。
古墳群のなかで最大なのが亀甲山古墳で、前方部を北西に向けて宝萊山古墳と向き合っています。二つのあいだには、後の時代に造られた多摩川台古墳群が並びます。さらに上流側には野毛大塚古墳があり、四基の埋葬施設から重要文化財となる副葬品が出ました。
同じ川筋に、4世紀から5世紀にかけての首長の墓が、順に並んでいることになります。
多摩川台公園には大田区立多摩川台公園古墳展示室があり、この台地の古墳のあらましを見ることができます。川と台地という地形が、そのまま墓の並び方を決めています。
亀甲山古墳から出土したもの
この古墳から出たものは、いまのところ何もありません。掘っていないからです。
同じ台地の野毛大塚古墳が、二件の重要文化財を生むほどの副葬品を出したのとは対照的です。並んで立つ二つの古墳が、掘られたものと掘られていないもの、という形で分かれています。どちらの状態にも意味があります。
出土品は知られていない
発掘調査が行われていないため、副葬品は一点も知られていない。
葺石
墳丘の外表では認められていない。もとから無かったのか、失われたのかはわからない。
埴輪
同じく墳丘の外表では認められていない。
埋葬施設
未調査のため、位置も構造も明らかになっていない。
亀甲山古墳と関連する古墳
亀甲山古墳についてよくある質問
亀甲山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の治定もありません。発掘調査が行われておらず、副葬品も知られていないためです。大田区は、南武蔵を代表する多摩川流域最大の前方後円墳としており、この川筋をまとめた首長の墓と考えられています。
亀甲山古墳はどこにありますか。
東京都大田区田園調布一丁目63番1号、多摩川台公園のなかです。東急多摩川線の多摩川駅から徒歩約10分と大田区が案内しています。
亀甲山古墳の大きさはどれくらいですか。
大田区は全長107メートルあまりとしています。1928年の史跡指定当時の記載は尺を使っており、全長約三百尺、封土の高さは前方部約二十尺、後円部約三十三尺とされています。
亀甲山古墳はいつ作られましたか。
大田区は、近年の多摩川流域の古墳研究から4世紀後半の築造と推定しています。同じころ、三浦半島には長柄桜山古墳群が築かれました。
亀甲山古墳の読み方は。
「かめのこやまこふん」です。文化庁の国指定文化財等データベースも、このふりがなを載せています。「きっこうやまこふん」と読まれることもあり、どちらも同じ古墳を指します。
亀甲山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
封土(ほうど)
古墳の盛り土のこと。昭和はじめの指定文書では、この語で墳丘の高さが記されている。
尺(しゃく)
日本で使われてきた長さの単位。昭和はじめの史跡の説明文では、まだ尺が使われていた。
荏原台古墳群(えばらだいこふんぐん)
多摩川左岸の台地に広がる古墳群。亀甲山古墳と宝萊山古墳が代表する。
河岸段丘(かがんだんきゅう)
川に沿ってできた階段状の地形。多摩川ぞいの古墳は、その縁の上に築かれている。
亀甲山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。