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大阪府

牧野車塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

牧野車塚古墳  / マキノクルマヅカコフン

前方後円墳 4世紀

淀川左岸の台地に築かれた、北河内で最大級の前方後円墳。

牧野車塚古墳とはどんな古墳か

牧野車塚古墳はひとことで言えば北河内でいちばん大きい前方後円墳です。大阪府枚方市の車塚にあり、穂谷川の左岸に広がる交野台地の上に築かれています。

枚方市は「穂谷川左岸の台地上に立地する前方後円墳で、全長107.5メートル、後円部径58メートル、前方部幅45メートルを測ります」としています。主軸線はほぼ東西にとり、周溝がめぐり、西側から南側にかけて外堤が残っています。

文化庁は少し違う数字を出しています。全長は同じ107.5メートルですが、後円部の直径を54.5メートル、前方部の幅を44メートルとしています。同じ古墳でも、誰がいつ測ったかで数字は動きます。

埋葬施設の構造も副葬品も、わかっていません。中身が調べられていない、大きな古墳です。

牧野車塚古墳の読み方と別名

読みは「まきのくるまづかこふん」です。「車塚」は前方後円墳を指す古い呼び名で、全国に同じ名の古墳がたくさんあります。

枚方市には車塚を名のる大きな古墳が二つあり、天野川に臨む禁野車塚古墳(きんやくるまづかこふん)と区別するため、こちらは地名の牧野を冠して呼ばれます。文化庁の登録では所在地が枚方市小倉東町となっており、そこから小倉車塚古墳とも呼ばれてきました。

二つの車塚を並べて呼ぶときは、必ず牧野・禁野を頭に付けてください。

牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん)

枚方市と文化庁が用いる名。市内にもう一つある禁野車塚古墳と区別するため、地名の牧野を冠している。

小倉車塚古墳(おぐらくるまづかこふん)

文化庁が所在地を枚方市小倉東町とすることにも表れているとおり、小倉の地名で呼ばれることもある。

禁野車塚古墳(きんやくるまづかこふん)

この古墳と対になる、枚方市宮之阪の前方後円墳。名が似ているため混同されやすい。

牧野車塚古墳は誰の墓か

牧野車塚古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。陵墓ではないため、公式に人物を比定した記載はどこにもありません。

そもそも、この古墳は中身が確かめられていません。枚方市は埋葬施設の構造も副葬品も不明としており、被葬者像を組み立てる材料そのものが足りていない状態です。

わかっているのは、置かれた場所です。淀川と穂谷川に挟まれた台地の北のはしに、東西を主軸として築かれています。枚方市はこの古墳を「そのころ、このあたりで力をもっていた人のお墓」と説明しています。

淀川は、瀬戸内から大和へ入る水の道です。その道を見おろす台地の上に、107.5メートルの墳丘を築ける人物がいたことは確かです。先行する禁野車塚古墳と合わせて、4世紀の淀川流域に有力な勢力が続いたことを示す古墳として扱われています。

公式の説明:わかっていない

埋葬施設の構造や副葬品は不明としており、人物を比定する記載はない。

断定できない:このあたりで力をもっていた人

古墳時代前期に、この地域で力をもっていた人物の墓と考えられる、とだけ記す。

牧野車塚古墳の大きさと形

枚方市は全長107.5メートル、後円部径58メートル、前方部幅45メートルとしています。墳丘は東西を主軸とし、前方部を東に向けます。

文化庁の解説はこう書いています。

牧野車塚古墳は、枚方台地の北縁に沿って標高22メートル余りのところに築かれた古墳時代中期の前方後円墳である

続けて、全長107.5メートル、後円部の直径54.5メートル、前方部の幅44メートルとしています。後円部の径だけが3.5メートルほど食い違いますが、どちらも公式の数字です。

墳丘の周りには濠がめぐり、西と南には外堤が設けられています。周濠を含めた規模では、北河内で最大級になります。

墳丘の長さ:107.5メートル

後円部の径(枚方市):58メートル

後円部の径(文化庁):54.5メートル

前方部の幅(枚方市):45メートル

前方部の幅(文化庁):44メートル

築かれた場所の標高:22メートル余り

牧野車塚古墳はいつ作られたか

枚方市は「築造時期は古墳時代前期中頃(4世紀後半)と考えられます」としています。子ども向けのページでは、今から1650年くらい前につくられたとみられる、と書いています。

一方、文化庁の解説はこの古墳を「古墳時代中期の前方後円墳」としています。同じ古墳の年代について、市と国とで言い方が違います。

枚方市は、牧野車塚古墳と禁野車塚古墳をまとめて古墳時代前期、今から約1600年から1750年前のものとしています。4世紀前半の禁野車塚古墳が先、4世紀後半の牧野車塚古墳があと、という順になります。

同じ淀川の流域では、のちの6世紀前半に高槻市の今城塚古墳が築かれます。牧野車塚古墳は、それよりおよそ150年ほど前の姿を伝えています。

牧野車塚古墳の場所と行き方(観光情報)

この古墳は史跡に指定された土地であって、観光施設ではありません。公開の条件が公式に示されていないため、勝手に墳丘へ立ち入らないでください。

枚方市には、もう一つの史跡である禁野車塚古墳が宮之阪5丁目にあります。二つを続けて歩けば、4世紀の淀川左岸に何が起きていたかがつかめます。ただし、どちらも行き方の公式な案内は見あたりませんでした。

牧野車塚古墳

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牧野車塚古墳の住所:車塚1丁目369番ほか

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:公式に確認できませんでした

枚方市は所在地を「車塚1丁目369番ほか」としています。文化庁の登録では所在地が枚方市小倉東町となっており、二つの公式資料で町名の書き方が違います。古墳の敷地が町境にまたがるためとみられます。

最寄りの駅、駐車場、見学できる時間、入る料金については、公式の記載を確かめられませんでした。行く前に枚方市の文化財を担当する部署に問い合わせてください。

牧野車塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 中身が調べられていない、大きな古墳
  2. 徳島と兵庫の石が運ばれてきた台地
  3. 二つの車塚が語る、四世紀の順番

中身が調べられていない、大きな古墳

牧野車塚古墳について、枚方市ははっきりこう書いています。

埋葬施設の構造や副葬品は不明ですが、出土遺物の特徴や墳丘の形状などから、築造時期は古墳時代前期中頃(4世紀後半)と考えられます

中身がわかっていない。107.5メートルという、その地域で最大の古墳でありながら、棺がどこにあり、何が納められていたのかは知られていません。

同じことは各地で起きています。堺市の御廟山古墳も、羽曳野市の墓山古墳も、墳丘の中心部は調べられていません。大きい古墳ほど守られ、守られた古墳ほどわからない。

徳島と兵庫の石が運ばれてきた台地

枚方市は、この古墳の表面について「古墳(こふん)の表面にこぶしくらいの大きさの石がならべられていた」と書いています。斜面に石を貼る葺石(ふきいし)です。

発掘調査では、円筒埴輪が墳丘のまわりにたくさん並べられていたことも確かめられています。

古墳は、土を盛るだけでなく、石と人手を集めなければ完成しません。淀川は、その運搬路になりました。瀬戸内から淀川をさかのぼれば、この台地の足もとに着きます。牧野車塚古墳がここに築かれた理由は、水の道と切り離せません。

二つの車塚が語る、四世紀の順番

枚方市には禁野車塚古墳という、もう一つの大型前方後円墳があります。天野川に臨む低位段丘に築かれ、全長120メートル、後円部径63メートル、前方部幅55メートル、前方部高3.4メートル、後円部高9メートルを測ります。

枚方市は、近年の測量調査でこの古墳が「奈良県の箸墓古墳の墳形とよく似た特徴を有していることが判りました」としています。築造は古墳時代前期前半、4世紀前半です。

牧野車塚古墳はその後、4世紀後半に築かれました。大きさは禁野に及ばず、しかし周濠と外堤を備えて、より整った姿になっています。

二つを並べると、淀川左岸の勢力が四世紀を通して続いたこと、そしてその中心が天野川から穂谷川へ移ったことが読み取れます。

牧野車塚古墳から出土したもの

出土品の少なさが、この古墳の特徴です。円筒埴輪と葺石は確かめられていますが、棺に納められた品は一つも知られていません。

文化庁の古い記録には、前方部の前端に発掘の跡が著しく、円筒埴輪の破片が散らばっている、とあります。早い時期に人の手が入っていた可能性があります。

円筒埴輪

発掘調査で、丸い筒の形をした埴輪が墳丘のまわりにたくさん並べられていたことが確かめられている。

葺石

こぶしくらいの大きさの石が墳丘の表面に並べられていた。板石を使った特異なものとされる。

埋葬施設

構造がわかっていない。後円部の中心がどうなっているかは、いまも不明のままである。

副葬品

出ていない。枚方市は副葬品を不明としており、何が納められたかは知られていない。

牧野車塚古墳と関連する古墳

牧野車塚古墳についてよくある質問

牧野車塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁の治定もなく、埋葬施設の構造も副葬品も不明のままです。枚方市は、古墳時代前期にこのあたりで力をもっていた人の墓と考えられる、とだけ書いています。

牧野車塚古墳はどこにありますか。

大阪府枚方市です。枚方市は所在地を車塚1丁目369番ほかとし、文化庁は枚方市小倉東町としています。穂谷川の左岸、交野台地の北のはしにあたります。

牧野車塚古墳の大きさはどれくらいですか。

枚方市は全長107.5メートル、後円部径58メートル、前方部幅45メートルとしています。文化庁は後円部の直径を54.5メートル、前方部の幅を44メートルとしており、少し違います。

牧野車塚古墳はいつ作られましたか。

枚方市は古墳時代前期中頃の4世紀後半としています。文化庁は古墳時代中期としており、見方が分かれます。子ども向けのページでは、今から1650年くらい前と説明されています。

牧野車塚古墳の中に入れますか。

公式に確認できませんでした。見学できる時間、駐車場、料金についての記載を見つけられませんでした。国の史跡ですので、条件がわからないまま墳丘へ立ち入らないでください。

牧野車塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)

四角い前方部と丸い後円部をつないだ形の古墳。鍵穴のような姿になる。

外堤(がいてい)

周濠の外側にめぐらせた土手。古墳の外側の境をつくり、墓域の広さを示す。

葺石(ふきいし)

墳丘の斜面に貼りつめた石。土が流れるのを防ぎ、同時に見た目を整える。

交野台地(かたのだいち)

淀川の左岸に広がる台地。牧野車塚古墳はその北のはしに築かれている。

牧野車塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 枚方市
  2. 枚方市
  3. 文化庁