毎年、石室の内部が公開される。継体大王とゆかりの深い人物の墓。
物集女車塚古墳とはどんな古墳か
物集女車塚古墳は、京都府向日市にある前方後円墳です。向日市は、古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳と説明しています。
名前の由来は伝承です。向日市によれば、淳和天皇(840年没)の棺を運んだ車を納めた地という言い伝えが、「車塚」という名のもとになっています。
見どころは石室です。埋葬施設は「畿内型」の「横穴式石室」と呼ばれるもので、整備して形がきれいに残っていることから、毎年、内部が一般公開されています。
石室の奥壁に沿って置かれた石棺は「組合せ式家型石棺」。生駒山系の二上山で採石された凝灰岩製の板材を組み合わせて作られています。
いまは史跡「乙訓古墳群」を構成する1基です。
物集女車塚古墳の読み方と別名
読みは「もずめくるまづかこふん」です。物集女と書いて「もずめ」と読みます。文化庁のふりがなも同じです。
「車塚」という名は各地にあります。この古墳の場合、向日市は淳和天皇(840年没)の棺を運んだ車を納めた地という伝承が由来とされる、と記しています。
ただし淳和天皇は平安時代の天皇で、向日市が示す築造時期は6世紀中頃です。名前は言い伝えであって、被葬者を示すものではありません。
物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん)
向日市と文化庁が使う正式な表記。文化庁のふりがなも「もずめくるまづかこふん」。
車塚(くるまづか)
淳和天皇の棺を運んだ車を納めた地という伝承にちなむ名。各地に同名の塚がある。
物集女(もずめ)
所在地の地名。読みにくい地名として知られる。
物集女車塚古墳は誰の墓か
物集女車塚古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の陵墓としての治定もありません。
ただし、向日市ははっきりした見立てを示しています。
石室の構造や副葬品(馬具、ガラス製の装飾品、金属製の冠の断片、武器、土器等)から、埋葬者は6世紀前半に弟国宮をつくった継体大王と所縁が深い人物と考えられています。
弟国宮は、継体大王が置いた宮です。その宮のあった地域に、規格化された畿内型の石室をもち、金属製の冠まで納めた古墳がある。大王のそばにいた人物の墓だと考える理由は、ここにあります。
ただし「所縁が深い人物」までで、名前は示されていません。継体大王そのものの墓としては、大阪府高槻市の今城塚古墳が有力とされています。
学術的な見方のひとつ:継体大王とゆかりの深い人物
石室の構造や副葬品から、6世紀前半に弟国宮をつくった継体大王と所縁が深い人物と考えられる、と記す。
断定できない:特定できていない
人名は示されていない。宮内庁の陵墓としての治定もない。
物集女車塚古墳の大きさと形
向日市が示す数字は次のとおりです。全長約46メートル。後円部が直径約24から32メートル、高さ9メートル。前方部が長さ約18から23メートル、幅約39メートル、高さ約8メートル。
後円部の直径に幅があるのは、きれいな円ではないからです。前方部の長さも同じで、測る向きによって数字が変わります。
後円部・前方部とも二段築成で、墳丘にはごく一部に葺石が施され、埴輪が並べられていました。葺石が全面ではなく一部だけ、というのもこの古墳の特徴です。
全長46メートルは、同じ乙訓古墳群の天皇の杜古墳(83.0メートル)の半分ほど。それでも、副葬品の質はこちらのほうが際立っています。
墳丘の全長:全長約46メートル
後円部:直径約24から32メートル、高さ9メートル
前方部:長さ約18から23メートル、幅約39メートル、高さ約8メートル
史跡「乙訓古墳群」の面積:126199.41平方メートル
物集女車塚古墳はいつ作られたか
向日市は、この古墳を古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳としています。
6世紀の中頃は、前方後円墳という形が終わりに近づく時期です。つまりこれは、乙訓の地では最後の世代にあたる前方後円墳のひとつです。
同じ乙訓古墳群のなかで、天皇の杜古墳は4世紀代。2世紀ほどの開きがあります。
向日市は、埋葬者を「6世紀前半に弟国宮をつくった継体大王と所縁が深い人物」としています。このあと、飛鳥では方墳や八角墳の時代に入ります。奈良県の植山古墳の東石室が6世紀末葉とされるのも、ほぼ地続きの時期です。
物集女車塚古墳の場所と行き方(観光情報)
同じ史跡「乙訓古墳群」には、京都市西京区の天皇の杜古墳のほか、恵解山古墳、寺戸大塚古墳、五塚原古墳などが含まれます。
乙訓は、古墳がまとまって残っている地域です。1基だけを目当てにするより、いくつかを結んで歩くほうが性格がつかめます。
物集女車塚古墳
物集女車塚古墳の住所:京都府向日市
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:向日市は「整備して形がきれいに残っていることから、毎年、内部が一般公開されています」と記しています
向日市は、この古墳の石室について毎年、内部が一般公開されていると記しています。横穴式石室の中に入れる機会がある、めずらしい古墳です。
ただし公開の時期・申込みの方法・料金、そして最寄り駅からの道順や駐車場は、公式のページでは確かめられませんでした。番地までの住所も載っていません。
訪ねる前に、向日市へ公開の日程を確認してください。
物集女車塚古墳の発見と調査の歩み
金属製の冠が出た石室
向日市は、副葬品として馬具、ガラス製の装飾品、金属製の冠の断片、武器、土器を挙げています。
このなかで際立つのが冠です。古墳から冠が出る例は多くありません。頭に載せるものは、身分をそのまま形にしたものだからです。
馬具は、馬に乗る階層であったことを示します。ガラスは、当時の交易の広がりを示します。冠・馬具・ガラス。この3つがそろう古墳は、全長46メートルという大きさに似合いません。
向日市が「継体大王と所縁が深い人物」と踏みこんで書いているのは、この落差があるからです。
毎年開く石室
縄をかけて運んだ跡
向日市は、石棺の造りをやさしい言葉で説明しています。
蓋や底の石にある出っ張りは縄掛突起と呼ばれ、重い石に縄をかけて運んだと考えられています。
石棺は「組合せ式家型石棺」です。1つの石をくり抜くのではなく、板材を組み合わせて箱にし、屋根形の蓋をかぶせます。
出っ張りは飾りではありません。運ぶための取っ手です。二上山から向日の丘まで、石を引いてくるための工夫が、そのまま形として残りました。
同じ縄掛突起は、奈良県の赤坂天王山古墳の家形石棺にもあります。文化庁は、その石棺の蓋部が家型を呈し、前後左右に縄掛突起を有すると記しています。
物集女車塚古墳から出土したもの
向日市が挙げているのは、馬具・ガラス製の装飾品・金属製の冠の断片・武器・土器です。冠が出ていることが、この古墳の格を決めました。
出土品の質から被葬者の立場を読む、という筋道が、はっきり公式のページに書かれている数少ない例です。
石棺そのものも、石室のなかにそのまま残っています。
金属製の冠の断片
向日市が副葬品として挙げている。頭に載せる品が出る例は多くない。
馬具
馬に乗る階層であったことを示す。向日市が副葬品として挙げている。
ガラス製の装飾品
当時の交易の広がりを示す品。石室の中から見つかっている。
武器
副葬品として挙げられている。石室の中に納められていた。
土器
副葬品として挙げられている。年代を知る手がかりになる。
組合せ式家型石棺
二上山の凝灰岩の板材を組み合わせて作られた棺。石室の奥壁に沿って置かれている。
物集女車塚古墳と関連する古墳
物集女車塚古墳についてよくある質問
物集女車塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。向日市は、石室の構造や副葬品から、6世紀前半に弟国宮をつくった継体大王と所縁が深い人物と考えられる、と記しています。人名は示されていません。
物集女車塚古墳はどこにありますか。
京都府向日市です。番地までの住所は、公式のページでは確かめられませんでした。史跡「乙訓古墳群」を構成する1基です。
物集女車塚古墳の大きさはどれくらいですか。
向日市によれば全長約46メートル、後円部が直径約24から32メートル・高さ9メートル、前方部が長さ約18から23メートル・幅約39メートル・高さ約8メートルです。
物集女車塚古墳はいつ作られたのですか。
向日市は古墳時代後期(6世紀中頃)としています。前方後円墳という形が終わりに近づく時期にあたります。
物集女車塚古墳の石室には入れますか。
向日市は「毎年、内部が一般公開されています」と記しています。ただし公開の時期や申込みの方法は、公式のページでは確かめられませんでした。
物集女車塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
横穴式石室(よこあなしきせきしつ)
横から出入りできる通路と部屋からなる埋葬施設。あとから人を葬り足すことができる。
畿内型石室(きないがたせきしつ)
ヤマト王権のもとで規格が整えられた横穴式石室。向日市はこの古墳の石室をこう呼ぶ。
組合せ式石棺(くみあわせしきせっかん)
板石を組み立てて作った棺。1つの石をくり抜く刳抜式と区別する。
縄掛突起(なわかけとっき)
石棺の蓋や身に出した出っ張り。縄をかけて重い石を運ぶために使われた。
弟国宮(おとくにのみや)
継体大王が置いたとされる宮。向日市は6世紀前半につくられたと記す。
物集女車塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。