本文へ移動

奈良県

西山塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

西山塚古墳  / ニシヤマヅカコフン

前方後円墳 6世紀

手白香皇女の本当の墓ではないかとみられている、大和古墳群の異例の後期古墳。

西山塚古墳とはどんな古墳か

奈良県天理市にある前方後円墳です。大和古墳群のうち萱生支群に属します。前方部を北に向け、後円部は三段、前方部は二段に築かれているとされます。

この古墳が注目されるのは、時期のためです。大和古墳群のほとんどが古墳時代前期の古墳であるなかで、この一基だけが6世紀前半の後期古墳とされています。群の中で、明らかに浮いています。

そのため、第26代継体天皇の皇后とされる手白香皇女の本当の墓ではないか、という説が知られています。宮内庁が手白香皇女の陵として扱っているのは天理市中山町の西殿塚古墳ですが、そちらは築造年代がはるかにさかのぼると考えられているためです。

この古墳については、公式ページを1本も確かめられませんでした。以下の記述は下調べにもとづくもので、数字や住所は公式に確認できていません。

西山塚古墳の読み方と別名

読みは「にしやまづかこふん」です。「にしやまつか」ではなく、「づか」と濁ります。

紛らわしいのが、近くにある西殿塚古墳です。西山塚と西殿塚。一字違いで、しかも同じ天理市にあり、しかも同じ人物の墓とされてきました。宮内庁が手白香皇女の陵として治定しているのは西殿塚古墳のほう、真の陵ではないかといわれているのが西山塚古墳のほうです。

もう一つ、『延喜式』の諸陵寮は手白香皇女の墓を「衾田墓」として記しています。大和国山辺郡の所在で、東西二町・南北二町の広さとされます。この衾田墓がどの古墳を指すのかが、そのまま議論の的になってきました。名前が三つあって、指す先が定まらない。そういう古墳です。

西山塚古墳(にしやまづかこふん)

通用している名。萱生の集落の西端にあることからきた呼び名とみられる。

衾田墓(ふすまだのはか)

『延喜式』が手白香皇女の墓として記す名。この古墳に比定する説がある。

萱生支群(かようしぐん)

大和古墳群のうち、扇状地上に広がる一群。この古墳はここに属する。

西山塚古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、確かめられていません

ただし、第26代継体天皇の皇后とされる手白香皇女の陵に比定する説が、有力視されています。根拠は二つあるとされます。ひとつは、大和国山辺郡一帯で前期古墳が大多数を占めるなかで、この古墳だけが古墳時代後期の大型前方後円墳であること。もうひとつは、出土する埴輪が、継体天皇の真陵とされる大阪府高槻市の今城塚古墳と同じ窯から供給されているとされることです。

宮内庁が手白香皇女の陵として治定しているのは、天理市中山町の西殿塚古墳です。この治定は1876年(明治9年)に教部省が定めたものを引き継いでいるとされます。ところが西殿塚古墳の築造年代は3世紀後半ごろと考えられており、手白香皇女が生きたとされる6世紀前半とは大きくずれます。

治定と学説が正面から食い違う例です。ただし、この古墳は発掘調査が行われておらず、宮内庁の治定を記した公式ページも確かめられませんでした。

西山塚古墳の大きさと形

この古墳の規模を記した公式ページは、1本も確かめられませんでした。以下は下調べにもとづく数字で、公式に確認できたものではありません。

墳丘長はおよそ114メートル、後円部の直径がおよそ65メートル、高さがおよそ13メートル、前方部の幅がおよそ70メートル、高さがおよそ8メートルとされます。後円部は三段、前方部は二段に築かれているといわれます。

百メートルを超える前方後円墳が6世紀前半に築かれるというのは、この一帯では例外的なことです。大和古墳群の中で最大の西殿塚古墳は、堺市の全国の古墳大きさランキングに219メートル・第24位として載りますが、そちらは前期の古墳とされます。

墳丘のまわりには濠がめぐっていたとされ、その名残がいまも周囲四か所の溜池として見えるといわれます。濠の外側には外堤の遺構も認められているとされます。

西山塚古墳はいつ作られたか

築造年代を記した公式ページを、1本も確かめられませんでした。

下調べによれば、築造は古墳時代後期前半の6世紀前半ごろと推定されています。大和古墳群の大多数が前期古墳であるなかで、例外的な後期古墳という位置づけになります。

この時期の食い違いが、被葬者をめぐる議論の出発点です。奈良盆地東南部の山麓に古墳が集まるのは3世紀後半から4世紀にかけてで、そのあと王墓級の古墳は奈良盆地の西北部、佐紀の一帯へ移っていきます。ヒシアゲ古墳ウワナベ古墳が並ぶ場所です。

そこからさらに時代が下った6世紀前半に、いったん役目を終えたはずの土地へ戻って大型の前方後円墳を築く。そこには理由があったはずだ、というのが議論の筋道になっています。

西山塚古墳の場所と行き方(観光情報)

大和古墳群は、奈良盆地東南部の山麓を南北に走る道筋に沿って広がります。南には柳本古墳群と纒向古墳群が続き、黒塚古墳箸墓古墳ホケノ山古墳纒向石塚古墳が並びます。

同じ群の中には、国の史跡に指定されたノムギ古墳・中山大塚古墳・下池山古墳があり、宮内庁が陵墓として管理する西殿塚古墳もあります。一つの群の中で、扱いが三通りに分かれています。

西山塚古墳

地図で開く

西山塚古墳の住所:公式には確認できませんでした

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁の陵墓ではなく、史跡の指定も受けていないとされます。墳丘に立ち入れるかどうかを記した公式ページは確認できませんでした

この古墳については、住所も行き方も料金も、公式ページで確かめられませんでした。

下調べによれば、奈良県天理市萱生町にあるとされます。ただし、これを裏づける公式ページを確かめられなかったため、住所として書くことはできません。

萱生の集落の西端、傾斜面地に築かれているといわれます。墳丘の周りには溜池が点在し、それがかつての濠の名残だとされます。訪ねる前には、天理市の文化財の案内で最新の状況を確かめてください。

西山塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 陵が二つある、という状態
  2. 埴輪が語る、もう一つの根拠
  3. なぜ、この場所だったのか

陵が二つある、という状態

手白香皇女の陵とされる古墳は、二つあることになっています。

ひとつは、宮内庁が治定する西殿塚古墳。1876年(明治9年)に教部省が陵所と定めたものを、いまも引き継いでいるとされます。もうひとつが、この西山塚古墳です。考古学の側から、こちらが真の陵ではないかと唱えられてきました。

同じ形の食い違いは、継体天皇の陵をめぐっても起きています。宮内庁が治定するのは大阪府茨木市の太田茶臼山古墳、高槻市が真の陵墓と考えられるとするのは今城塚古墳。夫と妻について、それぞれ二つずつ候補が立っていることになります。

治定は明治のころに定められたものが多く、そのあとの調査で年代が合わないとわかっても、書き換えられていません。

埴輪が語る、もう一つの根拠

この古墳を手白香皇女の陵とみる説には、埴輪という根拠があるとされます。

下調べによれば、西山塚古墳から出土する埴輪は、大阪府高槻市の新池埴輪窯から供給されているとされます。その窯は、継体天皇の真陵とされる今城塚古墳に埴輪を送った窯です。

同じ窯から埴輪を受け取っているということは、二つの古墳が同じ時期に、同じ体制のもとで築かれたということになります。夫の陵と妻の陵が、同じ窯の埴輪で飾られていた。そう読めるわけです。

ただし、この古墳は発掘調査が行われていません。埴輪についての記述も、公式ページで確かめられたものではありません。有力視される説ではありますが、確かめられた事実ではないという点は押さえておく必要があります。

なぜ、この場所だったのか

手白香皇女の墓が、なぜ大和古墳群にあるのか。これがもう一つの論点です。

下調べによれば、父の仁賢天皇の陵所は河内の古市古墳群、夫の継体天皇の陵とみられる今城塚古墳は摂津。どちらとも違う場所に、彼女だけが葬られたことになります。

『日本書紀』によれば、武烈天皇に後継者がいなかったため、応神天皇の五世の孫とされる男大迹王が越前から呼ばれて即位したといいます。ただし即位後も、大和へ移るまでに十数年を要しています。

そこから、継体天皇が手白香皇女を妻に迎えたのは、旧来の王統への入り婿という形をとって位の正統性を示すためだったとみられています。彼女の陵が、初期のヤマト王権の大王墓が並ぶ大和古墳群の地に営まれたのも、同じ意図によるのではないか。そう考えられています。

西山塚古墳から出土したもの

この古墳では、発掘調査が行われていません。知られているのは、1887年(明治20年)に墳頂部を耕したときに石棺や副葬品が出たという伝えだけです。

しかも、そのとき出たとされる品は、いずれも現在は所在がわかりません。手白香皇女の陵ではないかと有力視されながら、手元に残っている資料はほとんど無いという状態です。埴輪と葺石が墳丘外表から出ているとされますが、これも公式ページでは確かめられませんでした。

葺石

墳丘の斜面を覆う石。墳丘外表から出土しているとされる。

埴輪

高槻市の新池埴輪窯から供給されたとされる。被葬者をめぐる議論の根拠になっている。

石棺

明治のころ墳頂部を耕したときに出たと伝わる。現在は所在がわからない。

勾玉・管玉・鈴・土器

同じく明治の開墾の際に出たと伝わる。いずれも所在がわからない。

西山塚古墳と関連する古墳

西山塚古墳についてよくある質問

西山塚古墳は誰の墓ですか。

確かめられていません。第26代継体天皇の皇后とされる手白香皇女の真陵とみる説が有力視されています。ただし宮内庁が治定しているのは、別の西殿塚古墳です。

西山塚古墳はどこにありますか。

奈良県天理市です。下調べでは萱生町にあるとされますが、これを裏づける公式ページは確かめられませんでした。大和古墳群の萱生支群に属します。

西山塚古墳の大きさはどれくらいですか。

規模を記した公式ページは確かめられませんでした。下調べでは墳丘長およそ114メートル、後円部の直径およそ65メートル、前方部の幅およそ70メートルとされます。

西山塚古墳はいつ作られましたか。

築造年代を記した公式ページは確かめられませんでした。下調べでは古墳時代後期前半の6世紀前半ごろとされ、前期古墳が大多数を占める大和古墳群では例外的です。

西山塚古墳と西殿塚古墳はどう違うのですか。

どちらも天理市にあり、どちらも手白香皇女の墓とされてきました。宮内庁が陵墓として治定しているのは西殿塚古墳、真の陵ではないかと唱えられているのが西山塚古墳です。

西山塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

比定(ひてい)

ある古墳を、記録に伝わる特定の墓に当てはめて考えること。断定とは違う。

真陵(しんりょう)

治定された陵とは別に、本当の陵と考えられている古墳を指す言い方。

延喜式諸陵寮(えんぎしきしょりょうりょう)

平安時代の法令集のうち、陵墓の所在と管理を記した部分。手白香皇女の墓も載る。

外堤(がいてい)

濠の外側を取り巻く土手。墳丘の規模を考えるときの手がかりになる。