全長140センチの船形埴輪が出た伊勢の王墓。埴輪は国宝。
宝塚古墳とはどんな古墳か
宝塚古墳はひとことで言えば船の埴輪が出た古墳です。三重県松阪市宝塚町・光町にある2基(1号墳・2号墳)の総称で、松阪市は市街地から南に3キロほど離れた丘陵上にあるとしています。
1999年(平成11年)の発掘調査で、1号墳の造り出しから類例のない姿の船形埴輪が見つかりました。全長140センチメートル、高さ94センチメートル。文化庁は、全体の9割程が遺存する希有な例であり、丸木船に舷側板や竪板を組み合わせた準構造船の構造を今に伝えるとしています。船上に大刀・威杖・蓋を模した立飾りを立てる形は、他に例がありません。
この船を含む宝塚1号墳出土品は、令和6年(2024年)に国宝に指定されました。松阪市はこの古墳を「伊勢の王墓」と呼んでいます。
宝塚古墳の読み方と別名
読みは「たからづかこふん」です。名の由来は、松阪市が明かしています。昭和4年(1929年)、三重県を代表する郷土史家 鈴木敏雄氏が飯南郡花岡村(当時)の遺跡調査を行った際、村人から聴き取った「宝塚」がそのまま古墳の名になりました。
この調査が契機となって、昭和7年(1932年)に宝塚1号墳・2号墳は国の史跡に指定され、現在まで保存されることになりました。土地の人の呼び名を書き留めたことが、古墳を残しました。
宝塚古墳(たからづかこふん)
1号墳と2号墳の総称。国の史跡としての指定名称。
宝塚1号墳(たからづかいちごうふん)
船形埴輪が出土した全長111メートルの前方後円墳。
三重県宝塚一号墳出土埴輪(みえけんたからづかいちごうふんしゅつどはにわ)
国宝としての名。
宝塚古墳は誰の墓か
宝塚古墳の被葬者はわかっていません。松阪市も、人物を特定する記載はしていません。宮内庁の治定もありません。かわりに書かれているのは、次のことです。
宝塚1号墳に葬られた人物は、近畿地方との深いつながりをもち、近畿地方から東国への玄関口にあたる伊勢湾西岸の広い範囲を支配する立場にあった人物と推定されています
松阪市は、前方後円墳をつくることができたのはヤマト王権とそれに関係する限られた人物であったと考えられている、とも記しています。
2号墳については1号墳に葬られた人物の後継者の墓と考えられるとしています。1号墳の壺形埴輪が2号墳にはなく、かわりに朝顔形埴輪が見つかったことが根拠です。
公式の説明:わかっていない
人物を特定する記載はない。伊勢湾西岸を支配する立場の人物と推定するにとどまる。
学術的な見方のひとつ:1号墳の被葬者の後継者
2号墳についての見方。埴輪の違いを根拠とする。
宝塚古墳の大きさと形
松阪市は、宝塚1号墳を5世紀初頭に造られた伊勢地方最大の前方後円墳とし、全長111メートル・前方部最大幅66メートル・後円部直径75メートル・最大高10メートルとしています。
北側には、マツリの場とされる造り出しがあります。松阪市は幅約18メートル・奥行き約16メートルの舞台状の場所とし、古墳本体とは土橋でつながっているとしています。この土橋の発見は全国初でした。造り出しの周囲からは140点もの埴輪が、当時置かれた位置を保った状態で発見されています。
宝塚2号墳は5世紀前半頃に造られた全長90メートルの帆立貝式古墳です。前方部が道路工事で削られていますが、道路の反対側で前方部の角が見つかり、正確な大きさがわかりました。
1号墳の全長:111メートル
1号墳の後円部・前方部:後円部直径75メートル・前方部最大幅66メートル
造り出し:幅約18メートル・奥行き約16メートル
2号墳の全長:90メートル(帆立貝式古墳)
船形埴輪:全長140センチメートル・高さ94センチメートル
史跡の指定面積:26,787.4平方メートル(昭和7年4月25日指定)
宝塚古墳はいつ作られたか
宝塚古墳の場所と行き方(観光情報)
再現された埴輪は、日本最大の船形埴輪をはじめ、家形、囲形、盾形、蓋形、壺形、円筒などです。松阪市によれば、大半を占める円筒埴輪は「はにわづくりの会」会員や地元中学校生徒による市民の手づくりです。
本物の埴輪の一部は松阪市文化財センター「はにわ館」で展示されています。
宝塚古墳公園
宝塚古墳公園の住所:松阪市宝塚町、光町
交通:JR・近鉄松阪駅から鈴の音バス「市街地循環線右回り」乗車 約25分、宝塚古墳公園前下車 徒歩5分
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:平成17年開園。1号墳の墳頂に登れるが、柵の中には入れない
松阪市は行き方をJR・近鉄松阪駅から鈴の音バス「市街地循環線右回り」乗車 約25分、『宝塚古墳公園前』下車 徒歩5分としています。
宝塚古墳公園は平成17年4月27日に開園しました。松阪市は「宝塚1号墳の墳頂からは、松坂城跡や市街地、堀坂山系など周辺の大パノラマを楽しむことができます」としています。
1号墳では造り出しを実物大で再現し、出土した埴輪の複製で当時のようすを再現しています。ただし柵の中への立ち入りはできません。
宝塚古墳の発見と調査の歩み
船首を、古墳に向けて
船形埴輪は、置かれた向きまでわかっています。
文化庁の解説はこうです。
この埴輪船は、船首を古墳に向け、あたかも航海を終えて古墳に辿り着いたような場所から出土しており、船上には王の権威を示す大刀、威杖、蓋を模した別造りの立飾を伴っていることから、古墳に葬られる王の魂を乗せた葬送船とする説も唱えられている
松阪市も、この船について生前の業績をあらわすという考えと、魂をあの世に運ぶ葬送船だという考えを並べています。
どちらが正しいかは決着していません。しかし、船首が古墳を向いていたという事実は動きません。
水のまつりを、埴輪で写す
国宝に指定されたのは、船だけではありません。文化庁によれば、船一点、囲三点、家四点であり、附として埴輪残欠262点および土器・土製品8点が加わります。
注目されるのは囲と家です。文化庁は、埴輪家1点の床には槽・樋状の、2点の内部には井戸状の表現があるとし、前者は谷から引いた水を清める導水施設を、後者はその水を汲み取る湧水施設とみられる、としています。
これらは板塀などに囲まれた祭祀場を模したものと考えられ、古墳時代に各地で行われた水に関わる祭祀を復元するうえで、欠かせない遺例となっています。
船と水。この古墳の埴輪は、二つの主題を持っています。
八十八基のうち、残ったのは三基
宝塚古墳は、もともと大きな古墳群の一部でした。
松阪市によれば、宝塚古墳群は伊勢平野を望む丘陵一帯の南北1キロメートル、東西1.25キロメートルに広がる古墳群です。昭和4年の鈴木敏雄氏の記録によれば88基が所在したとされます。
ところが「現在は付近一帯が住宅地となり、わずかに1・2・4号墳の3基が残るのみ」です。八十八基のうち八十五基が消えたということになります。
松阪市は、昭和7年当時における宝塚古墳周辺の古墳分布を現在の地形図に合成した図を公開しています。残った3基のうち2基が、国の史跡です。
宝塚古墳から出土したもの
宝塚1号墳出土品は平成18年6月9日に国の重要文化財となり、令和6年8月27日に国宝に指定されました。松阪市によれば278点(含附270点)です。当時の姿をよくとどめた形象埴輪が畿内以外で見つかる例は、めずらしいとされます。
船形埴輪
全長140センチ・高さ94センチ。9割以上が残る国宝。
囲形埴輪
3点が国宝。水の祭祀場を囲む板塀を模したとみられる。
家形埴輪
4点が国宝。床に槽・樋状、内部に井戸状の表現を持つ。
円筒埴輪
造り出しの周囲から140点が原位置を保って出土した。
形象埴輪
蓋・盾・柵・短甲・冠帽・靫・鳥など。附の埴輪残欠262点も国宝。
宝塚古墳と関連する古墳
宝塚古墳についてよくある質問
宝塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。松阪市も人物を特定していません。1号墳の被葬者は、近畿地方との深いつながりをもち、伊勢湾西岸を支配する立場の人物と推定されています。
宝塚古墳の大きさはどれくらいですか。
松阪市は1号墳を全長111メートル・後円部直径75メートル・最大高10メートルとし、2号墳を全長90メートルの帆立貝式古墳としています。
船形埴輪はどれくらいの大きさですか。
全長140センチメートル、高さ94センチメートルです。文化庁は全体の9割程が遺存する希有な例とし、船上に立飾りを立てる形は他に例がないとしています。
宝塚古墳はいつ作られましたか。
松阪市は1号墳を5世紀初頭、2号墳を5世紀前半頃としています。国の史跡の指定は昭和7年4月25日です。
宝塚古墳はどこにありますか。
三重県松阪市宝塚町・光町です。JR・近鉄松阪駅から鈴の音バスに約25分乗車し、宝塚古墳公園前下車、徒歩5分です。
宝塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
造り出し(つくりだし)
墳丘の脇に張り出した壇状の場所。まつりの空間とされる。
準構造船(じゅんこうぞうせん)
丸木船に舷側板を組み合わせて大きくした船。
導水施設(どうすいしせつ)
谷から引いた水を樋や槽で清める施設。
帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)
前方部が短く、帆立貝を伏せた形に見える古墳。
宝塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。